当日は朝食を終え、朝早くから火付盗賊改方は全員で城を見張っていた。最初数人が念のために町の方を見回りしていたが、農民の姿だけがなくどこか閑散としていた。武家や商人に農民の行方を尋ねても、青い顔をして知らないと突っぱねるだけだった。これは下手に兵を分散させるより、城へ集中した方がいいだろう、というのは安形の考えだ。 ちなみに彼は局長代理であり、本当の局長は別にいる。その本人はというと、隣国の偵察へ行っていた。今回はあくまでも自国の農民の暴動であり、向こうがどう動くかはわからない。行って今更どうにかなる訳ではないが、局長も最高責任者としての務めを果たしにいった。 そうなると、現場の指導者はいつも通り安形になる。今回はこっそり盗み入ることはないだろう、来るなら鬱憤を晴らすように正面から来ると狙いをつけ、隊員を配置していた。百人近くが正門、残りは勝手口と裏門にいる。 安形は正門前で仁王立ちしていた。納税の日なので本来ならもう米や野菜が運び込まれてくる筈だ。しかし一向にその気配はなく、誰一人として税を納めにくる農民はいなかった。 のどかな青空なのに、どこかで息を潜めて暴動を企んでいるのかと思うと寒気がする。榛葉は自慢の亜麻色の髪を一つに束ね、正門に凭れた。 「いつ来るだろうね」 「もしかしたら夜の奇襲を狙っているのでしょうか…」 向こうだってこちらがある程度動いているのは気付いているだろう。だとしたら明るい真昼間ではなく、夜の方が仕掛けやすいかもしれない。しかし夜の闇はこちらも都合が悪いが、向こうも同じだ。 戦慣れしていない農民なら尚更だろうが、背景に隣国が絡んでいるのだ。どう出てくるか見当もつかない。 「こっちの集中力が切れるのを待ってるのかもな」 安形が憮然と空を見上げる。 何かが起こらなければ、こちらから仕掛ける訳にはいかない。お役所仕事とは辛いものだ。 待つだけというのは、以前の蔵泥棒の時もそうだが、体力的にも精神的にも消耗する。前回はこちらの気配を悟られまいと、客間に百人近くが籠っていたのに比べたらましかもしれない。それでも緊張は以前よりずっと張りつめている。 風が木々を揺らしても、鳥が鳴いても敏感に反応して振り向く。安形を始めとする隊員達は、門を守る修羅のように構えて待ち続けた。 町は嵐の前のような静けさに包まれていた。 秋口の夕方は昼間とは違い、うすら寒い。項を冷やす木枯らしが鳥肌を立たせる。 長い降着状態が続いていた。さっき日が傾き始めたかと思えば、もう闇が空を西から蝕んでいる。黒い幕の中に残る赤焼けを見ながら、椿は子供の時を思い出した。 安形に助けて貰った日から、十年経ったのだ。憧れた人と同じように刀を携えて戦う。感慨深くもあり、どこか夢でもみているようだった。 「椿、暫く俺見張ってるからお前休憩行ってこいよ」 安形は棒になった足を踏みしめながら、ぼんやりする彼女を気遣った。 昼からは配置の数を減らし、交代で見張りをしている。無駄に体力を消耗をしてはいけないという安形の配慮であった。 休憩中には緊張が切れて居間で寝ている者もいた。それほどに、皆疲労困憊しているのだ。 「いいえ、僕はさっきも行きましたので大丈夫です」 「でも昨日無理させたからな。体つらいだろ」 周りに聞こえないよう、耳打ちする。耳たぶを掠める吐息が昨晩の激しい情事を思い出し、椿は顔を赤くした。 「そ、そうですね。確かに体が疲れているのはあります。でも…」 今まで手前までの行為はしていたと言えど、男性器を受け入れるのはまた別の話である。正直椿は膣が擦れるような痛みが若干あったし、まだ中に入っているような異物感もあった。 椿は横に立つ安形の手を取った。 「…なるべく貴方と一緒にいたいんです」 安形も強く手を握り返した。暗くなり、周りの隊員達が農民のことに集中していたのが幸いで、誰にも気付かれずに済んだ。 もう本格的に夜が襲ってくる。いつ来てもおかしくはない。椿は一時でも離れたくなかった。 只の農民の暴動だけなら、ここまで脅威にはならなかっただろう。しかし今回は隣国との政治が絡み、何よりもあの希里がいるのだ。今まで一緒に戦ってきたからこそ、彼の実力は承知していた。味方だと頼もしいが、敵だとこんなにも恐ろしい。 椿はどうしても、もう一度彼と話をしたかった。主や友人には戻れなくても、この戦争を止めて欲しかった。 風が泣いているように吹き抜ける。突然、城の前方が明るくなった。人魂のような灯りが一つゆらゆらと浮かび、そこからどんどん尾が伸びていくみたいに灯りがつく。 幽霊でも襲ってきたのかとぞっとしたが、赤々と光るそれは松明だ。闇に乗じて農民がすぐそこまで来ていたのだ。かなりの人数、五百はざっといる。これだけ来ていて気付かなかった。彼らは無言で、戦争に意気込んでいるというよりは、怨念を抱いてそぞろ歩いている。 「……っ!」 松明で照らされた農民の怒りの表情が剥き出しになる。飢えで痩せこけ、眼窩が落ち窪み、髪も服もボロボロだ。褌一丁で鎌を引き摺る者もいれば、死んだ赤子を抱く女もいた。老若男女様々なのに、皆が一様に同じ顔をし、言っては悪いがまるで妖怪行列だ。 椿の背筋が凍る。無言の圧力が今まで何より恐ろしく、逃げ出したくなった。しかしもうここは戦場なのだ。いつまでも甘えてはいられない。 椿は安形の手を外し、刀を選んだ。安形も、皆も、ギラリと光る切っ先を同じ方向に向けた。 「総員、突撃!」 役人達の怒号が月夜に響いて木の葉まで揺らす。 駆け出し、砂塵が渦を巻く。数は向こうが勝るが、戦いでは火付盗賊改方の方が圧倒的に有利だ。敵を次々に倒していく。 だが前衛にいたのは確かに農民だったが、後からは明らかに戦い慣れた侍や忍者が混じっている。多分隣国からの使いだろう。苦戦を強いられ、血飛沫が顔に飛んでくる。 倒れていくのが敵か味方かもわからない。 振り返る暇もない。 ただ突っ込んで行く。 そこへ、松明の光々とした灯りではなく、鈍い光が走った。見覚えのある光、銀だ。椿はその銀を目で追った。 「キリ!」 目にも見えない動きが止まる。荒れる人混みに立っていたのは、いつもの忍装束を着た希里だった。上から下から溶け込むように真っ黒で、手首に巻いている包帯と銀髪だけが浮いて目立った。顔は口布に覆われ、鋭く細めた目は椿ではなく、横にいた安形を睨んでいた。彼は静かに苦無いを構える。 「局長代理、安形惣司郎。お命頂戴する」 周りが叫び声がこだまする中、希里の低い声だけが耳に届く。椿は彼の元に駆け寄ろうとしたが、希里は彼女などいないように横を通り抜けた。まるで一陣の風が吹いたみたいに、椿の束ね髪が後方に靡く。 その先を見ると、希里は安形に真っ直ぐ飛び込んでいた。 「…っ…!」 安形は両手から繰り出される苦無いを刀で制した。力比べになる前に、希里が弾いて後ろに飛ぶ。空中でくるりと一回転し、持っていた苦無いを投げつけた。一つは防御したが、一つは安形の頬を掠める。彼は額にうっすら汗を流していた。 「謀反とは随分だなー忍者」 「黙れ」 希里は懐から短刀を取り出し、木の幹を足場にして矢のように突っ込んでくる。カン、カン、カン、と二人が攻防の火花を散らす。他の連中は自分も戦いながら、彼らの戦いを固唾を飲んで見守っていた。 局長代理と忍。しかし実力では大将同士。下手な手助けなど、こちらの方が危ない。椿は何も出来ない自分をもどかしく思いながら、自分の目の前の相手を蹴散らしていく。 「……このすっとこどっこい!」 安形は程よく防御出来るよう距離を取っていたが、一気に間合いをつめた。高めに構えた刀で希里の肩を狙う。一つの短刀で防いだが勢いあまって手から飛んでいき、刀が首を斬りつけた。 「っ!くそ!」 深くはないらいが、血流が集中しているそこは少しの切傷でどんどん血が溢れている。手当てをしなければ出血多量で意識を失うか、下手したら死ぬだろう。 希里はどちらにしろ一旦引くしかなかった。勿論それを見抜いた上での攻撃だったので、安形がこの好機を逃すわけない。 引き下がろうとする希里を追い掛けたが、安形は突然胸を押さえてよろめいた。 「……っ!くっ…」 はあはあと息を吐き、汗がどっと流れている。榛葉は裏門に回っていたので、発作だと椿だけが気付いた。 病気の事情を知らない希里は罠かと訝っていたが、安形は一向に動かない。理由はわからないが好機が逆転したのだ。後退りしていた足が彼に向かう。希里は残っていた短刀を大きく振りかぶり、蹲る彼の頭上へ落とそうとした。 「局長!」 椿は刀を捨て、安形の元に走った。彼を庇うように抱き締める。希里は咄嗟に軌道を逸らしたが、椿の肩を斬ってしまう。 「……いっ、う!」 椿が仰け反る。彼女の傷もまた深くはないが、着物が破れ、肌が露になる。そこには以前希里を庇った古傷があり、その上を斬りつけていたのだ。 希里は皮肉にも、自分を助けて尊敬し始めた証を、自らの手で消したのだ。 「っ…」 希里は思わず苦無いを落とした。血油のついたそれは大分重いらしく、ゴトンと大きな音がした。 「椿、すまねえ…」 「僕は大丈夫です。局長こそ発作は?」 力なく笑う安形を、椿は再び強く抱き締めた。希里の一瞬怯んだ表情が、また険しくなる。 彼は手を伸ばし、椿の首根っこを掴んで二人を引き離した。 「…キリ、何を!」 椿が足掻いても意味なく、子猫のように肩に背負われる。希里は彼女を抱えたまま、近くの大木に飛んだ。 「椿!!」 安形は膝が崩れたまま叫んだ。 希里が鷹のような目で彼を睨んだ。 「こいつは人質で預かる。生きて返して欲しけりゃ撤退しろ」 椿は希里の胸を殴るがびくともしない。 「局長!僕は平気です。言うことを聞いては……!」 希里は喚く彼女の首に首刀を決めた。椿の目が溢れそうに見開くが、すぐに閉じて意識を失った。希里の肩の上でだらりと力をなくす。 安形は歯軋りをした。 「…やめろ!」 しかし彼は立ち上がることすらままならなかった。荒い呼吸を繰り返している。 椿を追い掛けるどころか、今敵に狙われていないだけ幸いなのだ。周りの隊員達が何故か動けない安形まで敵を行かせないよう、くい止めているのだ。だが彼らもそれに手一杯で、椿の救出にまで到らない。 安形は鈍く睨んだが、希里は介せず彼女を抱えて夜空に飛び立った。本当に鷹のように、鮮やかな軌道を描いて消えていく。 「椿!」 安形は刀を杖代わりにして立とうとする。しかしどうしても力が入らず、地面に再度ぐしゃっと膝をついた。刀を何度も土に突き刺す。それも弾き、転がっていった。拾おうとすると、前のめりに倒れる。 「…こんな時に、発作なんか起こしてんじゃねえ……。言うこときけよ、くそっ!」 安形は自分の胸を引っ掻いた。爪に血が食い込む。 しかしそれでも彼は動けないでいた。 「……う」 椿が目を覚ました時、全身が軋むような痛みが走った。外傷は先程希里につけられた肩だけで、血は止まっているもののじくじくとする。全身の痛みは、両腕を縄で拘束されて吊るされていたからだ。ひび割れた天井に縄を引っ掻ける金具があり、そこから下ろされている。足はかろうじて爪先が届くくらいで、自分の体重で縄が食い込んでいく。血が止まって手のひらがひんやりしていた。 「…ここは」 血が止まっているだけではなく、部屋全体が気温が低い。中は壁も床も石造りで窓もなく、お粗末な机が一つあるだけだ。そこには短刀や何に使うか想像のつかない道具が散らばっていて、どれにも血がついている。椿がぞっとしていると、目の前にあった扉がギィと鈍い音を立てて開いた。 「起きたか」 希里が平然と入ってくる。首に包帯を巻き、自分で手当てをしていたのだろう。椿は一歩踏み出そうとしたが、縄がそれを許さなかった。 「ここはどこなんだ?」 「城の地下牢だ。城の人間は使ってないが、俺が捕虜の拷問用に使っている」 希里は椿のすぐ前に立った。 「昔の話だけどな」 椿は彼を睨んだ。だが憎しみや怒りではなく、宿るのは純粋な悲しみだった。 不安そうに長い睫毛が震え、金色の瞳が希里を鏡のように映し出す。 「…本当に寝返ったのか?ずっと一緒に戦ってきたじゃないか」 希里は口布をするりと外し、床に捨てた。顔が見えても相変わらず感情が読み取れない。 「戻ってきて欲しいか?」 「当たり前だ!」 椿は声を上げた。しかし希里は無表情のまま、彼女の顎を掴んで上へと向かせた。以前した時のように無理矢理唇を重ねる。椿は振り払うことが出来ず、懸命に口を閉じたり頭を振った。 「…ん、ぅっ…」 しかし頭を固定され、口に指を引っ掻けて強引に口が割られる。そこから希里の舌が侵入してきた。 「やめ…」 抗議の声をあげようとすれば、その舌が絡め取られる。奥に引っ込めても追い掛けられ、噛みつこうにも引っ掻けた指が邪魔だった。 逆に希里が椿の舌を捕まえた後、歯を立て吸った。 「っう……ふっ、ん…」 長い間、息も出来ないくらいに口内を貪られる。ようやく離れる頃には二人の唾液が橋を作った。 ぽた、と石造りの床に落ちて染みを生む。 「あんたが、俺を選んでくれたら戻る。だから…!」 吊るされた彼女の肩を掴んで揺さぶる。口調は強いのに、希里は泣き出しそうだった。 彼の心痛を理解し、椿も泣いてしまいそうだった。彼女は拒否の意で首を振った。 「…僕は心も体も、局長に捧げた。君の気持ちには応えられない……」 この場だけやり過ごす為に誤魔化すことなど、椿には出来なかった。彼がどんな想いで隣国側に回ったかを考えれば、不誠実な言葉が何より残酷だ。 椿は唇を結び、涙を堪える。希里は手を離し、立ち竦んでいた。彼が無表情に戻る。希里は懐から、何本目かわからない苦無いを取り出した。 「何を…」 切っ先が彼女に向けられる。椿は目を瞑った。 殺される、と思ったが苦無いの衝撃は肌ではなく着物へ走った。襟からさらしごと上下へ裂かれる。開かれた着物から、胸が晒し出された。 「……っ!」 椿は身を捩ったが、その動きは僅かに肌に張り付いていたさらしが落ちただけだ。着物が元に戻るわけがない。 希里は床に苦無いを放り投げた。 「…だったら、奪うまでだ」 希里は椿の首筋へ舌を這わせた。ねっとりと唾液を落とし、噛みついて痕を残す。首筋から鎖骨にかけて、花を散らしたように赤く咲いていく。 希里が彼女の胸を、薄い手のひらで揉みしだく。収まる大きさは揉まれると形を変え、乳首は勝手にツンと手をついた。 「やっ、ぁぁ……!」 希里は言葉もなく、のぼせたように熱い息を吐いていた。彼女の袴に手を入れ、褌の上から恥丘を擦る。割れ目を指がなぞり、膣の入口へ突き立てられた。 「ぅあ………!」 そこは昨晩初めて安形を受け入れたばかりで、痛みが背筋を走る。しかしその裏には快感を望んでいた。細い腰がもどかしそうに揺れる。 希里は屈み、臍から揺れた腰の丸みを舐めあげた。その間に濡れてきた褌に指を浸入させ、膣の中を掻き回す。すんなりと三本の陵辱を許すそれは奥を穿った。 「ぁ、はぁ…いや!やめて……」 陰核が潰され、愛液がとどめなく溢れる。希里は腰から乳房の下側へと舌を移動させた。這い上がる快楽に、椿は爪先で彼の腹を蹴った。弱々しいそれはすぐに止められ、希里は乳首に吸いついた。 「……やだっ!」 縄は無情にも彼女の手首を拘束して蝕んでいく。 希里は苦痛に眉を潜める椿の両頬に手を添えた。左手の指には愛液がまとわりついている。彼はその指で彼女の耳朶を摘まんだ。 それ特有の匂いが鼻につき、椿は添えていた左の手首に噛み付いた。 「っ!」 希里が思わず手を引っ込める。その時、手首に巻いていた包帯がはらりと落ちた。そこには以前椿に忠誠を誓った傷があった。彼は咄嗟に手首を隠した。 「キリ、聞いてくれ。僕は君に何をされても…例え殺されても構わない」 「本当かよ」 希里は隠した手首を強く握り締めた。 「本当だ。…僕は確かに局長が好きで、君の気持ちには応えられない。でも僕は前に言った筈だ。この国を、大切な人を守りたいって」 「……だから?」 椿は自分の格好も厭わず、真っ直ぐな瞳で彼を射抜いた。 そこにぶれは一切なかった。 「君だって僕の大切な仲間だ!」 希里はビクッと体を強張らせた。心臓が追い立てられるように脈打つ。 彼女は裏切っても、こんなことをされても、まだ仲間だと言ってくれる。 希里は椿と出会ったばかりの頃を思い出した。会って間もない、無礼を働いた自分でも、―いや、彼女は誰でも無条件で助けるのだろう。そんな椿だからこそ惹かれたし、どこか危なっかしいところを守りたいと思った。それだけで充分だったのに、恋心はいつか貪欲になっていた。 希里はもう一度手首に視線を落とし、あの日誓った忠誠胸に刻んだ。 落ちていた苦無いを拾い、彼女に向かって振りかざす。椿は再び目を閉じたが、やはり体のどこにも衝撃はない。今度は着物でもなく、縄が切られた。椿は自由になった手を下ろし、座り込んだ。 「数々の御無礼、大変申し訳ございませんでした」 希里も彼女の傍にかしずいた。 口調も態度も以前の通りに戻り、椿はほっと息をつく。破れた着物は前で交差させ、縛って隠した。 「いいんだ。それより早く戻ろう。戦争を終わらせるんだ」 凛と表情を引き締めながら立ち上がる。希里は顔を上げたがそこは曇っていた。 「それはいけません」 椿は理解出来ず、後ろ髪を翻した。 「何故だ?こんな争いは急いで終わらせないと…」 「非礼に非礼を重ね大変心苦しいのですが、隣国の軍勢がここに向かっています。数はおよそこちらの五倍。どう足掻いても敵いません」 椿は言われたことを想像し、青ざめた。千人相当の兵がやってくる。只でさえ農民の暴動に手を焼き、こちらの力は削られているのだ。そこを叩きのめされたら、もう勝ち目はない。 「そんな…」 彼女の手がカタカタと震える。希里は手を取り、落ち着かせるように微笑んだが、それはどこか寂しげだった。 「俺が食い止めます。貴方は役所の皆と逃げて下さい」 食い止めるなど簡単に言うが、相手は千人だ。例え希里でも一人で立ち向かう人数ではない。 「しかし、それでは君が…!」 「このままでは全滅します。どうか、早く!」 希里の声は有無を言わさない力強さだった。椿は悲しかった。 自分の無力さが、誰かに頼らないと生きることが出来ないのでは、十年前と同じだ。しかし駄々をこねても他の打開策などなく、時間を置く程に状況は悪化する。希里に甘えるしかなかった。 「急ぎましょう」 二人は地下牢を出て、庭に出た。死屍累々、そこは地獄だった。仲間も、農民も、誰か識別出来ない程にズタズタになり、血や臓物を吹き出して倒れている。守りたいと思うものが手から溢れていく。最早何の為に戦っているのかもわからない。せめて一番大切なものだけでも、と椿は正門を目指した。しかしその前に一度、希里の方へ振り返った。 「キリ、命令だ!絶対に死ぬな!僕と美味しい甘味屋に行くんだろう?」 希里は一瞬呆気に取られたが、笑った。 「はい。必ず連れて行きます」 椿は正門へ、希里は裏の林へと別れた。 死体の中を駆けていく。希里は自分を責めた。この戦争は結果的に自分が招いた。あの時嫉妬などせず、役所と結託していればもっと違う未来があった筈だ。後悔しても遅い。 希里もせめて一番大切な人だけでも、と走る。 勝手口を出ると、林の奥まで続く兵隊が続いていた。数十人の役人もいたが、皆死んでいた。 一人立派な鎧を着た侍が前に出る。頭に笠を被り、覗く口角がニヤリと上を向いた。 「加藤、首尾はどうだ?」 背後の城からはまだ断末魔が響いている。希里が顎をしゃくると、相手は満足したように笑みをいっぱいに広げた。 「半々だな。向こうは大分やられている」 「そうか。よくやった。あとは俺達が片付けよう」 一歩踏み出した侍の笠が飛ぶ。正確には、首ごと飛んでいた。 呆けた表情の生首が地面に転がる。兵達はどよめき、希里を見た。彼の持つ短刀には大量の血が滴り、希里の銀髪は鮮血を被っていた。 「…佐介様のところには行かせない!」 希里は千人相手に、己の体一つで飛び込んだ。 彼が椿の命令をきくことは、二度となかった。 椿が正門の方へ来ると、門は破られ農民が押し掛けていた。蔵から奪ったのだろう、米を持ち出して逃げている者もいる。少しでも中に入れないよう、正門前はまだ混戦していた。 死体が山を作り、足の踏み場もない。蒸せ返る血の匂いが冷たい風に乗る。 「局長、一体どこに……」 死体の中に時々似たような背格好を見つけると心臓が跳ね上がる。 しかし安形は戦っていた。苦しんだり足元が覚束ない様子はない。発作がなんとか治まったのだとわかり、椿は心から安堵した。安形が一人斬り倒してから近寄る。彼も椿を見てほっと息をついていた。 「局長!」 「椿、無事だったんだな」 安形は思わず椿を抱き締めた。彼女も彼の胸に愛しそうに顔を埋める。 「悪い。助けに行けなくて…」 安形は申し訳なさそうに眉を下げた。椿はいいえ、と答える。 局長代理で現場の指揮をしている彼が、そうそうあちこちに移動出来る訳がない。 生きているだけで感謝ものだ。甘えたいが、いつまでもこうしてはいられない。椿はパッと体を離した。 「局長!今すぐここから逃げましょう!」 安形は面食らったように目を丸くした。 「何故だ?苦戦はしたが向こうの兵は大分削った。あともう少しで…」 「隣国からの加勢が来ます!数はおよそ千。希里が食い止めていますがもう逃げるしか……」 安形はその事実を聞き、考えた。 火付盗賊改方はもう半分程の人数までに減っている。つまり百人に対して千人。こちらには加勢も打開策もない。 このままでは、全滅するだけだ。それなら生き残っている人間だけでも、安形は選択肢などない苦渋の決断をした。 「……わかった。ここはもう引こう」 椿がこくりと頷く。 まだ戦い続ける隊員達を見渡した。榛葉は端正な顔に傷を受け、仲間だと言ってくれた同期は足が潰れ、椿を襲った先輩は絶命している。農民だって自分達の生活の為に唆され、したこともない戦で命を落とした。 誰もが生きる為に戦っている。安形は闇夜に吠えた。 「総員退避!隣国から更なる兵がやってくる!役所へ戻るんだ!!」 隊員達の手が止まる。戸惑っていたが、直ぐに踵を返して走り出した。安形達も続く。 「各班長は散らばった隊員に伝えろ!怪我して動けない奴は協力して運べ!」 前へ前へと進撃していた波が一気に逆になる。 人混みの中はぐれないよう、安形は椿の手を握って走り出した。城からどんどん離れていく。 椿は希里が心配で、手を引っ張られながら何度も振り返った。そこで、闇の中で何かが光る。残念ながら希里の銀髪ではない。 農民が茂みからこちらに矢を向けているのだ。歳いった男で、膝には彼の息子であろう、良く似た青年が倒れている。さっき安形が斬った男だ。 「城の犬め!死ね!!」 男は涙を溢し、弦をいっぱいに引いている。人々のざわめきで、安形には彼の叫び声が聞こえていない。 「!」 矢が真っ直ぐに飛んでくる。声を掛ける暇などなかった。椿は安形を突き飛ばした。 彼女の背に、矢が深く刺さる。それは骨に当たらず肉を通り抜け、心臓を射抜いた。椿は口から血を吹き、どさりと倒れた。安形がようやく振り返る。 「…椿?」 彼女の体の下で血溜まりがどんどん大きくなっていく。矢を射た男は気付かれない内に去っていった。 安形は彼女を仰向けにさせ、膝へ抱えた。ひゅーひゅーと、まるで空気の抜けるような音がする。椿はまともに呼吸が出来てないのだ。 「おい、椿!」 「局、長…」 声を出すと更に口から血を溢す。安形は慌てて周りを見た。 「待ってろ!直ぐに救護班を呼ぶから…」 立ち上がろうとする安形の着物を、椿は弱々しく掴んだ。 「局長、もう、いいです……僕は…」 椿の声が震え、掠れていく。安形の目にも状態は明らかだった。急いで救護を呼んでも、どんな手当てをしても、彼女はもう無理だ。 安形は椿の手を取り、目から大粒の涙を溢した。彼女の青白くなっていく頬に落ちる。 「…なんでっ…」 安形の袴に血が染みていく。手の体温はどんどん下がっていった。 「なんで病気の俺なんか助けるんだ!俺なんかいつ死ぬかわからない……お前が、生きるべきなのに…」 安形の声が嗚咽混じりになる。椿は最後の力を振り絞り、彼の手を握り返した。 「局長、僕最初に言いました。命を捨てる覚悟はしているって…身を挺してでも誰かを助ける人間になりたいって……」 椿は、微笑んだ。 「局長が助かって、良かった…」 椿の手の力がなくなり、するりと安形の手から落ちていく。もうピクリとも動かない。彼女はまるで眠っているようだった。しかし二度と目は覚まさないのだ。 「………椿」 何十人という隊員が、彼らをすり抜けて走って行く。皆自分が生き抜くのに必死で、二人に気付いていない。一斉に走り出す様は、津波から逃れる獣のようであった。 目まぐるしい光景が、ゆっくりとコマ流しみたいに見える。皆、泣いていた。嘆いていた。 安形は椿の骸を抱き、声にもならない声を叫んだ。それすらも、人々の咆哮で掻き消された。 あれから数日が経った。葉は段々と赤く色づき始めている。 戦争は安形達の、城側の負けで終わった。城主とその近い親族や家臣は農民に殺されたらしいが、手際のいい殺し方からして定かではない。城主の首が晒され、混乱する戦場を収めたのが、隣国の城主だ。あくまでも、危機を聞き付けてからやって来て、そこを上手く治め暴動が終わった。という筋書きである。 真実は闇の中に葬られた。 城主交代したと言えど、生活はほとんど変わっていない。税は僅かだけ軽くなり、農民は相変わらず飢えに苦しんでいる。火付盗賊改方は役人という立場なので、国に必要な機関として置いて貰っていた。今回の戦争に必要以上に口出しするようなら、処置を考えなければいけないと脅しを受け、安形達は沈黙を選んだ。 どちらにしろ隣国の偵察に行った本当の局長は謎の死を遂げ、役所の人数も半分になったのだ。立て直す為には政治に関わっている暇はない。 結局は只の権力の入れ替えだけの為に、多くの血が流された。 安形達は大きな歴史の流れの、一つの駒でしかなかった。 安形は町外れの墓場に来ていた。最近まで見た隊員達の名前が並ぶ中、安形は一つの墓の前に立つ。 そこには椿佐介と彫られていた。 「よう、椿」 安形は持ってきた線香を置き、火をつけた。薄く細い煙が昇ってていく。 「戦争は終わった。役所も今は人数が減って大変だけど、道流となんとかやってるところだ」 安形は腰に差している刀に手を添えた。 「…あの忍者、死んだらしい。あいつが兵のほとんどを相手にしてくれたから、被害はここまでで済んだ。感謝しないとな」 墓は返事をしない。安形は重々しく目を伏せた。 「忍者はお前の為に死んだ。椿は俺の為に死んだ。そして病気の俺がのうのうと生き残ってる……」 刀に添えていた手を下げた。高くなった空を仰ぐ。 季節はもう変わろうとしていた。 「俺は、―――生きるよ。椿」 安形はこの冬、二十六になる。 (完) |