72
『灰崎祥吾君、ですか?』
そう尋ねると真田コーチは「そうだ」と頷く。
連絡があると職員室に呼ばれて来た私は、その覚えのない名前を告げられる。真田コーチが言うのだからバスケ部員なのは確かなのだけれど、流石に100人を超える部員全員の名前は把握できていない。
「今日からその選手に1軍に合流してもらう。放課後、第3体育館から連れてくるように」
『え、第2体育館ではなくてですか?』
「ああ。3軍から昇格することになったから間違ってはいない。頼んだぞ」
『分かりました』
失礼しますと挨拶してから職員室を後にする。昼休みのせいか、職員室の中とは打って変わって廊下は賑やかだ。
そのまま教室に戻るべく廊下を歩く。丁度開いている窓から風が入ってきて、それが頬を撫でるようで心地良い。
「お、名前」
『虹村君』
廊下を曲がった階段の踊り場で、階段を上ってきた虹村君と会った。手にはパックのコーヒー牛乳があるので、どうやら購買に行っていたようだ。
「コーチの話終わったのか?」
『うん。今日から1軍に上がってくる1年生がいるらしいから部活の時に連れてくるようにって』
「へえーこの時期にか」
そのままコーヒー牛乳を啜る虹村君に、隣で頷く。
彼の言う通り3軍からいきなり1軍に入るとういだけでも驚くのに、今は昇格テストも何もない時期。だから、これは異例と言ってもおかしくはない。
一体、どんな選手なのだろう。
「ま、生意気じゃなけりゃいいな。ただでさえ1年は面子が濃いヤツらばっかだからな」
『ふふ、そうだね』
思わず笑ってしまったのは、そう言いながらも何だかんだで面倒見が良いのを知っているから。半分は本音かもしれないけど、実際言うほど困っていないのは分かり切っている。
「なーに笑ってんだよ」
『特に意味はないよ?ただ素直じゃないなあーと思っただけ』
「…ンな事ねーだろ」
そう言ってまたストローに口を付けるのだから、どうやら自覚はあるみたいだ。それがおかしくてまた笑ってると、空いている方の手で髪をぐしゃぐしゃと乱される。ちなみに、これも照れ隠しの一種なのだと最近分かってきた。
だから結局どんな子でもきっと大丈夫だろうとこの時点では思っていた。
*****
「なあ今日こそ携帯番号教えてくれよ」
『…灰崎君、ちゃんと休憩しないと最後まで体力保たないよ』
「教えてくれたらちゃんと休むけど?」
肩に腕を回され、顔を近づけてそう言われるので、溜息が出そうになる。最近毎日続いているこのやり取りに、もうすっかり参っている。
先日、真田コーチに言われた通り、私は第3体育館に灰崎君を迎えに行った。1軍の練習に合流してもらう前に説明も兼ねてロッカーなどを案内したのだけど、その時からずっとこの調子なのだ。
『とりあえず離れて。仕事できない』
「休憩なんだから一緒に休めばいいじゃん」
全く聞く耳を持ってくれないので、今度こそ本当に溜息が出る。選手のみんなが休憩している時こそマネージャーが動かねばならないと言うのに、これでは仕事にならない。
「名前せんぱーい!洗濯そろそろ終わるので、干すの手伝ってもらえますか?」
『あ、うん!行こっか!』
どうしたものかと考えあぐねていたところで、さつきちゃんに呼ばれた。助かったと思い回されていた腕を解いてさつきちゃんのもとへ走る…その際後ろから舌打ちのような声が聞こえたのは気のせいだと思っておく。
『ごめんね、さつきちゃん』
「気にしないで下さい。むしろ先輩大丈夫ですか?凄い絡まれてますけど……」
『正直結構参ってる。だから声かけてくれて助かったよ。あのままだと業務に支障出そうだったから』
足早に体育館を出てランドリーへと向かう。部員数に対して圧倒的に数の少ないマネージャーはそれだけやることが多い。だから一分一秒たりとも無駄にしたくはない、サボるなんて言語道断だ。
そう思ってお礼を言うと、何故かさつきちゃんに苦笑いで返される。
「そういう意味じゃないんですけど…あ、あと呼んだのは虹村さんに言われたのもあって」
『虹村君に?』
どうして虹村君が?と思ったけど、今日の昼休みに大丈夫かと訊かれたのを『ちょっと困ってはいるかな』と答えたから、助け舟を出してくれたのだろう。実際助かったし、とても有難かったので後でお礼を言わなければ。
「でも先輩、本当に気を付けて下さいね?灰崎君てあんまり良い噂聞かないので…」
洗い終わったビブスやタオルを洗濯機の中から取り出そうとすると、その不安げな声に手を止める。隣を見れば、声と同じように心配そうな表情をするさつきちゃんと目が合う。まだ付き合いが長いわけではないけど、ほぼ毎日顔を合わせている彼女のこんな顔を見るのは初めてだ。
「灰崎君、1年生の間で素行が良くないって結構有名なんです」
『あー……それは何となく分かるかも』
さっきの態度もそうだけど、会った初日、つまりは第3体育館に行った時も中々だった。
まず、私が体育館に行った時点で、まだ来ていないと3軍を指導する松岡コーチに申し訳なさそうに言われた。それだけでも十分なのに、話によるとどうやらそれが今日に限ったことでもないというのだから益々驚くしかない。それなのに本人は何の悪びれもなさげに平然と後から入って来るのだから最早唖然とするしかない。
そして極めつけは、声をかけるなり物凄く鋭い目で睨みつけられた。
初対面であんなに睨まれたのは初めてだ。しかもその後急に態度が変わってもあの感じなので、あまり良くはないと想像するのは難しくない。
『でもバスケは上手なんだよねー…』
ここ数日、間近で見た彼のプレーは、先に1軍入りしていた4人に引けを取っていなかった。洗練されているというよりは自己流のプレイスタイル。それでも上手いのは確かで、たぶん即戦力になるのは間違いない。
「そうですけど…もし何かあったら…」
『心配してくれてありがとう。でも大丈夫だよ』
一応私先輩だし、と言ってさつきちゃんの肩をポンポンと叩く。顔を覗き込めば変わらず不安そうに揺れる瞳に少し苦笑いだ。
自分のことを心配してくれる後輩がいるというのは嬉しい。だけど必要以上に気に病ませてしまうのは申し訳ないし、本意ではない。先輩としてはそれは避けたいのだ。
『本当に大丈夫だから。何かあったらすぐにさつきちゃんに言うし』
「…絶対ですよ?」
うん、と再び目を見つめて頷けばはにかむさつきちゃん。やっぱり笑っている顔が一番よく似合う。
『よーし、洗濯物干しちゃおうか!』
「はい!」
元気のいい返事に安心して、それからはいつも通りに業務をすることができた。
さつきちゃんにああ言ったのは、どこかで大丈夫だと思っている自分がいたからだ。心配してくれるけど、きっと何もない、あるはずがないと。
だから、まさか本当に何か起きるなんて想像すらしていなかった。
(1、2、3……今日は9人か。よし)
人数をしっかりと確認してから体育館を出る。
向かうのは給湯室で、自主練組のドリンクを作るためだ。まだ初夏と言っても最近は暑くなってきたし、バスケは運動量が多いのでそれだけ体力も消耗する。だから水分補給をこまめにしてもらわなければいけない。もし万が一にも脱水症状になったら大変だ。
それで自主練で残っているメンバーに作ることになり、これがすっかり私の業務という名の習慣になっている。習慣と言っても苦では全くない。
「青峰!ボールぶん投げんじゃねェっ!」
耳に届くその声に頬が緩む。これを聞くのも習慣の一部だ。
苦に感じない理由は1つしかない。一生懸命バスケに打ち込んでいる人達の力に少しでもなれるなら、私にとってそれは負担でも何でもない。出来得る限りのことをしたい、マネージャーとして部員の1人として。
『頑張らなきゃなー…』
そう呟きながら給湯室の明かりを点けようとした──はずだった。
「ふーん、何を頑張んの?」
独り言のつもりだったんだから本来返事があるはずない。それでも確かに、覚えのある低い声が耳を打つ。しかも突然スイッチに伸ばしていた左手を掴まれぐいっと前へと引っ張られる。
『…放して、灰崎君』
「やっと2人になれたのにそれはつれないんじゃねーの?」
また耳元で小さく低い声で囁かれ、反射的に身動いで顔を背ける。そんな私の反応が面白いのか灰崎君は喉の奥でくつくつと愉しそうに笑っている。こっちは全くもって笑えないというのに。
日はとっくに暮れていて、電気も点けられなかったから校舎の明かりが所々にあるくらいで薄暗い。それでもはっきりと顔は認識できる。試すような鋭い目に薄い笑みを浮かべた彼の顔…お世辞にもあまり良いとは言えない。
『どうしてここにいるの?体育館に残ってなかったからてっきり帰ったと思ってたんだけど』
「だーからァ、2人になりたかったんだって。他に邪魔されねぇように」
『そんなに2人になる必要性ある?』
まだジャージを着ているのを見ると多分練習が終わってからそのままここに来たのだろう。でも少なくとも私にはその必要性は全く感じられないのだが。
呆れる私とは対照的に彼はそうではないらしい。「あるね」とニヤリと笑うのだから内心で溜息をつくしかない。
「いい女がいたら仲良くなりたいじゃん?それなのにいっつも邪魔が入ってよォ」
『別にそんなことはないと思うけど』
「いーや、あるな。特にあの……そういやアンタ彼氏とかいんの?」
『……いるって答えたら?』
それで引いてくれるならとてもありがたい。だけど、そう期待を込めて試しに言ってみたのが良くなかった。私の言葉に灰崎君は目を見開いたかと思えば、それはほんの一瞬で、
「そっちの方がもっといいな」
ぺろりと指を舐めて言うその姿に、頭が益々痛くなる。
そもそも、そっちの方がいいとはどういう意味なのか。普通なら相手がいると知ったら諦めるものではないのだろうか。まあ実際はいないのだけど。
そんな私の心を読んだのか灰崎君はおかしそうに口の端を上げる。
「人が食ってるもんってうまそーに見えるだろ?それと同じで他人のモンの方がよく見えんだよ」
『……隣の芝生は青いってことね』
我ながらそれでまとめるのもどうなのかと思うけど、今はこれ以外に的確な言葉が見つからない。
というか、本来嗜好は人それぞれだから他人がどうこう言うべきではないけど、学年が1つ違うと言っても彼と私は同じ中学生のはずなのに…どうしたらそんな事になるのだ。
「どーいう意味だ?」
『そのまんまの意味。…それより、そろそろ手を放してくれない?』
掴まれている左の手首をいい加減離してほしかったのだけど、どうやらそれに気を良くしたのか「どうしようかなァ」と返される。どうやら離してくれる気はないらしい。
そっちがその気なら私にも考えがある。これ以上仕事を滞らせるわけにもいかないし。
『だったら放させてもらうね』
「へえーできんの?」
余裕の表情を見せる灰崎君。できるわけがない、そう目が言っている。
まあ力で敵うとは到底思わないだろう。女子では背が高い方に入る私だけど、大差ではないとはいえ既に私よりも高い身長。それに、少し遅れてとはいえ1軍入りした実力も考えれば力だって普通の中学1年生の比ではきっとないだろう。
でも、正攻法の力が全てとは限らない。
『まあね』
言った直後、掴まれた左手を軽く捻り、空いていた右手で灰崎君の上腕を掴んで押しながら右足を彼の膝裏にかける。そうすると一気に身体のバランスが崩れるのだ──教えてもらった通りに。
そのまま重心は後ろへと倒れ、灰崎君は床へと座り込む。
「今、なにが…」
不意を突かれ何が起きたのか頭が追いついていないのかキョトンとしていて、さっきまでとは全然違うのだから少し面白い。
『私から1つ忠告しておくと、』
そう前置きの言葉を言いながら、まじまじと私を見上げる灰崎君に目を合わせる。
『うちの部は強豪校で、灰崎君が1軍にいるみたいに実力が重視される。でもね、』
口の端が上がるのが自分でも分かる。たぶん、今かなりイイ顔をしている気がする。
誰かさんの影響だろうか。
『それ以前にここ、運動部だから。上下関係はしっかりしてるの。私はそこまで気にしないけど、もっと血の気が多いというか……まあ言動には気を付けるべきかな』
「ンだよそれ…」
『先輩の言う事は聞いといた方がいいってこと』
軽い調子で言う私に、面白くないという表情。
それに思わずふふっと笑えば益々不服だと言わんばかりの顔をする。案外こういう所は分かりやすい性格なのかもしれない。
『さてと…話はこれくらいにして、ドリンク作るから手伝ってね』
「はぁ?何で俺がっ…」
『先輩命令。というか灰崎君の所為でかなり時間ロスしてるんだから、これくらいしてくれてもいいと思うんだけど』
「さっき自分はそういうの気にしねぇって言ったばっかだろっ!」
『物事に例外はつきものでしょ。ほら、さっさとやるよー』
「…ったく、わーったよ」
ぶつぶつと文句を言いながらも諦めたのか、どうやらちゃんと手伝ってはくれるらしい。何というか…手のかかる弟ってこんな感じなのかもしれない。
『あ、作り終わったら運ぶのも手伝ってね』
「へいへい」
『というかもういっそ練習していったら?』
「…アンタ、意外とイイ性格してんな」
『そう?』
そんな話をしながら、この後も結構手のかかることになるこの後輩と横に並んでドリンクを作ったのであった。
ちなみに、意外だった点で言えば彼は結構手先が器用だったので実はさつきちゃんよりも上手くドリンクを作ったことは彼女の名誉のためにも今日あった事と共に秘密にしておくことにした。
(おまけ)
『虹村君お疲れ様。はい、ドリンク』
「おーサンキュ…」
『? どうかした?』
ボトルを渡すと何故か私のことをじーっと凝視してくるのでそう尋ねる。顔に何かついているのだろうか。それならぜひ早く教えてほしい。
「いや、何でお前灰崎と一緒なのかと思ってな。戻って来んのも遅かったし」
『ああー…簡潔に言うと、近くにいたから手伝ってもらったの。遅くなったのはちょっと手間取って』
「……へえー」
あ、これは絶対納得していない。言い方もだけど、それ以上に目がそう言っている。まさに目は口ほどに物を言う、だ。
『まあ、たぶんもう変に絡まれることはないと思うから』
「…やっぱ何かあったのか」
『あったけど大丈夫。虹村君のお陰でね』
「俺のお陰?」
『うん。ありがとう虹村君』
「!…お、おう……」
このありがとうには2つの意味が含まれていて、でもお礼を言えた私はそれにすっかり満足してしまって。
だから、虹村君の顔が少し赤くなっていることには全く気付かず、
「(…ふーん。そういう事か)」
そんな私達を見ていた灰崎君が一人そう思っていたことも当然知る由もないのであった。
【←prev】*【next→】