A

 翌朝、毎日7時に起こされるのが身についてきたあたしは、身動きが取れない窮屈さにいつもより更に早く目を覚ました。

「―――――・・・」

 なんだ、これは?と思って頭を捻ったら、真横にタケルの顔があった。

「!?」

 ぎょっとして仰け反る。

 折角ベッドの下に敷いた布団に寝たあたしの努力はさらっと無視して、また夜中に入ってきたらしい。

 がっちりと腕に抱きしめられていて、そりゃあ身動きが取れないハズなのだ。

 ――――――――・・・もうううううう〜!!!朝からまた血圧が上がるよう!何なのよ、この人、本当に!

 ジタバタする元気もなく、あたしはため息をこぼす。

 これで、しかも、この人と恋人になるわけにはいかないんだろうな、多分。

 昨日思い出したおばあちゃんの言葉にしてみても、きっとこれは期限付きの魔法なんだろう。ってことは、いつかは消えてしまう。このタケルはいなくなってしまうってことで・・・。

 そろりと後ろを向いた。

 間近で眠る美しい整った顔を見詰める。

 この人が、現実の恋人だったら。

 嬉しいだろう。ドキドキしたままキスだって出来るんだ。でも、この人にはしちゃいけないんだ。

 なら、今だけでもこの瞬間を楽しもうって思えないのが、あたしなんだよね・・・。

 包んでくれるこの温かい腕は、今現実なのに。

 そう思ったら、ぐぐっとこみ上げてくるものがあった。

 悲しくなってきそうだわ、ダメダメ。とりあえず今は起きて今日の現実に対処しよう、と言い聞かせ、あたしは自分の腰に回された腕を解こうともがいた。

「・・・ダメ」

 低くて掠れた声が聞こえてビクッと体が震えた。

「・・・まだ、時間じゃない」

 どうやらやつも起きたらしい。腕に更に力が込められた。

「・・・えーっとね。毎度同じ事を言うんだけど・・」

 あたしはコホンと咳払いをした。背中に感じる体温が気になって仕方がない。

「離れてくれない?」

「・・・ヤダ」

 ヤダじゃねーよ。泣きそうになってくる。

 好きでいるんだ、あたしは多分。漫画の葉月タケルでなしに、このタケルが。子供みたいに我儘でやんちゃで意地悪のタケルが。漫画を見て違和感があり、違うと思ったってことはそうなんだろう。

 現れてからほんの数日で、あたしの毎日はかき回されて、どっぷりと浸かってしまっている。彼に慣れ、同じ色に染められつつあるのだ。

 そして、多分、好きになった。

 その人に抱きしめられているのに。

 それなのに、これ以上はどうしようもないなんて。

「・・・・」

 ついに目からは涙が零れた。でも回された腕に拘束されていて、あたしはそれを拭くことが出来ない。

 鼻をすする。体が震える。

 少し、腕の力が緩んだ。と同時に、また声が聞こえた。

「・・・何で泣いてんだ」

 あたしは自由になった手で涙を拭く。左手に巻かれた包帯が、あたしの涙を吸い取る。

「サツキ」

 振り向くなんて出来ないから、あたしは横になったままで声を出さずに泣いていた。涙が止まらなかった。自分でも感情を持て余し、どうすればいいのか判らなくてただそのままで横たわる。

 頭の下に入れられてた腕も抜かれて、起き上がったタケルがあたしを覗き込んだ。

「どうした?」

 おーい、と彼は指でつんつんとあたしをつつく。両手で顔を隠したままで、何とか言葉を出した。

「・・・・すっ・・・」

「す?」

「・・・好きにならない、ように、頑張ってるの・・・。なのにどうしてこんな、だ、抱きしめたりするの・・」

 我ながらすごい鼻声だった。

 タケルは手を伸ばし、あたしの体を引き起こした。されるがままに起き上がり、二人で布団の上に座る。

「何でダメなんだ?好きになるのが」

 あたしは手の平の内側で目を開ける。

 だって。

 だって――――――――

「・・・あなたにかけられた魔法は、いつか終わるもの」

「だから?」

「え?」

 予想外の返答に、あたしは思わず顔を上げた。少し首をかしげたタケルがまだ眠そうな目であたしを見ている。

「だから、どうしてダメなんだ?」

「――――――いつか消えてしまうかもしれない人を好きになったら・・・後が怖いもの・・・。あなたが消えてしまったらもう、立ち直れない、かも・・・」

 タケルは一つ欠伸をして、それから頭に片手を突っ込んでかき回した。

「・・・そんなの、俺じゃなくても、生きてる人間なら誰でも同じだろ」

 あたしは、ハッとした。

 息をするのを忘れたくらいに。

 タケルは窓から入ってくる春の朝の光りをぼーっと見ながら、だるそうに言った。

「生きてる人間は、いつ死ぬか判らない。それに別れてしまったら結局消息不明になるじゃないか。どこにいるのか、生きてるのかすら判らなくなる。それとどう違うんだ?」

 ・・・・・だって、だって。そりゃあそう、だけど・・・。

 あたしは手をのばしてティッシュを箱ごと取り、鼻をかんで涙を拭く。

 ・・・悔しい。確かに、言われて見れば、そうだね。あたしは大好きだった元彼の居場所や消息なんて今は全然知らない。

 あの別れだって、キツイし痛かった。それに確かに色んなことを変えてしまったけれど、今だってあたしは生きてるし、ご飯も美味しく食べてる。

 いつ死ぬか判らない。

 いつ消えるか判らない。

 不変じゃないのは、この世の全てのものが同じ条件だ――――――

 おばあちゃんの笑顔が浮かんだ。

「壊れ物なのよ、世界の全ては。わかるかしら、皐月ちゃん?」

 って、おばあちゃんはよく言ってた。

 ゼラニウムを大事に育てながら、あたしの髪を結ってくれながら、お月様を並んで見ながら。

「いつか壊れるの。だから大事にするし、こんなにも愛おしいのよ」

 あたしは何度目かのティッシュを引き抜いて、また浮かんできた涙をふき取る。

 そうかあ・・・恋愛だって、一緒なんだ。

 いつまでも一緒に居たいけど。

 それだけはこの世界では叶わない。

 だから結婚式だって、『死が二人を分かつまで』って言うんだし。死ぬのは、結局一人だから。その時に、必ずお別れはくるのだから。

 タケルはいつか消えてしまう。おばあちゃんの魔法はいつまでも続かない。だけど、それがいつなのかは、あたしはまだ知らない・・・それは普通の男相手でも一緒だって、彼は言ってるのだろう。

 またぽろぽろと涙が落ちた。

 あたしは霞む視界でぼんやりと目の前に座る男を見詰める。

 ・・・・あたし、好きでいて、いいのかなあ・・・。

 タケルの面倒臭そうな声が聞こえた。

「・・・また泣いてる」

 そして欠伸。

 目の前で泣いてる人間がいるのに普通に欠伸出来るって、凄いかも、と思ったら、何だか笑えてきた。

「・・・ふふ・・・」

 涙を拭いてあたしは笑う。きっと酷い顔だろう。でも彼は、それは言わないんだろうと判る。いつもの意地悪はこんな時は言わないのだろう。

 この、タケルは―――――――――

「――――――で、どうするの」

「え?」

 タケルが頭から手を抜いて目を擦り、あたしを見た。

「まだ、好きになるの我慢するのか?」

 あたしは笑うのをやめた。恥ずかしくなったのだ、急に。何だか判らないうちに、告白タイムになってない?あれ?何で、どうして?一体いつの間に?

 彼はあたしを見ている。

 その、長い睫毛に縁取られた綺麗なアーモンド形の茶色い瞳に吸い込まれるような感覚で、あたしは思わずぽろりと零した。

「・・・・初めから、多分、好きだったもん・・」

 呟いた声は小さかったけど、彼には聞こえたようだった。

 タケルは完全に眠気から覚めた顔でにやりと大きく笑って言った。

「うん、知ってたけど」

「え?」

 何だと?とあたしが思っているうちに、両手を布団について四つんばいになったタケルがじりじりと近づく。

 あたしは思わず後ろに下がる。

 でも小さな部屋で、床に敷いた布団の上だから、すぐに壁に背中がぶつかった。

「・・・・これでやっと、好き勝手出来るな」

「は?!」

 追い詰められて、あたしは目を見開いていた。好き勝手!?好き勝手って!?そんなセリフ、今までは我慢してました、みたいな言い方じゃない――――――

 あの大好きな綺麗な顔が、またまた間近で迫ってきている。鼓動が一気に跳ね上がったのを感じた。

 キラキラと茶色の瞳を輝かせて、何かを企んでいる顔でタケルが更に近づく。

「・・・期限つきだって構わねーよ。その方が―――――」

 吐息が頬にかかる距離で、あたしはついに辛抱ならず目を伏せた。

「――――――――余計に激しく、燃える」

 震えるあたしの唇に、別の温かくて柔らかい感触。

 胸の奥底で、漫画みたいな赤いハートマークが生まれたのが判った。それは飛び跳ねて、あたしの全身に血液を送り出す。

 押し当てるだけのキスを数回してから顔を離し、タケルが笑った。そしてゴージャスなその笑顔のまま、瞳を細めて言った。

「後にも先にもない激しいものになる」

 あたしは光が差し込む部屋で、男が微笑むその綺麗な光景に呆然としていた。頭には酸素が足りず、涙が残る視界はユラユラと揺らめく。体温はどんどん上昇していて、彼の言葉を聞き逃さないように全身を聴覚にしていた。

「・・・大恋愛ってやつだ」


 差し出された手がゆっくりと絡む。


 その手も指先も、あたたかかった。





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