火付盗賊改方の内半分は町と城の裏の林に待機し、残りの半分―百人程が城の居間で盗賊が現れるのを待った。今回の依頼は盗みに入りこまないようにするのではなく、盗みに入った連中を一挙検挙するのが目的である。なので最低限の見張りだけを残し、出てきた所を引き付け、一斉に指定された配置場所へ向かう。逃げられないように囲んで殺さないように捕まえる、という戦法である。しかしそれまでは城の中で待たなければいけないのだ。 ただ待つというのは精神的にも体力的にも消耗する。しかも騒いで警戒されてはいけないので、なるべく声を潜めなければいけない。緊張で既に疲れている者もいたし、昼間の見回りが堪えて頭が船を漕いでる者もいた。一番広い居間と言えど、百人の男が膝突き合って黙りこくる空間はかなり息苦しい。 椿は厠ついでに外の空気を吸おうと、廊下へ出た。 「………はぁ、一体いつ現れるのかな」 夕方から待ち続け、もう夜中になった。さっきからそろそろか、と皆待ちわび、物音一つに慌てて腰を上げた。ほとんどは風や野良猫の仕業だった。 歩いているとギシギシと床が鳴る。庭に面した廊下の角を曲がり、突き当たりに厠がある。すっかり覚えてしまった場所へ向かうと、椿は角で人にぶつかってしまった。向こうが走っていたので、勢いあまって椿は尻餅をついた。 「いたた……」 腰を擦りながら見上げた先は、長身の男が立っていた。 月明かりに栄える、見たこともない銀髪。そのくせ全身は真っ黒な装束を着ている。顔の半分は布で覆われているが、見える切れ長な目は冷たい眼差しで椿を見下ろしていた。 「…忍者?」 ぽかんとしながら呟く。忍者は椿を一瞥した。 「あんた火付盗賊改方か?随分どんくさい役人がいるもんだな」 「な!」 ぶつかっておいてなんて言い草だろう。椿はわなわなと体を震わせ、急いで立ち上がった。 「いきなりなんだ!君と僕は初対面だろう?そんなことを言われる筋合いはない!」 「思った事を言ったまでだ。そんなどんくさくて役人が務まるのか?背も小さくて睫毛も長いし…女みたいだな。帰った方がいいんじゃないか?」 「なんだとー!」 椿はカーッと頭に血が上った。 彼の言っていることはある意味、的を得ている。しかし今の問題はそこではない。無礼を無礼とも思わない態度に腹立つのだ。椿は鋭い眼光で強く睨み、忍者は腕を組んでそれを睨み返す。一触即発という険悪の中、椿は後ろから肩を叩かれた。それでハッと我に返る。そこにいたのは安形だった。 「何やってんだよ」 「…局長」 安形は前に立つ忍者を見て、ニッと笑いかけた。 「今日は俺達もいるから。よろしくな」 「……ふん」 忍者は返事をせず、闇に消えていった。角でぶつかった時もそうだが、足音や物音を一切立てない。人の気配や名残など微塵にも感じさせず、夜風が庭の花を靡かせているだけだ。 やっと落ち着いた椿は安形に深く頭を下げた。 「申し訳ございません。ご迷惑をお掛けしました」 「いや、遅いからさ。何かあったんじゃないかと思ったら忍者と喧嘩なんかしてるからな」 椿は恥じ入って目を伏せた。 「あの忍者とは知り合いですか?」 「知り合いって言う程でもないけどな。あいつはここの城のお抱え忍者なんだよ。何度か一緒に仕事したことあるけど…あいつらは単独で動くからな。あんまり気にするな」 安形はやれやれと夜空を仰ぐ。 椿はじっと彼の顔を下から覗きこんだ。 「どうした?」 「いえ、榛葉さんが局長の体調がよろしくないとおっしゃっていたので。気になりまして」 安形の顔色はやはりいつもと変わらなかった。それでももし体調が悪いなら、今夜の作戦に支障をきたすかもしれない。最悪の事態に備え、危惧を心がける為の何気ない質問だった。 「ああ、道流がな…」 しかし安形は今朝の道流と同様に、言葉を濁した。 椿はふと、記憶が混乱した。確かに彼女は榛葉と安形について色々話した。榛葉が言葉を濁したのは、体調のことだっただろうか。何か別の話だった気がする。でも二人の濁し方が似ている。 なんの話をしていたのだろう。記憶を探っても頭はぼんやりしていた。生理の気だるさに、出動への緊張、夜中の眠気。うまく呑み込めず、考え始めると微睡みそうになる。 しかしそれを一喝するように、カンカンカンと高い鐘の音が響いた。 重くなっていた瞼が開く。鐘は蔵の方から聞こえた。 「来たぞー!」 安形と椿が振り返ったのと同時に、合図の声も上がった。 向こうの広間の襖が一斉に開き、百人の隊士が飛び出す。皆緊張を過ぎた眠気から目覚め、新人ですら好戦的な目付きで刀を携え走った。その群れは合戦というより、野獣の突進だ。全員雄叫びを上げながら真っ直ぐ持ち場へ向かっていく。砂塵が舞う。 これが男同士の、男達だけの戦いなのだ。椿は思わず固唾を呑んだ。 「椿、行くぞ!」 「あ…はい!」 二人も後に続いた。 蔵は本城から少し離れた庭の中にある。百坪ある、この国最大と言われる蔵。十分に人が住めるくらい壁は厚く、鉄鍵で施錠されている。しかしそれは斧で割られ、扉は開いていた。蔵の周りには隊員の他に百人、もしかしたらそれ以上の盗賊がいた。半襦袢や安い着物を羽織り、防具は身につけていない。共通しているのは、顔がばれないように布を巻き、目しか見えないことだ。しかし身は軽く、戦い慣れている。新人でないが苦戦している隊員も多い。本当にただの物取りだろうか、椿は訝った。 しかし考えている暇はない。二人は蔵の中に入った。中は薄暗く、天窓から差し込む月明かりだけが頼りな状況だ。壁には米俵が積まれ、蔵の真ん中には長い棚が奥まで伸びている。棚には籠に入った野菜や果物が並び、ぶつかると落としてしまいそうだ。というか、落ちている。床には南瓜や林檎が転がっていた。 そんな中でも何十人が戦い、混戦していた。安形は一人で三人を相手している榛葉を見つけて駆け寄った。椿も追った。 「わりぃ、遅くなった道流!」 「もうー遅いよ二人共!」 榛葉は相手の刀を弾き返しながら、間合いを取る。安形は一人の男の正面を取った。 「椿、一人も逃すなよ!」 「わかりました!」 今回の目的は一斉検挙。 逃げ出している輩もいるが、門や町にも見張りはいる。今は目の前の相手に集中するだけだ。 「観念しろ、悪党」 刀を構えて睨む。 椿の相手は臆することなく、真っ向勝負を受けてたった。剣がぶつかり、力比べになる。敵わないと判断した椿が後ずさる。気付いた盗賊が追いかける。 椿は苦戦した。周りに気を配りながら、暗い蔵で戦うのはかなり難しい。明るい道場で、一対一で戦うのとは訳が違う。一瞬の隙が、一回の読み違いが、死に繋がる。しぶとい相手に緊張の連続を強いられ、椿の意識は散漫になった。 蔵の中は熱気が籠り、暑くて汗が流れる。股から血は止めなく流れ、最早体に伝うのが汗か血かはわからない。 「っ!」 椿は足元が滑った。 横ばいに倒れ、刀を落とす。そこへ盗賊が大きく振りかぶった。 「……!」 避けなくては、そう思っているのに、普段より重い体は反応が遅れた。間に合わないと息を呑む中、安形が横から男の腹を斬りつけた。彼はもう自分が相手していた相手を倒した後だった。 「…っ!いてえ!」 男は傷を押さえながら蹲っている。椿が呆気に取られていると、安形が駆けてくる。 「大丈夫か?」 「すみません、局長…」 椿は差し出された手を取ろうとした。しかし、安形の後ろで男が逃げ出している。傷を負っているとは思えないくらい、素早く走り去った。椿の視線の先に気付いた安形が後ろを振り向いた。 男は怪我した拍子に顔の布が外れていた。 「待て!」 安形は追いかけようと足を踏み出した。しかしそのままよろけ、地面へと膝を崩す。彼は胸を掴み、息を不規則に吐いている。汗は流れているが、暑さのせいではないだろう。顔色が真っ青だった。 椿は彼の肩に手を添えた。 「局長?どうしたのですか?やはり体調が…」 「…俺はいい。椿、今の奴は手配書も出てる前科三犯の抜け忍だ」 「あいつが?」 「多分この集団の頭だ。逃がすな。追え!」 額に汗を流す表情は真剣そのものだった。この安形を置いていくのは忍びないが、榛葉も他の仲間もまだ戦っている。選択肢はないのだ。椿は刀を拾い、蔵の出入口へ走った。 「待て!愚か者!!」 外も戦いの熱気で渦巻いていた。死んでいる敵もいたし、倒れている仲間もいる。血溜まりが雨でも降った後のように地面を濡らし、肉片が飛んでいた。これは本当にただの物取りなのか?椿は戦いが始まる前と同じ疑問を胸で繰り返す。普通は只の物取りなら、戦い慣れてなどいないから役人を見ると簡単にお縄にかかる。しかし敵は命を顧みてないしこちらに畏怖していない。 違和感で胸がざわつく。 人の間をすり抜けて走る。男は壁を登り、裏の林へと抜けていった。椿は勝手口から回って追いかけた。 「……くそ!」 思っていた以上に足が早く、どんどん二人の距離が開いていく。 椿は遠くなる背中に歯ぎしりをした。林は厚く繁って月明かりも届かず、足元も悪い。思うように走れないし先が見えない。 闇に乗じて逃げる相手に成す術ないまま、椿は縺れそうになる足を休めず走った。 「……?あれは…」 一陣の風が吹き抜けた。木の葉が揺れた先にはキラリと何かが光っている。光の正体は、鮮やかな銀髪だった。先程の忍者だ。 「止まれ!」 男の前に回り込む。男は逃げられないとわかると、すぐに刀を構えた。 幾漠の沈黙の後、カン、カンと金属がぶつかる音がする。二人は間で何手もの攻防を繰り広げたのだ。目で追い付かない戦いに椿は立ち尽くす。 しかし勝負は思いの外すぐにケリがついた。男は忍者から一手攻撃を受けたのだ。肩を切られて座り込む。忍者はその前に立ち塞がった。 「観念しろ。生きて捕まえろとの御達しだ」 もう勝負の行方は明らかだ。しかし男は傷を受けているのに、蛇みたいな殺気を忍ばせている。忍者は気付いていないだろうか、椿は見守った。 男はそっと後ろに手を回し、腰に巻いていた袋を漁った。 「罠だ!」 叫ぶと同時に走る。男は殺されないと知っていてわざと攻撃を受け、相手の隙が生まれるのを待っていたのだ。忍者の眼前に苦無が飛んでくる。しかしそれは後ろから体当たりした椿によって軌道が大きく逸れた。 「くそ!邪魔すんな!」 体勢を崩した男は背中に張り付く椿の肩を苦無で刺した。 「っ!」 椿がはね除けられる。忍者は一連の流れに呆気に取られていたが、すぐに男の首根っこを掴んだ。羽交い締めにしてから首を締める。忍者の腕がめりめりと首に食い込んだ。 「かっ……は!」 男の体を足がつかない高さに持ち上げる。男はじたばたと足掻いたが短い足は僅かに草を蹴っただけだ。気道が潰され、涙や唾液をだらしなく溢す。忍者の腕に爪を立てたが、びくともしない。結局男はガクン、と首を曲げて意識を失った。今度は演技でないようだ。忍者は懐から縄を取り出し、男の体を素早く縛った。終わってから気まずそうに椿を見る。 「…まさかあんたに助けられるとはな」 忍者はチッと舌打ちした。 「いや、気にしなくていい」 椿は首を振った。自分が捕まえられなくても、結果的に頭はこちら側の手に渡ったのだ。 椿は持ち場に帰って安形達の助太刀をしようとした。しかし彼女の視界はぼやけ、体に力が入らなかった。地面に膝をついて倒れる。ぎょっとした忍者は思わず彼女に近寄り、上半身を抱えた。 「おい!大丈夫か?」 さっき切られた肩の傷は浅い。しかし椿の袴は、血で真っ赤だった。足首にまで滴っている。 意識がなく、唇が色褪せていた。 「どこか怪我を…?」 忍者は手当をしようと袴を脱がした。腰紐をほどき、太股が露になる。しかしそこは外傷などなく、褌だけを汚している。よく考えれば袴に一切切られた痕がないのに、血が流れているのはおかしい。忍者はもしや、と息を呑む。恐る恐る褌の上を触った。そこには自分と同じものはなく、ただ平たい。忍者は手についた血と、背が小さく睫毛が長いと馬鹿にした役人の顔を交互に見た。 「………女ぁ!?」 その声は誰に聞かれることもなく、林に響いた。眠っていた烏だけが驚いて木から飛び去り、ざあっと葉を揺らした。 「……う、ん」 椿が目を覚ました時、彼女の体は林の中ではなかった。林から抜け、開けた小川の畔で寝ていたのだ。少し遠くに城壁が見える。 夜はまだ空けておらず、月が城の屋根に隠れている。椿はむっくりと上半身を起こして辺りを見回した。すると、横にはあの忍者が気配もなく胡座をかいてどっかり座っている。忍者の向こうの方では盗賊がまだ意識戻らないまま転がっていた。 「あ、あの…僕は……」 「気失ってたんだよ」 忍者は口元に巻いていた布を外した。 椿は一つ一つ確認した。作戦で城に待機し、忍者に出会い、盗賊がやってきて、安形と向かい、自分が追った頭を忍者が捕まえ、そして―記憶が途切れたのだ。 そう、血を流しすぎて貧血になったのだ。椿は改めて自分の姿を見た。着物はぼろぼろだがかろうじて着ている。しかし下衣が血塗れになっている。椿は自分の体を抱きながら、後ずさった。 忍者は眉一つ動かさず彼女を見つめている。 「…なんで女が役人になってるんだ?」 淀みなく真っ直ぐに問われ、椿は赤面してうつ向いた。 正体がばれてしまった恐怖に、生理のそれを見られた気まずさ。短期間に二人にもばれるという自分の注意力のなさに、情けなくなる。これからどうなるのだろう、と椿は目の前の忍者を見た。安形のように脅すわけでも、詰ったりする風ではない。無表情で彼女の返答を待っている。どうせ誤魔化す事も出来ないのだ。椿は諦めて安形の時と同じように話した。 「実は…」 小さい時に暴漢に襲われたこと、その時に火付盗賊改方の人に助けて貰ったこと、名前も顔もわからないが目印に背中に一本線の傷があること、その人を探す為に男と偽って入隊したこと。話し終わると忍者は暫く黙っていた。ちょろちょろと流れる小川の水面を二人で見つめる。 沈黙に包まれて椿は心臓が潰れそうに痛かった。 「あんた、名前は?」 「え?」 切り出した予想外の言葉に椿は目を丸くした。彼はからかっている雰囲気ではなく、至って真顔だ。 「…椿佐介。本名だ」 椿も素直に答えた。すると忍者は彼女の横から足元へ移動し、それは恭しくかしずいた。片膝を立て、そこに額が付きそうなくらい頭を下げている。突然の行動に椿は小さく跳ね上がった。 「な、なんだ…!?」 「今までとんだ無礼ばかり大変失礼しました。我が主」 「………はあ?」 またもや聞き慣れない呼び方に椿は首を傾げる。椿ちゃんだの、我が主だの、聞き間違いだと思いたい呼び方ばかりだ。しかし忍者は真っ直ぐな視線で椿を射抜いた。 「主、って…僕は君の主になった覚えなんかないぞ!」 「いいえ。先程俺は貴方に命を救われました。あんな無礼を働いた只の忍一人に……感動しました。そして決めたのです。貴方こそ我が主だと!」 忍者は目を輝かせながら、ぐっと拳を握った。椿は慌てて両手を大きく振った。 「待て待て!君は〇〇城に仕えている忍者だろう!?主はいるじゃないか!」 そう言われると忍者は悲しそうに目を伏せた。途端に勢いをなくし、椿も戸惑う。今度は忍者がぽつりぽつりと語り出した。 「確かに俺は城に仕えています。しかしそれは忍の家系故の、曾祖父の代から仕えているからというだけの義理の忠誠……実際は今の城主にうんざりしているのです。重い税で民を苦しめ、心ない政治ばかり」 確かに、とその件に関しては心から同情した。椿達は役人でそれなりの生活は保証されているものの、農民は税を搾り取られている。国の問題は根深い。しかし一般市民にはどうすることも出来ないのが現状だ。 「もう惰性で忍者を続けていましたが、やっと仕えたい主に出会えました!どうぞ我が主に!」 「待て待て!僕は只の役人だ!主なんてそんな…」 忍者は食い下がった。 「今まで通り城にも仕えます。ただ、心は貴方に仕えたいのです」 身を乗り出し、すがるように眉根を寄せた。 「……許されないでしょうか?」 椿は頭を抱えた。 断っても引き下がりそうにないし、もし怒らせて役所にばらされても困る。このまま好意的な付き合いををしていたら、とりあえず最悪の事態は免れるだろう。椿は渋々とため息を吐いた。 「…わかった。好きにしてくれ」 忍者の顔はパッと明るくなる。先程までは例えるなら無愛想な狼だったが、今は人懐っこい大型犬だ。別人のような変貌ぶりに、椿はどう接していいかわからなかった。 「ありがとうございます!我が主!」 「主はやめてくれ。名前でいい」 「…では佐介様とお呼びしても?」 様をつけられるような大層な人間ではないが、椿は一々突っ込むのを諦めた。 「ああ。…ええと、すまない。君の名前は?」 「加藤希里です。どうぞ希里と呼んで下さい」 「わかった、希里」 希里は安堵の笑顔を見せた。しかし彼は突然椿を地面に押し倒した。彼女の引っくり返った視界には希里の顔しか見えない。今の話の流れで何故こんな行動に出るのか。やはり脅すのだろうか。椿は脇に置いてあった刀に手を伸ばした。しかし希里はそれより早く苦無を取り出し、こともあろうに自分の腕を斬りつけた。 「何を…」 動脈を切ったのだろう。血はドクドクと溢れ、椿の顔や胸に落ちた。ぽたぽたと滴るそれは熱い。希里は痛みに顔をしかめているが、傷口をほったらかしにして椿に血をかけ続けた。 「…希里、やめろ!」 「佐介様…申し訳ございませんが、袴だけが血塗れでは戻った時に怪しまれます。木を隠すなら森。このように全身血塗れなら不審に思われないでしょう」 「だからって…もういいから、傷口を縛らないと…」 椿は希里の手首を掴み、少しでも血を止めようとした。希里はその手を取り、甲にそっと口付けた。 「貴方の命の恩人には遠く及びませんが…この傷が俺の忠誠の証です。どうぞいつでも呼びつけて下さい」 にっこりと、優しく微笑む。妄信的なところはあるものの、彼は根はとても素直なのだ。椿は照れくさくなった。 口付けられた手が擽ったく、パッと離す。希里は立ち上がり、一礼してから捕まえた男を抱えて闇に消えた。光る銀髪はもういない。すっかり下がった体温に身震いしながら、椿は城に戻った。 勝手口から中に入ると、澄んだ林の繁みとは違って蒸せ返るような血の臭気に包まれていた。まだ転がったままの死体もあるが、戦っている者はいない。蔵の前では何十人の盗賊が縄に縛られて座り込んでいる。 「どうやら作戦はほぼ無事に終わったようだな…」 城まで戻ると、広間では傷を負った仲間が手当をしている。看病している者が怪我人に追い付いてないようだ。額がぱっくりと割れている者が床に蹲ったままでいるし、利き手を斬られて震えている者もいる。今のところ仲間に死者は出ていないようだ。それでも軽傷を含め結構な重傷人も多い。椿もすぐに手伝おうと部屋に駆け込んだ。しかし仲間は椿の姿を見てぎょっとしていた。 それも仕方ないだろう。端から見れば彼女は全身血塗れで誰よりもひどい姿だ。椿は怪我をしていないと説明しようとした時に、榛葉が気付いた。 「椿ちゃん、どこ行ってたんだい?それにその怪我は…」 「いえこれは…返り血です」 正確に言うとかけられた血だが、そこは語らないことにした。二人の元に安形も寄ってくる。彼は怪我こそしていないが顔色がまだ悪い。まだ汗を流し呼吸も整っていない。 椿は頭の男の事を報告しようと口を開いた。 「局長!さっきの男ですが…」 安形は椿の言葉を最後まで待たず、声を被せた。 「男のことなら報告があった。ついさっき庭に倒れているのが見つかったらしい。本人は椿佐介という男にやられたと言ってるが…本当か?」 椿は希里を思い浮かべた。 男は希里が連れ去った。てっきりもう城主に引き渡していると思ったが、彼は多分椿に良かれと思ってこんなことをしたのだ。男に何かしら吹き込んだか脅したのだろう。椿は予想していなかった事態に唇を結んだ。 嘘をついて人の手柄を自分の物にするなんて、彼女の正義感が許さない。しかしここで希里の事を話すとややこしくなる。椿は少し考えてから小さく頷いた。安形は安堵しながら笑みを浮かべる。 「…わかった。よくやったな、椿」 くしゃくしゃと髪を撫でられ、椿は首をすぼめた。初めての戦い、何度も死ぬかと思った。安心すると泣き出してしまいそうなので、唇を噛む。 やっと長い夜が終わったのだ。朝日は山間から顔を出そうとしていた。 戦いから一週間が経った。椿は生理も終わり、気分は晴れやかだった。体は軽く袴を汚す心配もない。この前の血塗れの着物は汚れが落ちず、流石に捨てた。生理は毎月やってくる。戦いはいつくるかわからない。今回のことを教訓にして、注意深くするのを心がけようと椿は誓った。 彼女は道場で昼の鍛錬をしていた。久しぶりに全力で集中が出来て、竹刀を振る手に力が入る。しかしそこへ、先週まではなかった傷を顔に作った同期が椿に話し掛けた。 「椿、局長が呼んでるぞ」 「局長が?」 彼が椿を呼び出すのはいつも夜だ。昼間からそのような誘いだとは考え辛いし、きっと別件だろう。椿は汗を拭った。 「じゃあな」 「あ、ああ」 同期の男は告げると後にした。いつもの下品な冗談は言わない。 あの事件から周りの連中は椿との関係を改めた。班長と言えどまだ新人なのに、盗賊の頭を捕まえたのだ。元々一目は置かれていたが、それは優等生故のやっかみもあった。そこに安形との噂もあり、局長に可愛がられているから班長になれたと言う者もいた。しかし血に汚れながら任務を達成した椿は、もう認めざるを得なかったのだ。それは全て希里のお陰だが、まだよそよそしいものの、椿は少しだけ同期と距離を縮めることが出来たのだ。 「失礼します」 いつもと変わらず礼儀正しく戸を開けて入室する。しかし今日の安形はいつもと違い、姿勢を正して待っていた。椿も自ずと元々伸びていた背筋を更に伸ばす。 安形は腕を組んだまま目の前の椿を見つめる。 「椿、先日はご苦労だった。城主も喜んでいたし、上のお偉いさんも感心している」 「いいえ、恐縮です」 椿は丁寧に頭を下げた。 「それでだ。今回下っ端にして異例の手柄を上げたお前に昇進の話が出ている。十班の班長から一班に入って貰いたい」 椿は顔を上げた。安形が微笑みながら頷く。 「…本当ですか!?」 「ああ。あともう一つ、ある役職についてもらう」 「役職?」 椿が疑問符を浮かべると、安形は膝を崩して胡座をかいた。いつもの彼だ。 「俺のお抱え小姓だ。つまり身の周りの世話をして貰うわけだが…まあいつもと変わらないか」 安形の世話などしたことないが、椿が唯一彼に尽くしていることと言ったら夜の世話だ。いや、世話にもなっていない。安形の一方的な愛撫に耐えていると言った方が正しい。 しかし小姓になればいちいち呼び出す理由などいらなくなる。つまり、今の関係が名実と共になったわけだ。また周りに何か言われる心配もあるが、彼女が生返事をすると、安形は首を捻った。 「お前わかってんのか?小姓は常に身の回りの世話するんだ」 「そうですね」 「常に、だぞ」 「はい」 未だに察しないので安形はため息を吐いた。 「つまりな、お前の部屋は今日からここだ。大部屋の荷物移しとけよ」 「………えぇ!?」 やっと理解した椿は思わず大声を出した。 小姓になり、安形と同じ部屋で暮らすのだ。大部屋で同期と寝るより、正体を知っている安形の方が気は楽になる。まさかそれを考えて、この機会にそう言い出したのかと椿は安形を見上げた。 「ま、これでいつでもやれるわけだな。覚悟しとけよ」 「…な!」 椿が赤面していると、安形はいつもの調子で高笑いした。 初めての出動、希里との出会い、昇進に部屋の移動。 三ヶ月目にして椿の環境は大きく変化していった。 |