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部屋の入口に立つ長身の影をみて、あたしは一瞬体を強張らせる。
「ごめん、声かけたんだけど、聞こえてなかったかな」
広志さんが立っていた。彼はうっすらと笑みを浮かべていて、あたしは何か判らないけど不快になった。体を起こして小さな声で言う。
「・・・すみません、見つからないんです」
「そう」
もしかしたら本当にあるかもしれないけれど、これではもうタケルに聞いてみないと判らない。だけど彼は今いないし、広志さんには早く帰って欲しい。あたしは少し首をかしげながら彼に向き直った。
「見つけたら、送ります。それじゃ困りますか?」
台所の入口のところに立ったまま、広志さんはぽりぽりと頬をかいた。
「・・・うーん、まあ、もう気にしなくていいよ。モンブランを忘れていったのは偶然だったんだけど、丁度いいな、とも思ってたんだ」
―――――へ?あたしは無言で首を更に傾げる。丁度いいとは、一体どういうことだ。
鞄を足元に置いて、ブランド物のスーツで武装している広志さんが小さな声で言った。
「・・・・皐月ちゃん、俺のこと好き?」
「は?」
今度は声が出た。条件反射並みに早かった。
「俺と弥生が別れたくらいから・・・女を意識し出したんだろ?」
・・・えーっと、それは誤解です。あたしを変えたのはタケルだし、タケルが現れたのとあなた達が別れたのが偶然近かったってだけ。
心の中では一気にだだーっと喋ったけど、実際は簡単に答えた。
「いえ、たまたま偶然です」
広志さんは聞こえてなかったみたいに、あたしをじっと見詰めながら言う。
「前に会った時も思ってたんだけど、皐月ちゃん綺麗になったね。髪型も変えて・・・化粧もするようになったんだ?こうしてみると、やっぱり弥生と姉妹なんだな、似ている」
怖気が立った。
全身の毛穴が開いた気がする。ぶわって不快感が一気に背中を駆け上がって、思わず両腕を抱きかかえそうになる。だけど必死でそれに耐え、あたしはただ広志さんから目を離した。
絶対顔に嫌悪感が出ているに違いない!あたしはまた電話台に向き直り、モンブランを探すふりをする。ごちゃごちゃと物が入っている台ごとひっくり返したくなった。
万年筆万年筆、早く見つかって!そしたらこいつにつき返して出て行ってもらうのに――――――――
「――――また、会おうと思ってたんだ。君が俺のために綺麗になってくれたなら、本当に嬉しい」
・・・・いや、だから。
思わず振り返って違うって言ってんじゃん!と叫ぼうと思ったら、いつの間にか広志さんはあたしとの距離を縮めていてビックリした。
「うわあっ!」
「・・・・君も、俺に会いたかったんだろ?だから万年筆を隠したんだ」
「違います!」
「俺は、フリーになった」
「そんなことどうでもいいです〜!!」
「もう遠慮することないんだよ」
―――――――怖っ!この人、全く聞いてない。
あたしは冷や汗をダラダラとかきながら、電話台を放棄して壁伝いに逃げる。恐ろしくて背中をむけられないから目は彼から離さなかった。
「・・・見つけたら送りますから、どうぞ今日は帰って―――――」
小さく震えてしまう声で後ずさりながら言う。だけど広志さんは微笑を浮かべたままで、宥めるような視線を寄越すだけ。
どうしよう。どうしたらいい?こんな時はどうしたら―――――
「モンブランは気にしなくていい」
あたしは急いでテーブルを回って逃げようとした。ところが緊張して焦った足がいう事を聞かない。もつれて、台所の床の上に転んでしまう。
「うきゃあ!」
膝とお尻を打って、その痛さに顔を顰める。もう、転んでる場合じゃないでしょ!あたしったら〜!
焦るあたしをにっこりと見下ろして、広志さんは機嫌が良さそうな声で言った。
「怖がらなくてもいいよ、俺は無理強いをしたりしない」
彼は転んだあたしに手を差し出してくる。そんな助けは要らないから、人の話を聞けっちゅーの!
頭の中では暴言の嵐だったけど、口から言葉が出なかった。頭は大パニックで、いう事を聞かない体は細かく震えるばかり。
どうしよう。この人は激しく誤解していて、今のあたしではそれを解くことが出来そうもない。あたしが一人で暮らしてるのが判ってて、この人は来たんだ。玄関にいれるべきじゃなかった。ああ・・・どうしよう―――――――
あたしは這いずって逃げようとする。緊張で汗をかいていて、腕に力が入らない。
「かっ・・・帰ってください、帰って・・・」
広志さんが笑う声がした。すごく優勢に立ってるのが判っているような、傲慢さを感じる笑い方だった。
「どこにいくつもり?寝室?だったら俺が連れて行って――――――」
「・・・いらねーよ」
低い声が聞こえた。
ハッとして、台所の空気が止まったように感じる。
床を這いずっている格好のままで見上げたあたしと、あたしに手をかけようとして中腰のままの広志さんとが一斉に、入口に立つタケルを見詰めた。
「・・・え?」
広志さんがポカンとした顔で止まっている。
あたしが一人で住んでると思っていた家の中に別の人間がいたんだから、そりゃあ驚くだろう。しかも、えらく美形の男性が。一体どこから出てきた?って顔をしている。
タケルはスタスタと入ってきて机をまわり、あたしの両手を引っ張って起こすと、そのまま腰に手を回して引寄せ、呆然としているあたしの額に口付けをした。
額に感じる柔らかい唇の感触とあたしを包んだタケルの香りに、恐怖が一気に遠ざかったのを感じた。
・・・・タケルだ。帰ってきたんだ。
あたしは大きく息を吐いて、全身の力を抜いた。手をまわして彼を抱きしめる。その体の硬さや温かさが嬉しかった。
「・・・・あんた、俺の女、どうするつもりだ?」
タケルがハッとするような低い声で言った。どうやらかなり不機嫌らしい。
あたしを抱きしめるタケルを見て、広志さんはそろそろと体を起こした。混乱したような表情で、あたしとタケルを交互に見詰める。
「・・・俺の、女・・・?」
あたしの腰に回した手に力を込めて更に引き寄せながら、タケルが耳元で聞く。
「こいつ何しに来たんだ?」
だけどそれは聞こえてなかった。だってその頃、あたしは恐怖から解放されてようやく現実を迎え入れていて、今更ながら状況を把握して真っ赤になっていたところだったからだ。
だ〜だだだ抱きしめられてるうううう〜!!しかもしかも!今この人、お、お、お、俺の女って言ったあああああ〜!!!きゃあーきゃあー!!かーみーさーまああああ〜っ!!
彼の背中に回していた両手をパッと離す。今や違う緊張で、あたしの両手は汗だくだった。
急降下のあとの激しい上昇だ。今まさに、最新の絶叫マシーンに乗っているようだった。全身の血が一気に頭に向かってダッシュし、あたしはクラクラと眩暈に襲われる。
・・・ダメ、鼻血出そう。いやいや、何なら体中の穴から吐血しそう・・・。
「おーい、サツキ〜」
ちょっと呆れたような声で、タケルがあたしの頭をぽんぽんと叩く。
「聞いてるか?この男、何の用で来たんだ?」
「へ!?・・・あっ・・・ま、万年筆!あの、モンブランを忘れたって・・・」
絡まる舌を何とか動かしてそう言うと、タケルはああと小さく呟いて、あたしを抱きしめたままで長い腕を伸ばしてテーブルの引き出しを開けた。
「ほったらかしにしてあったから、そこに仕舞った」
彼はモンブランを出して、広志さんに放り投げる。
混乱した表情のままでもちゃんと投げられたモンブランをキャッチして、広志さんが掠れた声を出した。
「・・・皐月ちゃん、その人は彼氏?」
「そう」
あたしの代わりにタケルがさらりと答える。
あたしは真っ赤なままでタケルの胸元から彼を見上げながら、どこにいたの?と聞いた。
「家にいたよ。続き読んでて、そのまま寝てしまってた。物音がして起きてきたら、これで」
・・・・続き。ああ、まだあの大量の月刊漫画読んでたのね。
「・・・居たんだ。良かった〜・・・」
今度こそ安心して、あたしはそう呟く。タケルはあたしを抱きしめたまま、よしよし、と頭を撫でた。
そして、それで?と言いながら、広志さんを見た。その綺麗な顔を歪めて皮肉な笑顔を作ると、声に嘲笑を滲ませて言う。
「あんたはサツキのお姉さんの元彼だっけ?タイミングも考えずにバカみたいな失言して捨てれたばかりの。しかもそれってついこの間の話だったよなあ?なのに、姉が無理だってなら、今度は妹狙うことにしたってわけ?」
広志さんが青ざめた。
タケルは無表情な目を細めて口元だけで笑ったまま、トドメのように続けた。
「それって、節操なさ過ぎないか?みっともない。まるで盛りのついたオスだな」
その時広志さんが恐ろしい形相になったのを、あたしは確かに見た。今までの爽やかで精悍な顔つきのエリートサラリーマンはどこかに消え、どろりとした憎悪を体中から発散させて顔をいびつに歪ませている。
台所の空気が固まる。ぴーんって音が聞こえそうなほどだった。
「・・・・君にそんなことを言われる筋合いはない。私は失礼する」
タケルはどうぞ、と空いている片手で玄関の方を示した。
そして、そうだ、と呟くと、通り過ぎようとした広志さんに向かって言った。
「あんた、女性を口説く時はあんな迫り方しちゃ駄目だよ。相手が嫌がってるか怯えてるかどうかも判らないなんて最低だろ。一体今までどんな恋愛してきたんだ?ついでに、あんな感じじゃあんたは多分知らないだろうから教えてやるよ。スマートなキスってのは―――――――」
タケルはあたしの顎に指をかけて、持ち上げた。
「・・・こうやるんだ」
そしてゆっくりと、口付けをする。あたしはつい瞳を閉じる。どうせ身動きは出来なかったし、広志さんなんてどうでも良かった。
熱い舌で唇を割られてそのまま侵入される。前のような唇をひっつけるだけのものではなく、熱も唾液も分け合って、タケルは全身がとろけるような長いキスをしてくれた。
部屋の中に音が響き、温度も上昇する。
いつ広志さんが出て行ったのか、判らなかった。
あたしは夢中でタケルのキスに溺れていたから。
頭の芯がぼうっとするような、こんな丁寧で情熱的なキスは初めてだった。何度も角度を変えてくるから、終いには酸欠で倒れるかと思ったほどだ。
熱くなった全身を彼に預け、荒い呼吸を目を閉じたままでしていたら、タケルの声が耳の中で跳ねた。
「・・・・・全く、無用心だな、お前は」
あたしは目を開けて彼を見る。タケルは苦笑していた。
「男を簡単に、家にあげないこと。判った?」
―――――ハイ、以後気をつけます、ごめんなさい。
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