希里は夏の名残のような朝靄の中を、音もなく走っていた。猛暑の日々は過ぎたが、まだ空気はじっとりした湿気を含んでいる。気温こそ低くはなってきているが、まだ不快感のある朝だ。
昨晩は珍しくひどい土砂降りで、土に染み込んだ雨が気化して霧を作っているのだ。森一面、茂みも木々も四方八方が覆われている。一寸先は闇だと言うが、希里の一寸先は真っ白だった。

しかし雨は逃亡するのに具合がいい。足跡や匂いを流してくれるし、気配も消しやすい。今は雨が上がっているから、泥濘に足跡を残さないように気をつければいいだけだ。

「しかし視界が悪いな…」

希里は隣国の城を偵察に行っていた。蔵泥棒からの一連の騒動、椿にはまだ首謀者はわからないと言ったが、本当は大体のメドがついていた。
これは只の暴動ではない。隣国が悪政と農民の怒りを利用して侵国しようとしているのだ。そこには血生臭い、権力争いの意図があった。昨日はより詳しく内情を知る為に赴いたが、途中で向こうの忍に見つかった。確証が掴めないまま仕方なく逃げる羽目になったのだ。一時は混戦したがかろうじて敵を撒き、幸いにも雨が降ってくれた。木を縫うように飛び移り、希里は一つ息をついた。

「……佐介様」

希里は走りながらも椿の事を考えていた。もう一ヶ月近く前の話だ。椿は泣いていた。彼女はどうやら失恋をしてしまったらしく、その想いをただ持て余していた。椿が感情のままに崩れる姿を見て、希里もまた自分の気持ちに気付いた。
一従者として主を尊敬しているだけだと思っていた。しかし本当は、最初から、好きだったのかもしれない。女ということを隠して、男の中で戦う、強くも脆い彼女のことを。希里は気付いたと言ってもそれは告げず、朝晩想いに明け暮れていた。それは今日のような任務中にも、この霧のようにぼんやりと厚く覆い尽くしていた。
それがいけなかった。
普段より弛緩していた心は隙を作り、周りの異常に気付けずにいた。



「加藤、止まれ!」

霧の中にキィン、と声が響く。希里は言われるままに足を止めた。というより、これ以上進むと待つのは死だ。
希里は周りの気配を確認した。姿は見えないが、三、いや五人はいる。気配を今まで消してたと言えど、こんなに追手がついて気付かなかった自分に歯軋りをした。
苦無いを構えるが、この視界の中五人相手では分が悪い。どう切り抜けるかと思考を巡らす。しかし向こうは殺気を絶えず放っているのに、一向に攻撃を仕掛けてこない。殺すならとっととすればいい。希里は他に仲間を連れていないのに何の様子を見ているのか。
訝ると、敵は察したように木陰から話し出した。

「加藤、今日は戦いに来たのではない。話がある」
「話?てめえらと話すことなんてねえよ!」
「聞け。聞かなければ死ぬだけだ」

それは交渉ではなく宣言だ。希里は沈黙を選んだ。

「我らが城が、貴様の国を侵略しようとしているのは気付いている筈だ。貴様達は必死に抵抗して駆けずり回っているが、もう遅い。農民の心はもう貴国にはない。我らが手中にある」
「…てめえらで煽って勝手なこと言うな」
「火種がなければ火事は起きぬ。貴様だってもうわかっているだろう?」

敵の声にはどこか憐憫めいたものがあった。

「貴国の城主は悪政で農民を苦しめてばかり。貴様のような優秀な忍者が、曾祖父から使えていたという縛りだけであのような主に仕えるのか?」

城主に心ないのは図星だった。
だからと言って裏切る気は毛頭ない。希里にはもう別の主がいる。

「もう戦争は止まらん。貴様がどちらにいようとそちらの城主は終わったも同然。それならこちら側について生き長らえんか?」
「…そんな怪しい誘いをほいほい受けるほど馬鹿じゃねえ。失せろ!」

希里は大きく吠えた。

「良かろう。こちらも誠意を見せて今は去る。三日やるから、それまでに返事を頼む」

五人の気配は霧に紛れ、溶けるように消えていった。希里は暫く警戒してじっと息を潜めていた。大分経ったが、もう怪しい動きはない。
体の緊張を解くと、どっと汗が溢れる。気温のせいで一瞬で体が冷え込む。彼が長く息を吐くと、まだ秋口にも関わらず白く昇っていった。

「…戦争か。早く知らせないと」

希里は再び走り出した。向かう先は城ではなく、火付盗賊改方役所。森を抜けると、夏が終わろうとしているが朝日は痛いくらいに眩しかった。霧は逃げるように流れていった。





一方椿は、朝の道場で鍛錬をしていた。台所の方では朝飯の準備で騒いでいるが、道場は彼女以外に誰もおらず静かだった。少し昇るのが遅くなった朝日が射し込む。
椿は自らの邪念を振り切るように、竹刀を上から下へと振っていた。澄みきった空気の中、心に霞がかかる。自分の感情ですら上手く言い表せれず、突然溝に足を取られたようにガクンと落ち込む。

「……はあっ」

一ヶ月近く前、椿はちょっとした偶然で安形の秘密を知ってしまった。
彼は生まれついての不治の病を患っていたのだ。それは普段の生活に支障はないが、他者と体液同士が接触すると感染する。有り体に言えば、日常生活では性行為による感染の可能性が非常に高い。椿は最後まではしていなかったもの、その手前までの行為はしていた。
安形は細心の注意を払っていたから感染の心配はないだろう。しかし彼はばれてしまったのをきっかけに、その行為を一切やめた。一緒にいるだけでは何の問題もないのに、部屋も別の個室を用意した。

椿はそれで初めて安形への想いを知った。病気の感染より、彼と離れることの方が辛かったのだ。
もう何度目かわからないくらいに、竹刀を強く振る。勢い余って汗ばんだ手からすり抜け、カンと床に落ちた。カラカラと転がっていくそれをぼんやり見つめる。
額に流れる汗を拭った時、椿の頬に涙が伝った。

「………っ、う…」

男として生きると決めた場所で、女として初めての感情を知った。しかしどうすることも出来ず、起伏するそれに翻弄される。今も溢れる涙を止められず、床に膝をつき、顔を両手で覆って泣いた。

「局長っ…!局長……」

ポタポタと涙が落ちる。道場に椿の声が哀しくこだました。
そこへ、ガタンと乱暴に道場の扉が開いた。この時間は新人は朝飯を作っているし、先輩連中は飯の用意直前まで寝ているか、せいぜい身支度を整えているくらいだ。こんな朝早くに道場で鍛錬する物好きは、真面目の上に糞がつくような椿しかいない。
振り向くと、戸口には椿の五つから七つ程年上の、屈強な先輩が五人立っていた。引き戸に凭れかかり、悠然と腕を組んでいる。

「よう椿、相変わらず朝早くから真面目だなあ」

ニヤついているが、穏やかな雰囲気でないのは見るからに明らかだ。椿は涙を拭い、きゅっと唇を噛んだ。

「…何か用ですか?」

丁寧な口調ながら、椿は声に警戒心を纏った。男達の下卑た口元がつり上がる。
椿は落とした竹刀にこっそり手を伸ばした。

「お前局長と部屋離れただろ?可愛い後輩を慰めにきたんだよ」

安形と椿の噂は、蔵泥棒の件で一度は鎮火した。椿は確かに手柄をあげ、皆納得していた。だがそれはほとんど同期のやっかみが尊敬に変わったものだった。ごく一部の先輩連中はそうではなかった。今までは活躍していると言っても、それは新人の枠の中での話だった。しかし年下で入ってきたばかりの椿が、数ヶ月で一班に移動し、今回どういう事情があってか個室まで宛がわれている。ほとんどの先輩は椿の実力を認めていたが、何人かは何年も働き続けた立場としては面白くなかったのだ。
それは大概が九班や八班等の下位の人間で、愚鈍で力だけが能のような連中だった。
今まで椿がそんな風に妬まれていると知らないでいれたのは、安形の庇護下にあったからだ。
しかし今は違う。

安形は病気の件以来、必要以上には関わろとしなかった。それが当たり前なのだ。いつまでも甘えていられないのだから、このようなやっかみも一人で対処しなければいけない。
椿は竹刀を握り、ゆらりと立ち上がった。

「慰めは必要ありません」

距離さえ保てば、獲物を持っている椿の方が有利である。竹刀を突き付け踵に力を入れた。
一人の男が拳を振り上げ、真正面から突っ込んでくる。動きは速いが所詮丸腰相手だ。椿は冷静に小手払いした。

「っ!いてえ!」

手を押さえて転がる。二人目に意識を集中しようとしたが、既に椿の後ろを取っていた。最初の一人は囮だったのだ。椿はすぐに振り向いたが、斜めに回ったもう一人の男が彼女を足払いする。椿は打ち付けるように前のめりに倒れた。竹刀が手から吹っ飛び、壁際まで転がっていく。

「くそ……」

椿は腹這いのまま竹刀に手を伸ばした。しかしその手は無惨に踏まれ、男が竹刀拾った。倒れる椿の顎の下にそれを添え、上へと向けさせる。椿は屈辱で表情を歪めた。

「先輩の好意には甘えておくもんだぜ、椿ぃ?」

キッと眉間に力を入れる。椿は手を踏む足首を掴み、爪を立てた。

「心配ならご無用です。先輩方も僕に構う暇があったら鍛錬の一つでもしたらどうですか?」

状況を楽しんでいた男達の下品な口元が下がる。怒りで目を剥き、こめかみに筋が入る。
顎に添えていた竹刀で彼女の頭を叩いた。結構な腕力で、頭蓋骨でも割れたのかと思うくらいに脳内で鐘が鳴る。椿がぐったり伏せると、一人の男が上から彼女の両腕を掴み、半転させた。もう一人が下から足を押さえる。力だけは優秀な下位班では、椿の体はびくともしなかった。

「やめろ、愚か者…」

声を出すと頭痛がするが、椿は精一杯の虚勢をはった。しかし竹刀を持っていた男が、突先を彼女の腹に降り下ろした。

「局長に体で媚びてる奴が生意気言ってんじゃねーよ!」
「っぐ!」

防具などつけていないので、椿の柔らかい腹は一点集中でえぐられた。胃液が口から飛び出し、芋虫のように丸まる。ピクピクと痙攣していると、男は竹刀を捨てて椿に覆い被さった。

「何を…」

四肢を拘束されている椿はむっとした臭気に顔をしかめた。男の無骨な手が彼女の襟に伸びてくる。

「局長を虜にした体、俺達にもあやからせてくれよ」

着物が左右に開かれる。椿は暴力は覚悟していたが、まさか男と偽っている自分にこのような虐げは予想していなかった。
彼女はわかっていなかった。所詮は女で、自分が如何に愛らしい顔立ちをしているのか。役所の連中も男色趣味の奴などいなかったが、椿だけは違った目で見ていたのだ。元々仕事に明け暮れ、女っ気がない粗野な男は性欲を持て余しているのだ。掃き溜めに鶴、椿は入隊当初から目をつけられていた。
たが局長の相手なら、と手を出されなかっただけだ。
今は格好の獲物である。例え男でもと押し倒したが、連中は着物を脱がせた先の光景に驚嘆した。

「さらし…?」

そこには汗でうっすら濡れているが、いつも通り丁寧に巻かれた白い布があった。押さえつけても僅かに膨らんでいるそこ。男は目を丸くしたまま、堅い手のひらで掴んだ。
椿はひっ、と息を飲む。

「女?」

またもやばれてしまった。しかも今度は到底黙ってくれそいにない連中だ。
椿はこの先の未来を想像して絶望した。もう火付盗賊改方にはいられない。まだ何も出来ていないのに、中途半端で終わるのだ。しかしそれよりも、目の前の出来事が迫っている。椿は体を捩った。

「……やめろ!」

男達が下劣な笑みを顔面いっぱいに広げる。乱暴に胸を揉み、急いでさらしをほどいた。彼女の胸が曝され、小さなそこは恐怖で震えた。
男達の巻いていた息が途端に荒くなる。掴まれた手もじっとりと汗ばんできていた。

「…なんで女が役所に入ったんだ?椿ちゃん」

顔を寄せて猫なで声を出してくる。同じ男なのに、安形とは違って油っぽくて息が臭い。椿はよっぽどそのにやけた面に唾を吐きかけようかと思った。
しかし首を逸らしただけに留めた。

「…貴様らに答える義理はない」
「ああ、そうかよ」

男も特に気に留めなかったようだ。上機嫌に唇を突き出す。
唐突に、獣のように胸にしゃぶりついた。いきなり乳首を吸い付かれ、べたべたした唾液が滴っていく。胸も揉まれるが愛撫と呼ぶには程遠く、乱暴なそれは痛みしかない。椿は弓なりに仰け反った。

「やめ、やめろ!愚か者!!」

椿は大声を上げた。誰かが騒ぎにさえ気付いてくれればと声を振り絞る。
しかし一人の男が落ちていたさらしを彼女の口に突っ込んだ。口内の唾液が布によって吸い取られていく。声を出そうとすればする程、口の中でさらしは膨れ上がった。

「っうう!うぐっ!」

嫌嫌と身を捩っていると、男は熱くいきり立った陰茎を取り出した。ヒクヒクと脈打つそれは不気味な怪物のようにも見えた。椿は恐ろしくて涙ぐんだ。

「どうせ毎晩局長とやってたんだろ。勿体ぶってんじゃねえよ」

男は椿の袴の腰紐をほどいた。すぐに褌一枚にされる。
椿は心の中で何度も局長と叫んだ。彼とも最後まではしていなかったのに、こんな奴らに奪われてしまうのか。悲しくて悔しくて、椿はさらしを噛んだ。
褌が奪われようとした時、ヒュッと何か空気を掠めるような音がした。それと同時に、褌を取ろうとした男が叫び声を上げる。

「ぎゃあ!なんだ!?」

男の手には苦無いが刺さっていた。相手は血飛沫を上げて暴れている。
苦無いの持ち主の正体など、見なくてもわかった。窓から希里が掛けてくる。突然現れた忍者に、男達は戸惑う間もなく薙ぎ倒された。
床には気を失った先輩達が転がっている。椿が呆然としていると、希里はすぐ彼女の元に膝まづいた。口のさらしを取り、袴を渡す。椿は安堵で目を細めた。

「佐介様、助けるのが遅くなりまして申し訳ございません。ご無事ですか?」
「ありがとうキリ…僕は大丈夫だ」

希里はさっきまでは鬼のような形相をしていたが、優しく微笑んだ。
その二人の後ろで、気を失った筈の男が唸り声を上げる。希里は咄嗟に苦無いを構えて振り返った。

「誰なんだよ…お前……」

男はどうやら希里が城の忍とは気付いていないらしい。しかし見た目忍者であるのは確かなので、どうして懇意にしているかと問われると答えられない。

「いや彼は…」

椿は口をつぐんだ。男は未だ起き上がれないままに床に突っ伏し、じろりと睨んだ。

「ばらしてやるからな。役所内全員が女だと知ったら、ここには置いとくわけねえよ」

男は脂汗をかきながらニヤニヤしている。
道場の外から騒ぎを聞き付けたのか、複数の足音がした。希里は男の首根っこを掴み、苦無い頸動脈に突きつけた。

「キリ、何をする気だ!やめろ!」

椿は希里に駆け寄り、彼の手を制した。

「しかし佐介様…口止めを、殺さなければ貴方が女だということがばれてしまいます」

切っ先が肌に刺さり、ツゥーと血が流れる。男は情けない悲鳴を上げた。
椿は彼の利き手に自分の手を添えた。

「僕のことはもういい…。それをしまってくれ」
「…わかりました」

希里は苦無いをしまい、男を床に叩き付けた。男は虫のように四つん這いで床を這った。
足音が更に近付いてくる。希里は舌打ちをし、椿のまだ乱れていた衣服を正した。

「佐介様、火急の用があって参りました。とりあえずここを離れましょう」
「え?」

椿が返事をする前に、希里は軽々と彼女を横に抱いた。そのまま窓から飛び去る。

「キ、キリ!?」
「しっかり捕まって下さい」

早朝でまだ人気がないのが幸いだった。
一応は目につかない道を選びながら、木々や街角を走っていく。椿はどうしたと問いたかったが、希里は落ち着く場所を見つけるまで口を開かなかった。彼はやがて町外れの野原に来た。
周りには長屋どころか人一人おらず、吹き抜けて閑散としている。そこで椿はようやく降ろされた。希里は全力疾走したのにも関わらず息一つ上がってないが、どこか焦った様子だった。

「キリ、一体どうしたんだ。急ぎの用って…」

椿の少し乱れた後ろ髪がさらさらと靡く。いつの間にか風は湿気をなくしてさらりと頬を撫でた。
希里がふう、と一つ息を吐く。

「…佐介様。例の暴動の黒幕がわかりました。隣国の城主です。奴らは税に不満を持った農民を利用したのです。これは農民の暴動に見せかけた侵略です」
「な!」

椿は驚愕の事実に目を見開いた。

「しかし隣国の城主はこちらの城主の伯父だ。まさかそんな…」

いや、と椿は顎に手を当てた。
その伯父の娘が、こちらの次男に嫁いでいる。もし城主が死ねば娘夫婦が次の城の主だ。その権力の入れ替えを狙っているとしたら―、椿は固く目を閉じた。

「佐介様、奴らは多分近い内に更に大きな暴動を起こして決着をつけるつもりです」
「近い内に?」
「はい」

希里はさっき向こうの忍に見つかり、帰ろうとする最中ずっと考えていた。
情報を掴んでいる人間をわざわざ帰したのだ。仲間にしたいというのは本意だろう。しかし確実に仲間になるかはわからないのだから、そう長く泳がすつもりもあるまい。
あそこまで強気に出て、返事を三日に設定したのだ。希里がどう動くにしろ、近い内に攻めてくる筈に違いない。

「……もしや次の納税の日か?」

次の納税日は秋始め最初の納税である。しかし農民達は夏のひどい乾季のせいで、収めるものなど一つも用意出来ていない。城主はそれを同情するどころか、税を少しでも軽くはしなかった。もう農民の怒りは頂点に達している。
そして納税の日は、あと二週間後に迫っている。

「皆に知らせなくては…!」

椿は役所に戻ろうと駆け出した。希里がその腕を掴む。

「お待ち下さい!貴方の正体は多分、もう役所中にばれています。それでも火付盗賊改方として戦うおつもりですか?」

希里は駆けつけるまでは、椿に伝えて役所全体でどうにかしようと考えていた。しかしもう状況が違う。
彼女に居場所はない。それならせめて戦争の手が届かない場所に逃げて欲しい、と希里は願っていた。しかし振り向いた彼女の瞳に女性的な甘さはなく、いつものように凛としていた。希里はその光に吸い込まれる。

「当たり前だ。僕はまだ火付盗賊改方だ。役人として仲間に危機を知らせる義務がある」
「…知らせたあとは?」

希里はすがるように眉根を寄せた。
椿は長い睫毛を僅かに伏せた。

「例え出ていけと言われても、僕は守りたい。家族や…大切な人がいるこの国を」

大切な人、と口にした時の椿はどこか遠い目をしていた。希里は以前に泣きながら語っていた彼女の好きな人というのを思い出した。

誰かは知らないが、彼女にこんなに想われている幸せ者は誰だろう。希里は歯軋りをした。自分はこんなに椿を想っている。誰よりも傍にいたいと、切に願った。

「…俺にも守らせてくれませんか?」

希里は手を離した。二人の間にざあっと風が吹く。

「君は元より城主に仕えているだろう?」
「違います。俺が守りたいのはたった一人…城主でも農民でもありません。佐介様、貴方だけです」

椿は希里の言葉の意味を、深く理解出来ないでいた。
首を傾げて彼を見上げる。

「そんな、僕に気を遣わなくても…」

希里は首を左右に振った。

「従者としてではありません。一人の男として貴方を守りたいのです」

椿が大きく瞬きをする。
希里は彼女の肩を掴んだ。肩か手か、どちらが震えてるかわからないくらいに二人は緊張していた。

「好きです、佐介様…」

希里の顔が迫ってくる。椿は突然のことにただ戸惑った。避けなくては、と顔を背けた時には遅かった。彼は強引に椿の唇を奪った。
重ねられたそれが熱く、瞼が震える。安形とも重ねてなかった、初めての接吻。
椿は悲しかった。今まで安形に体を何度も弄ばれたが、病気のことがあって唇は避けられていた。それがこんな風に奪われてしまった。

「んぅ…!」

舌が差し込まれ、歯列を割られる。口内を蹂躙し、希里は余す場所なく舌を捩じ込んだ。彼女の顎に唾液が伝う。
椿は希里の胸を殴った。

「キリ、やめてくれ…!」

どうにか開いた唇から絞り出す悲痛な叫び。希里ははぁ、と息を吐きながら口を離した。潤んだ瞳に怯えた椿が映る。
椿は両手で口を押さえ、下にうつ向いた。

「すまないキリ…僕は、君のことそんな風に見たことなくて…」
「…はい」

希里の瞳が暗い淵に沈んでいく。

「それに僕は…局長が好きなんだ……」

希里は静かに目を閉じた。
彼の中の細い糸が切れる。以前に彼女の気持ちを自覚した時は、淡い泡のような情景を思い浮かべた。しかし今はそこが渦を巻き、栓を抜かれたようになくなっていく。
再びゆっくり、目を開いた。

「…じゃあ、俺とあんたは敵同士だ」
「え?」

椿は思わず顔を上げた。彼の突拍子のない発言もそうだが、それ以上に不思議なのが口調である。
いつもと違う。いや、まるで主従を誓う以前のような口調だ。希里を見ると彼の目は鋭く、戦場に立っている時のようだ。
そこには侮蔑の鈍い光すらある。

「……キリ?」
「馴れ馴れしく呼ぶな。俺は向こうにつくからせいぜい悪あがきするんだな」
「待て!どういうことなんだ!?」

いきなり反旗を翻すような態度に、椿は戸惑った。
希里は背を向けて去ろうとする。彼女は彼の腕を掴んだ。ここに着いたばかりとは逆に。しかし希里は乱暴に振り払った。

「俺はもう城主に仕える気はないし、心の主を失ったんだ。それならより分がいい方に転ぶだけだ」

希里は力強く睨みつけた。椿は悲しく眉を下げ、泣き出しそうだった。

「キリ……!」

呼ぶなと言われた名前を呼ばれ、希里は僅かにたじろいだ。しかし頭を振り、銀髪が上がりきった朝日に反射する。椿が眩しさに目を細めると、その隙に彼はいなくなった。
前後左右を見渡したが、もう姿はどこにもいない。椿はどうしていいかわからず、苦しくて胸を押さえた。たった一人の友人を傷つけ、失ってしまった。次に会う時は敵かもしれない。悲しみは襲うが、感傷に浸る暇はない。
椿は役所へ走った。



もう時間的には皆朝の見回りに行っている筈だ。しかし役所の前まで来ると、かなりの人数のざわめきが聞こえる。椿は門番に見つからないよう、建物の陰から役所を窺った。
門番がひそひそと話す声からは、「椿」と言っているのが聞こえた。やはりもうばれているのだろう。出来れば直接安形に伝えたいが、真正面から入ることは出来ない。下手したら話も聞いて貰えず帰されるかもしれない。
どうしようかとまごつく彼女の肩を、誰かが後ろから叩いた。椿はビクッと肩を竦めながら振り返る。

「…榛葉さん」

彼はいつもの如才ない笑みを浮かべているが、どこか苦々しかった。

「椿ちゃん、今役所で何が起こってるか見当ついてるよね」

椿は無言で頷いた。

「今日は家に帰った方がいい。今後のことは後日ゆっくり別の場所で…」
「それでは駄目なんです!」

息を潜めながら、小さく声を上げた。
ここで帰ったら、もう戻れなくなるのは容易に想像がつく。役所は見逃す代わりに追い出してなかったことにしようとしているのだ。
椿は榛葉にすがり寄った。

「僕は局長に、皆に…どうしても伝えなければいけないことがあるんです!役所に入れて下さい!!」

榛葉は参ったな、と両手を上げる。
彼もこれが男ならどうにか言いくるめるところだが、相手が女性とわかると無下に出来ないらしい。
それ以上に、彼女の表情には差し迫ったものがあった。榛葉の如才ない笑みに温かみが宿る。

「…じゃあ裏口から入ろう。その方が人もいないし、安形の部屋からも近いよ」

二人は一度大通りに出て、役所の周りをぐるりと半周した。
裏路地から戸口に入り、安形の部屋を目指す。幸いにも誰にも会わず、部屋の前までたどり着いた。ギシ、と床の軋む音がする。
椿が榛葉を窺うと、にっこり頷いた。

「俺はここで見張ってるよ。行っておいで」

椿も微笑んで感謝した。
いつもは床に正座し、恭しく入室するがそうしてる余裕はない。

「失礼します」

椿はすぐに戸を開けた。安形はいつものように机に向かって座り、書物を広げて煙管を吸っている。
彼女が現れたことに驚いた風でも慌てる様子でもなかった。一見寛いでいるようだが、どこか心あらずだ。こうして二人きりで面と向かうのは、あの病気の告白以来だ。椿は促される前に、彼の前に腰を下ろした。

「…椿。今朝何人かからお前のことで報告があった」
「はい」

何の報告かとは、言われなくてもわかる。

「怪我人も出てるし…役所内は今ちょっと混乱してる。俺から正式に伝えるまでは見回りもやめて待機して貰ってるから」
「はい…」

安形は大きく煙を吐いた。まるで蜃気楼のように輪郭線が歪む。

「…襲われたんだろう?何もなかったのか?」

椿ははい、と短く答えた。
事務的な会話に垣間見える優しさに、嬉しくて仕方ない。ほんのり頬を染め、緩みそうになるのを堪える。
しかし安形はこれを最後の情にしようとしているのだ。事務的な会話から更に一本線を引いたように、顔つきが険しくなる。

「椿。ここまで話が広まってんならもう庇いきれねえ。お前は出ていけ」

覚悟していた言葉だが、いざ聞くと冷水を浴びたように背筋が凍る。
恐ろしく冷たい視線に口をつぐみそうになるが、彼女も引かなかった。

「…出ていきません。僕は局長にお伝えしなければいけません」
「なんだよ」

安形は面倒臭そうに煙管の柄で頭を掻いた。

「一連の暴動のことです。黒幕は隣国の城主です。奴らは近い内に…多分、次の納税日にこちらを攻め落とすつもりです」

安形は煙管を机に置いた。すっと目を細め、椿を見定める。


「…それは本当か?」
「こんな時に冗談なんて言いません!」

椿は前のめりに身を乗り出し、声を荒げた。きゅっと唇を噛み、彼の言葉を待つ。
安形は腕を組んで冷たかっただけの視線を床に落とした。

「わかった。その件はこっちで動く。だけどお前は帰るんだ」
「そんな、僕は皆の為に…!」
「それとこれは話が別だ。お前がいくら優秀でも所詮女だ。足手まといなんだよ」

安形は吐き捨てるように言う。
しかし椿もはいそうですかと受けるほど安い覚悟ではない。

「嫌です!僕はここにいたいんです!」
「どうしてそこまでこだわる?」

安形はすかさず切り返した。
椿は言葉を詰まらせた。仲間や家族を守りたいのは勿論、何よりも安形といたかったのだ。そんなことを伝えるわけにもいかず、黙した。
安形はそんな彼女を不審そうに見つめた。

「…お前がここにいたい理由って、例の傷の人のことだろ?」
「え?」

安形はもう煙管を吸っていないのに、いつもの癖で息を吐く。
椿は傷の人のことは確かに理由の一つにあるが、今言われるまですっかり忘れていた。連日の騒動に、安形の過去、自分の想い、役所に正体がばれ、希里に告白された。ここ最近あまりにも色んなことが起きた。いいえとも言えず、椿は曖昧に首を傾げた。
安形が立ち上がる。

「傷の人に会いたいなら今会わせてやる。だから帰れよ」

途端に、安形は着物の袖から腕を抜いた。椿がまさか、と目を見開く。
彼の黒い着物が上半身だけ落ちる。そのまま踵を床でくるりと回転し、背を向けた。
そこには鮮やかなくらいの、縦一文字に斬られた傷があった。肌に馴染むように浮き上がっているが、色の深さから古傷だとわかる。

「なんで…」

椿は走馬灯のようにこの数ヶ月の記憶を辿った。
一緒に風呂に入ったことがあり、何度も床を共にしていたから、なんとなく彼の裸を見ていたような気になっていた。
だが実際はそうではなかった。
風呂に入った時には前しか見ないまま気を失った。夜の営みをする時は自分ばかり脱がされ、安形は脱がなかった。椿は安形の背中を、一度でも確認していなかったのだ。
灯台元暗しとはよく言ったものだ。近かったからこそ、椿は彼を疑いもしなかった。

「なぜ…」

椿は愕然としていた。

「なぜ…言ってくれなかったのです?」

椿が当たり前の問いを漏らす。安形は罰悪そうにするだけで答えなかった。
二人は気まずい沈黙に包まれる。
椿はたくさんの話を聞きたかった。しかし何も言葉にならない。ただ彼の傷だけが静かに物語る。

そこへカタカタと襖が揺れる。まるで地震でも起きてるのかと思ったが、戸の向こうには複数の影があった。廊下には榛葉しかいない筈だ。椿は自分の場所を嗅ぎ付けられたのかと、身を強張らせた。

「ちょ、君達、駄目だって!うわ!」

榛葉の慌てた声と一緒に、大きな音がした。襖が外れて部屋の中に倒れたのだ。そこになだれ込むように隊員達が押し入ってくる。その殆どが椿と同期の新人達だった。
彼らの顔は緊迫しながら怒っているように見える。椿は顔を背け、安形はぽかんと口を開けていた。

「お前ら、どうしてここに…」
「局長!椿をやめさせないで下さい!」

椿は彼らの方を向いた。女のくせに詰られると覚悟していたのに、思いもしなかった言葉に目を丸くする。
隊員達は彼女を見て、へへっと頬を掻いたり照れ臭そうにしている。

「お前が女だって聞いてさ、びっくりしたけど納得したよ」
「だって男にしては可愛すぎるからなー」

皆が一様にうんうんと頷く。

「俺なんて実はお前の事が好きだったんだぜ」

一人が茶化すと、ドッと笑いが起きた。殆ど話したことない者まで、彼女の為に駆けつけたのだ。椿の目頭がどんどん熱くなる。

「椿、最初はすかしてむかつく野郎だと思ってたけどさ。お前が努力してんのは皆知ってるよ。お前は俺達の憧れなんだ。女とか関係ねえよ」

昔、椿と安形の噂をからかった元同室の男が手を差し伸ばした。

「俺達、仲間だろ!」

椿は手を取る前に、涙を溢した。
女だと悟られまいと、一人孤独に過ごしていたつもりだった。しかしずっと支えられていたのだ。安形は勿論、榛葉も、一緒に入隊した同期達も、皆が彼女を見守っていた。
男は椿の手を取り、大袈裟に上下へ振った。

「おい泣くなよ〜俺が泣かしたみたいだろ」
「……ありがとう」

椿がにっこりと微笑む。皆彼女を囲み、胸を押さえてもじもじしていた。穏やかな談笑には、確かな絆があった。
榛葉が優しくそれを眺める。

「…ここでやめさせる程野暮じゃないよね、安形?」

安形はやれやれと脱いだ着物を着直した。

「全く余計なことしやがって。すっとこどっこい共」

彼は苦笑しながらも、どこか嬉しそうだった。
決戦の日は近い。
第3回BLove小説・漫画コンテスト結果発表!
テーマ「人外ファンタジー」
- ナノ -