蔵泥棒の騒動から一ヶ月と少し経った。まだまだ夏は去ってくれそうになく、日差しは人々を照り付け過ごしにくい日々である。いや、過ごしにくいなど生易しい言葉では済まない。あと数週間もすれば暦の上は秋になるが、今年はひどい猛暑だった。田んぼは秋の収穫を前に乾上がっているし、暑さに耐えかねた作物が次々と枯れていく。それでも農民の税は変わらない。

蔵泥棒の騒動はあの日に終わったわけではなく、あくまでもきっかけに過ぎなかった。農民の暴動は日々悪化の一途を辿っている。一斉検挙した日、実際罪を問われたのは首謀者である何人かだった。城主は全員を打ち首にしたかったらしいが、農民が減っては取れる税も減るということでほとんどは厳重注意と更なる税を課されて終わった。しかし彼らは一度と言わず二度三度と暴動を繰り返し、城は勿論武家や商人の家まで襲っていた。その度に税は重くなり、また暴動が始まる。これでは互いの尾を喰う蛇の輪である。
一班に移動した椿は連日の出勤に、前の傷も癒えぬまま新しい傷を作り、体中ボロボロであった。

「俺が思うに、この一連の事件は突発的な反逆ではなく、組織として形成されていると思うんです。毎回農民の中にやけに戦い慣れた奴がいるんですよ。憶測ですが、誰かが裏で手を引いて農民に武器を渡して煽動している者がいます。だから打ち首をしたところで、そいつも下っ端です。トカゲの尻尾を切っているようなものですよ」
「うーん…一体誰が……」
「それは…俺にもまだわかりません。すみません」

希里は団子を口に含んだまま、頭を下げた。精悍な顔立ちの彼の所作が滑稽で、椿はふっと笑みを溢した。
彼女は一班に移動してから炊事洗濯等の新人の仕事はなくなっていた。これはえこひいきではなく、見回りや出動の仕事の方がよっぽど大変なので、したくても出来ない状況なのだ。他の新人達はそれに不満はなく、むしろ毎回傷だらけになってくる椿を同情した。
今日は見回りが早めに終わり、帰ろうとしたところをどこからともなく現れた希里に団子屋に行こうと声を掛けられたのだ。町中なので流石に忍者の格好ではなく、普通の町民が着るような麻の袴を着ていた。

「しかしここの団子は美味しいな。初めて来た」
「三町目の甘味屋ではぜんざいが美味しいと聞きます。寒くなったら行きましょう」

一ヶ月前の例の騒動の時、椿は希里と知り合った。紆余曲折あり、彼女は正体を知られ、その上で希里は椿に忠誠を誓っていた。
しかし主になったと言えど、彼は普段は城で働いている。椿と仕事が一緒になった時は護衛をしたりしているが、あとは時々こんな風に見回り帰りに甘味屋や町に買い物に行くだけだ。いつも希里が誘い、椿がそれに付き合う。最初は戸惑っていたが、友人のいない彼女にとっては居心地の良く、気の置けない時間であった。

「日が暮れてきたな…僕はそろそろ帰るから」
「途中まで送っていきます」

椿はいいからと一言断ったが、それが意味をなさないのはもう知っている。
結局役所近くまで送って貰い、椿はいつもの鍛錬と勉強を終えてから遅い風呂に入り、部屋へ戻った。

「失礼します」

自室だが、一声かけてから入室する。彼女の部屋は局長代理安形の部屋でもあるのだ。
椿は一班に昇進した際に、安形のお抱え小姓という役職についた。その為に部屋も同室になったのだが、これは女と偽って暮らす椿への計らいでもあった。勿論安形はわざわざ口に出さないが、椿は深く感謝していた。

「よう椿、風呂あがったのか」
「はい」

安形は暗い部屋で行灯の光を頼りに、布団に寝転がりながら様々な書物に目を通している。政治・経済・歴史・医療と知識欲に貪欲らしい。その書物を閉じ、面を上げた。

「こっち来いよ」

手招きされ、椿はおずおずと彼の元へと歩み寄った。布団の上で安形に背を向けるように正座する。安形も体を起こし、彼女の夜着をそっと肩から落とす。細い項に沿うように肩甲骨が浮き出て、そこには使い古したが清潔なさらしが巻いてある。安形は乱暴に彼女の体をまさぐった。

「いた!局長、もう少し優しく…」

椿は痛みに背を丸め、膝を抱えた。

「お前がじっとしてねーからだろ」

安形の乱暴な動きは変わらない。彼女の傷だらけの体に手を這わせた。ぐっと力を込めると、椿の背が仰け反る。

「ほら、包帯巻けないだろ」

椿は安形に傷の手当てをして貰っていたのだ。傷はどれも浅いが、清潔を保つべく毎晩風呂上がりにはこうやって包帯を変えなければいけない。椿も大概は自分でするが、今手当てをして貰っているのは背中にあり、一人では中々出来なかったのだ。右腋から肩甲骨にかけてぐるぐると包帯が巻かれる。

「すみません。いつもご迷惑をお掛けして…」
「ま、仕方ないからな」

本来なら役所には医務室があるし、担当の医者が常駐している。しかし隊士二百名を誇る火付盗賊改方の役所は、医者も男なのだ。性別を偽っている椿は、手当てを受けることが出来ない。見かねた安形が度々世話を焼いているのだ。
安形は彼女の体を繁々と眺めた。

「お前体中傷だらけだな」

改めて見るそこは切傷が絶えず浮かび上がり、白い肌には痛々しい瘡蓋があった。

「そうですね。毎日忙しいですから」
「女のくせにこんな体じゃ、傷の人もがっかりするかもなー」

傷の人とは、椿が探している役人でここにいる理由でもある。彼女にとっては命の恩人であり、純粋に慕っている人だ。なので体を見せてがっかりするという発想は、椿にとっては下世話でしかなかった。

「…僕は傷の人にはお礼言いたいだけです」
「そうなのか?」
「当たり前です!」

椿はフン、と鼻を鳴らして下げていた夜着を羽織ろうとした。しかし安形が後ろから彼女の胸に手を回した。羽織りかけていた夜着がまたすとんと腰に落ちる。

「ひゃっ!」
「じゃ、お前にこんなこと出来るのは俺だけか」

大きな手のひらが胸を揉みしだく。彼の手はひんやりして体温がなく、椿はその低い温度に身震いした。

「ゃ、あ…!」

手のひらに小さな乳首がツンと角を立てる。胸をまさぐられている内に丁寧に巻かれていたさらしがほどけていった。布と布の間から赤く熟れた頂だけが顔を出す。安形はそこを摘まみ、指で弾いた。

「っん!」

痛みにもなっていないもどかしい刺激に唇を噛む。椿が身を捩ると、ぱさりとさらしが全て布団に落ちた。平たい胸に行灯の火が揺らいで映る。安形は胸を揉んでいた手を離し、椿の唇に指を入れた。

「ひょく、長……」

指のせいで舌足らずになるそこの唾液を掬う。安形はその濡れた指を椿の夜着の裾へと忍ばせた。

「あ……」

風呂上がりで褌をつけていないそこはすぐに目的の場所へ辿りついた。蜜壺が蓋を開けて濡らしていた。

「ぁぁっ……!」
「わざわざ濡らさなくても良かったな」

少し嘲るように笑い耳に吐息がかかる。椿は背筋がゾクリとした。
指は膣に押し入り、浅いところを掻き回す。そうするとぴちゃぴちゃと水音が立つ。その音が恥ずかしく、椿は思わず膣口を締めた。しかし安形の指も一緒に閉塞し、まるで喜んでいるように受け取れる。安形は親指で陰核を潰した。

「んん……!」

事実、椿は苦しい程に感じていた。ほんの一ヶ月前までは彼女は睦事に悦びなど見出だせなかった。愛撫されてもせいぜい擽ったいと思うだけだった。しかし最近はこの行為に慣れた訳ではないが、何度か女としての絶頂も経験している。今も抗えない快感の波に、正座が崩れ足を投げ出していた。
浅瀬を探っていた指がじゅぶ、と卑猥な音を立てて引き抜かれる。

「ふぅ、う…」
「これじゃ奥まで入んねえな」

絶頂に至る場所は、膣のずっと奥にある。いつもそこに指を根本まで埋まらせ、激しく打たれていた。体はそれを望んで熱が上がっている。
ひんやりしていた安形の手も、体温を吸いとったように温くなっていた。

「あ…」

安形はすっかりだれた椿の腋を掴み、布団の上にうつ伏せに寝かした。そこから尻を持ち上げる。意味をなしていない夜着は帯紐でかろうじて腰に止まっている状態だ。裾をたくしあげれば臀部にかけて性器が露になる。椿はまだしたことのない犬のような体勢に、ヒッと息を呑んだ。

「局長…嫌です。こんな、丸見えじゃないですか…」

椿は怯える子犬のように震えて蹲った。

「なんだ、行灯消せばいいのか?」

安形がふっと息を吹くと、光が消える。辺りは闇に包まれた分、視覚以外の五感が敏感になった。布の擦れる音や、体を這う手の感覚、消えた油の臭いもツンと鼻腔をつく。
椿としては灯りではなく体勢そのものを変えて欲しかったのだが、仕方なく次の動きを待つ。そこへ臀部に生暖かい蛞蝓のようなものが這った。それは安形の舌だった。

「…局長、やだっ…!」

小さい尻を這いずり、耐える為に布団をギュッと掴む。しかしそれ以上に耐え難い愛撫が椿を襲った。

「だめ!そこは、違います……!」

安形は尻を舐め回しながら肛門を指で突いていた。まだ侵入はしていないが、そこは乾いて閉ざされている。

「だって見えねーからわからないんだよ」

彼の物言いは屁理屈をこねる子供のようであった。当たり前だが椿からすればそんな言い訳が通用したらたまったものではない。
今まで散々体を弄り回されてきたが、そこはまだ未開の地である。椿は恐ろしさに身を竦め、頭を布団に突っ伏す。入口をぐっと広げられると、彼女はとうとうすすり泣いた。

「ひっ…ぅぅ、局長、やめて下さい…お願いします…」

さめざめと泣く姿を見れば、流石の安形もやれやれと頭を掻いた。肛門から離れ、濡れそぼった膣へと方向転換する。その素早い行動に、やはり見えているのではないかと椿は内心恨んだ。

「ひぅ…!」

しかし息つく間もなく、既に開ききった花弁は指三本を受け入れた。出し入れしやすくなったそこは難なく往復される。

「ぁ、ぁ、あ!」
「声でかいって」

椿は慌てて布団に顔を埋めた。くぐもった自分の声が頭に反響する。
恥ずかしい程に膣は収縮し、彼の愛撫を歓迎していた。指を奥へ奥へと誘い込み、蜜はだらしなく太股を伝う。何度か穿てば、しまいには涎を足らしながら達した。

「―――っあ!!」

ビクビクと全身が痙攣する。膝が崩れ、ずるりと抜かれた時はまるで引き留めるように膣が締まった。

「う…はぁ……」

椿はすぐにでも夜着を直したかったが、力が入らずそのまま寝そべる。安形は涼しい顔で横に並び、彼女の頭を撫でた。

「生娘のくせに随分感じのいい体になったな」

椿の火照った顔が更に染まる。睦事中はつい部下という立場も忘れ、こんな体にしたのは誰だと至近距離で睨んだ。潤んだ目で凄まれても威力はなく、安形の態度は変わらない。

「悪い悪い。明日は休みだからつい無理させたな」

明日は椿にとって入隊以来初めての休日だ。彼女だけではなく、二日かけて隊士二百名が入れ替わりで一日ずつ休みを取るのだ。

「別に休みじゃなくてもいつも無理させているでしょう」
「それもそうか」

カッカッカッと安形特有の高笑いをする。椿はげんなりしながら、ふと彼の夜着の下半身が盛り上がっているのに気付いた。不躾と思いつつ、視線がそこに落ちる。
二人がこのような関係になってから大分経つが、彼はやはり椿の初めてを奪わずにいた。毎回あらゆる手で翻弄されるが、破瓜するどころか口や手での奉仕もさせない。気が咎めていると考えた時もあったが、その割には中々手酷い愛撫を受けている。恋人もいないと榛葉が言っていたし、彼は自分の昂りをどうしているのか。
自分に都合がいいので椿は聞かずにいたが、快楽を感じるようになってからは妙に気遣っていた。勿論椿は自ら体を差し出す気はないし、気遣っても安形が自分で勝手にやっていることだ。ただなんとなく、疑問を口にした。

「局長は…その、いつも何故最後までなさらないのですか?」

安形は面くらったように目を丸くした。

「なんだ?お前もとうとう女として目覚めたのか?」
「ち、違います!単純に気になっただけで…」

椿はしどろもどろとすると、安形は彼女の髪をぐしゃぐしゃに撫でつけた。汗を含んだ癖っ毛が更に乱れる。

「お前みたいなガリガリの女なんて興味ねーよ」

彼はあくまでも冗談のような口調だが、一笑して背を向けた。
すぐに寝息が聞こえてくる。椿は服を直し、安形に布団をかけた。自分の布団に潜り込みながら、椿は胸に小さな痛みを感じていた。
眠気と気だるさに沈まりながら、痛みの理由を探る。男として生きると決めたからには、女扱いされないことに不満はない。何故このような気持ちが生じるのか。もやもやと霧がかかったように釈然としない。
判断するには、この時点ではあまりにも小さい痛みだった。今日も昼と夜の仕事に疲れ、彼女の意識は深い場所に溶けていった。





次の日、椿は休日を利用して地元の町へ戻っていた。役所と家は同じ国内にあると言えど、町自体は大分離れて距離がある。彼女の家はどちらかというと田舎の方で、幸いとして役所内にも同じ故郷を出身とした者はいなかった。
しかし地元の人間に会って女の自分が火付盗賊改方が入ったと気付かれてはいけない。仕事用の袴から、女物の着物に着替えていた。役所に一枚だけ持ち込んだ、薄い花柄に黄色い帯。髪はいつも高い位置で結んで凛々しい雰囲気だが、今日は低く結んで横に流していた。
今の彼女はどこからどう見てもただの町娘だ。あまり着慣れない着物に足を取られながら、椿は家の戸を開けた。

「お久しぶりです。父上、母上」

呼ばれた二人は戸口を見て目を大きく開いた。
彼女の両親は町医者で、その腕と人当たりのいい人格からたくさんの患者を抱えている。今も丁度往診に出かけようとしていたところなのだろう。医療器具や薬をまとめていた。しかし母が椿に近寄り、目に涙を溜めて頬を撫でた。

「佐介…久しぶりね。こんな傷だらけになって」

父も寄り添い、椿を抱き締めた。

「今日は休みか?帰ってくるなら連絡してくれれば良かったのに」

二人は昔から家にいないことが多い。食事中でも夜中でも朝早くても、患者が呼べば幼い椿に留守番させて駆け付けていた。椿は一人でいることは苦痛ではなかったので、大概は本を読みながら大人しく待った。
今日も多分いないだろうと思い、事前に帰ることを知らせなかったのだ。

「すみません。二人とも忙しいから…邪魔してはいけないと思って」

家族三人が揃うのは、実に数ヶ月ぶりだった。親子水入らずを楽しみたいがそうもいかない。二人には患者が待っているのだ。
しかし椿の父は名残惜しそうに彼女を見つめ、なかなか離れられずにいた。

「あなた、今日は往診だけじゃなくて定期用の薬も配らなきゃいけないのよ。急がないと夜中になっちゃうわ」

母が急かすように、てきぱきと荷物をまとめる。医療道具の鞄とは別に、小分けにした袋が大量に入った籠があった。
二人は前述にもあったようにたくさんの患者を抱えているので、普通は定期的に飲む薬等は家まで取りに来て貰う。しかし小さな子供がいたり、病気のせいで動けない人達に、二人はわざわざ薬を渡す為だけに家々を回っているのだ。今や往診だけではなく、薬を配るだけでも結構な人数になっている。それでも文句一つ言わず、患者の為ならと労働をいとわない両親を椿は心の底から尊敬していた。いずれは自分もそうなりたいと思っていた。
しかし今は反対を押しきり、男と偽って危険な役所で働いている。心配ばかりかけ、親不幸なことが椿は心苦しかった。

「あの、良かったら薬は僕が配りに行きましょうか?」

たまには親孝行をと、椿は母が持つ籠にそっと手を添える。

「え?でも悪いわ。せっかくのお休みなのに…」
「家で一人で待っていても暇ですから。薬を渡すだけなら僕でも出来ますし…」

籠を取って微笑む。母は悪いわね、と言いながら内心嬉しそうだった。
椿は患者の名前と住所が書かれている紙を受け取り、両親と反対方向に出向いた。近所から一件一件回っていく。
久しぶりに会う人に「最近見かけないけどどうしたの?」と聞かれた際には曖昧に苦笑しながら誤魔化した。町内から段々外れ、次の町へ次の町へと移動する。両親に患者が多いことは知っていたが、かなり遠くの町まで広まっているのに気付いた。毎日毎日町どころか国中を掛け回っているのだ。椿は両親の期待に応えられない自分を恥じた。昔は両親の為に一人で薬草を取りにと勤しんでいた。しかし役人を目指してからはこんな手伝いもしなかったし、両親もさせなかった。
そのくせ最近は忙しくて傷の人も探していないし、女ということが二人の人間にばれている。しかも、その一人には脅されて体を差し出しているのだ。もし知ったら両親は無理矢理にでも彼女を引き戻すだろう。

「気を引き締めねば…」

暴動のことも含め、いつ自分は危険な状況に陥ってもおかしくはないのだ。
三枚目に差し掛かった紙を見る。薬はもう最後の一つになっていたが、時間はすっかり夕方になっていた。赤い空にカラスが群れを成して飛んでいる。これを渡して帰れば丁度いい頃合いだろう。しかし椿は紙に書かれた名前を見て驚いた。そこにあったのはとても見慣れた名前だからだ。

「……局長?」

安形惣司郎、と書かれている。彼の住む場所は知らないが本人だろうか。しかし安形が家に来て受診をしたような覚えはない。

「いや、もしかしたら家に来たことはなくても往診に行ったのかも…それか同姓同名か?」

同姓同名の可能性がある程、平凡な名前ではない。椿は悪いとは思いつつ、薬の内容を見た。しかし驚きは更に輪をかける。彼女は薬を見つめたまま、呆然と立ち尽くしていた。そこに、見計らったように紙に書いてある住所の戸が開いた。

「……椿?」

戸に手をかけたまま、安形も思いがけない部下の訪問に驚いていた。

「局長、あの」

椿は慌てて持っていた薬を籠に押しこんだ。

「なんで俺の家知ってるんだ?」
「いえ、僕は父の代わりに薬を…」

椿が携える物に視線を落とし、安形は全て察したように目を細めた。そこにはどこか卑屈めいたような色合いが微かに混じっている。

「そうか。お前の家医者なのか。椿、実はうちの役所にある薬は外の医者に依頼して時々持ってきて貰ってるんだ。普段は役所に届けて貰ってるんだが、医者も休みに入ってな。俺も休みだが局長代理っつーことでわざわざ家に届けて貰ったんだが…まさかお前が来るとはな」

椿は父が役所に薬を届けていることなんて知らなかった。しかし彼女が役人を目指すことを決意してから、両親は頑なにその件については語ろうとしなかった。しかしいちいち患者について話したりもしないし、知らなくても仕方ない。
もしかしたら自分の仕事中に両親が役所に来たこともあったかもしれない。それも薬を届けるだけではそう長居も出来ないし、椿が医務室に用になることはなかったのだ。色々思惑と偶然が重なって、今日まで知らずにいれたのだ。
椿は未だに狼狽えて微動だに出来ずにいた。安形は戸を最後まで引き、中へ入るよう促した。

「察しはついてんだろ。中途半端に知られてもあれだからな。全部話す」

中は狭く、布団に机、あとは少しの書物と最低限な物しか置いていない。他に家族がいる様子もなく、普段はほとんど役所で暮らしているから手入れをしていないのだろうと見受けられる。
窓の縁には埃がふわふわと舞い、安形はそれに少し咳をしていた。二人は向かい合わせに座した。

「…どこから話せばいいのか」

安形は薄い笑みを携えているが、憐憫の眼差しを含めている。それは椿にではなく、自分に向けているようだった。
椿は膝の上に拳を作り、先程見た薬の内容を思い出した。あれはある病気の、重病患者の発作を抑える薬だ。

「椿、俺の故郷はこの国とは違う場所なんだ。俺は火付盗賊改方に入る為にここに家を移し、家族とは別に暮らしている。まあほとんど役所にいるから、時々寛ぐ時にやって来るだけなんだけどな。…俺は両親にとって初めての子供で、長男だからと色々期待されたよ。でも俺は生まれて間もない頃に先天性の病気があると言われた」

椿は思わずゴクリと生唾を飲んだ。

「想像つかないだろうが、二十歳までは生きれないと言われたよ」

安形はもう二十五になる。
しかし彼はまるで物語を言っているかのように穏やかな声色だった。安形の話なのに、椿は自分が告知されたかのように目の前が真っ暗になった。

「それでも運良く生き延びている。別に病気が良くなった訳じゃないんだ。普段通りには生活出来るが、突然発作が起きて動けなくなる」

椿はこの間の蔵泥棒の事件を思い出した。怪我をしていないのに突然蹲り、胸を押さえていた。あの後盗賊の頭を追いかけたり、希里の件があったりですっかり見過ごしていたのだ。数ヶ月と言えど傍にいたのに全く気付かなかった。
椿は思いもしなかった告白に押し黙り、なんと声を掛ければいいのかわからなかった。家が医者だからこそ、下手な慰めがどんなに意味をなさないか知っているのだ。
逆に安形が気遣うように苦笑した。

「椿、俺は二十歳の時に好いていた女がいたんだ」

突然の話の切口に、椿は流れが掴めず無言で窺った。病気の話から何故、恋人の話が出るのか。しかし横槍を入れる雰囲気ではないので、そのまま黙っていた。

「そいつはただの町娘だが気がいい奴でな。俺の病気のことを知っても離れず、結婚の約束をしていたんだ。幸せで、恋人だから勿論愛し合った」

そう語る安形は大切な本を読み聞かせているようだ。病気の告白の時とは違い、どこか優しさがある。
椿はそんな彼を見て、鉛でも飲んだような気持ちになった。腹がずっしり重く、喉が詰まって呼吸が出来ない。安形と目が合わせられず、彼女は自分の拳だけを視界に収めた。

「けど、そのせいで女は死んだ」
「え?」

突然冷たくなった声に顔を上げる。
彼は汚い愚かなものを見るような目付きをしていた。しかし彼の目に椿は映っていない。椿はまさか、と睫毛を震わせる。

「俺の病気には感染性はないと思っていた。一緒に暮らしていた家族や役所の連中は平気だからな。でも違っていたんだ。女は俺の病気が移って呆気なく死んだ。何故だと思う?」

問いかけていたが最早答える間などないくらいに安形は早口になっていた。

「俺の病気は血液や粘液同士が接触したり、体内に入ると感染するんだ」

体液の接触、つまり余程のことがない限り、主に性行為を指す。
椿はやっと幾本にも絡まった糸がほどけていくのを感じた。何故彼は自分を最後まで抱かなかったのか。余すところなく体を弄ぶのに、口付けはしないのか。恋人を作らないのか。先日の榛葉の不審な口振りも、それは全て病気を畏れていたのだ。最初から彼は椿を犯す気などなかったのだ。
椿は全身の血の気が引いていくのを感じた。彼はどんな気持ちであの行為をしていたのだろう。
安形は机から煙管を取り、火を付けた。

「気持ち悪いだろう?病気の男にあんなことされて」
「あの…」

久しぶりに出した声は、驚くくらいに震えていた。

「黙ってて悪い。もうあんなことはしないし、お前が女だということも黙っておく。部屋もお前には別の個室を、理由つけて用意させよう」

ふぅ、と紫煙を吐きながら会話が終わる。もう帰れということだろう。椿は一つ会釈をし、薬を置いて出ていった。

個室のことなど、そんなことはどうでもよかった。病気に対する憐れみや、その男に体を弄ばれた嫌悪はない。椿が不謹慎にも心を占めるものは一つだ。

「……恋人、いたんだ」

誰もいない路地でぽつりと呟く。
椿は空になった籠を持ちながら家路を辿っていた。気付けば家まで半分くらいの距離を歩いていた。それまでの道中をどうやって帰ったかはよく覚えていない。今でも足だけがとぼとぼ動いている。
真っ赤な空は西から闇が襲おうとしていた。椿は頭を上に仰いだ。

「もうあんな風に抱かれることはないのか…」

女という秘密を黙って貰った上で、あのような関係は終わったのだ。よかったじゃないか、と椿は自分を納得させようとした。しかし彼女に溢れたのは安堵ではなく涙だった。

「…嫌だ」

椿はこの数ヶ月を振り返った。入隊試験の時に人を小馬鹿にした安形に少し腹を立てた。風呂で鉢合わせ、のぼせているのを助けて貰った。それから交換条件に体を好き勝手された。初出動の時は敵に斬られそうになったら助けてくれた。男ばかりの大部屋から移動させてくれた。同室になって更に体を弄られる日は多くなったが、最後まではしなかった。

「……なんだ、助けて貰ってばかりじゃないか」

女なりに一生懸命やっていると思っていた。しかし傍にはいつも安形がいた。
飄々として、適当で、外には見せないが仲間思いな彼がいたから、ここまでこれたのだ。
椿は胸から湧き出る感情を理解した。何故女扱いされないと胸が痛んだのか。恋人がいたと知った時に何も言えなくなったのか。

「局長っ…!」

道に座り込み、感情を持て余して子供のように泣いた。
誰もいない路地で、人目を憚ることなくわあわあと声を上げる。初めて恋を知り、敗れた感情を抑える術など彼女は知らなかった。拭っても拭ってもぽたぽたと涙が地面に落ちる。そこに椿以外の影が後ろから重なった。背の高い影に振り向く。いつもの装束を着た、透き通る銀髪に夕焼けの赤を受ける忍がいた。

「…佐介様、どうされましたか?」

初めて見る主の気弱な姿に、希里は立ちすくんだまま尋ねていた。泣き喚くところを見られたとわかると、椿は途端に恥ずかしくなる。ごしごしと目を吹き、彼女も向かい合わせに立ち上がった。

「君こそ、なんでここに?」
「俺は任務が終わったので佐介様と出かけようかと探していたんです。町にも役所にも見当たらなくて…そしたらここで、その…」

そっと表情を窺われ、椿は赤く腫らした目を見られないように逸らした。

「大丈夫だ。ちょっと色々驚いたことが続いて…心配をかけてすまない。僕は、本当に何も…」

平静を装おうとしているのに、口は不自然なくらいに早口になる。目の縁で堪えていた涙が、勝手にポロリと零れた。作り笑いがどんどん崩れ、嗚咽まで溢れてくる。
こんな情けないところを見られまいと、背を向けて走ろうとした。しかしその前に希里が彼女の肩を引き寄せた。胸に収まったまま椿が彼を見上げる。

「き、希里…?」
「俺の胸を貸しますから、どうか一人で泣かないで下さい…」

希里が顔を覗き込むように微笑むと、距離が近く椿は急いでうつ向いた。結局椿は彼の胸を借りる形になる。

「佐介様、何があったのかお聞きしてもよろしいですか?」

希里はそっと肩に手を添えたまま、彼女が緊張しないように僅かに間を開けた。
それでも彼は弱冠戸惑っていた。戦場で血にまみれても目の前で人が無惨に死のうとも、椿は決して涙を見せた事がなかった。そんな強い彼女が、ここまで泣きじゃくるなんて一体何があったのか。今日は愛らしい格好をしているし、もしや暴漢に襲われたのかもしれない。しかし見たところ衣服に乱れはない。
希里は普段は、強い彼女に慕い付いていく犬のように守っていた。しかし今は、弱々しい彼女をどうにかしてあげたいという色合いだ。希里は従順に言葉を待ち続けた。椿が鼻をスン、と鳴らしながら掠れた声を振り絞った。

「う、うまく説明出来ないんだが…僕の正体を知る人が君以外に役所にもう一人いるんだ」

希里はその話を聞いていなかった。
幼少の頃に暴漢に襲われたこと、それがきっかけで火付盗賊改方に入隊したこと、あとは傷の人のことしか聞いていなかったのだ。自分だけが唯一知っている秘密だと、てっきり思っていた。

「僕は正体を黙って貰う代わりに、彼に体を差し出していて…」
「なっ!?」

希里は手がぶるぶる震えた。椿が嗚咽混じりに続ける。

「でも最後まではしていなかったんだ。今日はその理由を聞いて、その理由と一緒に昔の恋人のことを聞いて、色々あって僕達はもうそういうことはしないってなって……それがひどく辛くて…」

聞く限りではちんぷんかんぷんだが、椿がその男のせいで傷付いているということを理解した。
胸で泣く彼女を見つめる。こうしていると、椿は本当にただの、むしろ平均より細く頼りなく―か弱い女性だ。
希里の心に柔らかい泡が浮かんでくる。奥底に沈んでいたものが、生き物の存在を示しているように。一つ、二つ三つと水面に姿を現した。

「僕は…あの人のことが好きだったんだ」

椿は独り言のように呟くと、また涙を流し始めた。希里の心の水面に、雷を打たれたような動揺が走った。胸が速く鼓動を打ち、その度にズキズキと痛む。
喉が乾いて引っ付き息しか吐けない。声一つ掛けれないのに、彼女をどうにかしてあげたいが、どうにも出来ないもどかしさで体が所在なさげに身動ぐ。混乱の中にも、椿が好きな男に対する確かな殺意も湧いていた。
希里もまた、自分の気持ちに気付いてしまったのだ。

「佐介様…泣かないで下さい」

希里は彼女を強く抱き締めた。背骨が折れそうなくらいに力を込める。椿は希里の心中など知らず、無償の優しさに甘えた。



辺りはもう夜の帳が落ち、重なる二つの影が闇に溶けていく。
しかし三人の想いは重なることなくすれ違っていた。安形は病を患い、椿と希里は恋を患っている。誰一人、誰かを救えないでいた。
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