一番星に願う彼は誰ぞの後編になります。 宿についてから二日経った夜。もう深夜までふけこみ、日が変わろうとしている。藤崎達は宿の馬舎にいた。 「いいのか?君が借りた馬なのに…」 「団子屋の所に繋いでくれてたらいいから。俺は朝になってからゆっくり帰るし」 椿が取れた休みは二日間だけだ。明日の朝には出勤しなければいけない。時間の許す限り宿に滞在し、夜中に出発することにした。 しかしこれから明るくなる道のりを、二人で馬に乗って帰るのは目立ってしまう。仕方なく椿だけ先に帰ることにしたのだ。 「なんだかあっという間だったな…」 椿は手綱を持つが中々馬に乗ろうとしなかった。 藤崎は微笑み、額に、頬に、唇に三度口付けた。 「また来よう。今度は長めに休みを取って」 湿気を含んだ夜風は冷たく、夏前というのに気温が低い。藤崎は椿の羽織を正し、添えていた手を離す。 二人はひっそりと別れを惜しんだ。 帰路を辿り、空が白む頃には町に戻った。 馬は言われた通り、団子屋の柱に繋ぐ。頭を撫でると機嫌良さそうに鼻を鳴らしていた。 山間から太陽は顔を出そうとしている。朝の町並みは閑散としていて静寂包まれていた。まだ人通りの少ない日常にゆっくり戻っていく。 城の門番は寝ぼけていて、頭が舟を漕いでいる。椿は咳払いをした。 「お務めご苦労」 門番ははっと目を覚まし、垂れていた涎を拭った。 「つ、椿殿!戻られたのですか?」 「つい今しがたな」 諫めるように横目で見る。門番は背筋を伸ばしながら頭を下げた。 「椿殿、そういえば安形殿が帰ってきたら部屋に来るよう言ってましたよ」 「安形殿が?」 時間はまだ大分早い。普段の安形は昼間でも隙あらば寝ている男だ。椿は出直そうかと考えたが、念のために部屋の前まで来ると、座して待つ安形の影があった。 「失礼します」 膝をついたまま、恭しく戸を開ける。安形はもう身なりを整え、書物を読んでいた。椿の声に顔を上げるが、そこにいつもの弛みはなく、凛と表情を締めている。 「よお、椿。悪いな帰ってきて早々」 「いいえ。この度は突然の休暇にご迷惑をお掛けしました」 「いいんだよ。俺と道流が行けって勧めたんだからな。どうだった、温泉は?」 「とても良かったです。お気遣いありがとうございます」 呼び出したにも関わらず、安形はだらだらと世間話をするだけだった。 部屋に入るよう促され、椿は安形の前で正座した。 「しかし折角の温泉が一人旅なんて、退屈だったんじゃないか」 安形は肘置きに凭れて薄く笑う。 椿は少し顎を引き、畳を見つめた。 「いいえ。一人旅でもゆっくり出来ましたので」 土産話に花を咲かそうとしていた安形は、急に黙った。目を伏せ、静かに息を吐く。 朝の緩やかな微睡みに、糸が一本張った様な緊張が走る。椿はその気配を察し、面を上げた。 「安形殿…?」 「椿、試してすまない。お前の今回の旅、一人じゃないことは知ってたんだ」 「え」 突然の告白に、心臓は早鐘を打ち、頭の中は真っ白になった。 「丹生のお嬢さんがな、一昨日、丁度お前が泊まった宿の近くを通ったそうだ。そこでお前の姿を見たと。男と口付けしていた、と」 あの夕暮れの一時を知り合いに見られたのだ。 椿は恥ずかしさに顔を染め、二の句が出てこず唇を結んだ。しかし安形の報告はまだ止まらない。 「…相手の事を藤崎と呼んでいたとも聞いた。まさかと思いたいが、藤崎は盗人団のあいつのことか?」 安形の淀みない視線に射抜かれる。椿は固く目を閉じた。 「……その通りです。僕は藤崎と恋仲です」 次々と露呈されていく事実に、椿はもっともらしい嘘もつけなかった。仮に誤魔化したところで安形相手に言い逃れは出来ないだろうし、何より椿は真面目で実直な男だ。自分の保身の為に事実を偽ったりしない。 「……そうか」 安形はそう聞くと、再び会話を途切らせた。 椿はじっと次の言葉を待つ。膝の上に置いた両拳を強く握る。それはじっとり汗ばんでいた。 「…お前達がどういう経緯でそんな仲になったか気になるところだが、今はそうゆっくり話も出来ねえ。 さっきも言ったが、丹生のお嬢さんがお前達の事を見たんだ。俺とその話をしているのを、聞き耳立てた奴がいるみたいでな。既に何人かの耳に入って噂になっている。尾ひれ羽ひれがついて、お前が盗人団の密偵になって火付盗賊改の情報を流しているんじゃないかって話まで出ている」 「そんなことは!」 椿は思わず大声を出した。安形は頷いて静かに見つめ返す。咄嗟に上げた腰を降ろした。 「俺もそんな話は信用しちゃいねえよ。お前はそんなことしないし、出来ない男だ」 真摯な表情の、目線がゆっくり横に流れる。 「…ただここで重要なのは、もうそういう噂が出回っていることだ」 「…はい」 安形ははっきりした声で言い放った。 「椿、お前は盗人団の藤崎と個人的に交流していた。これは火付盗賊改として許しがたい行為だ。罰として懲罰房に入って貰う。」 安形は淡々と命令した。彼自身としては、可愛がってきた部下をこのような目にあわせたくないらしい。しかし安形が判断しなければ、別の誰かが言い渡すだけだ。苦渋の決断だった。 「…わかりました」 椿に至っては特に絶望する訳でもなく、ただ事実を受け入れた。 このままずっと隠し通せることはないと、それは最初からわかっていた。二人の最後は、それぞれの立場を理由にして別れを告げる。それが今だっただけだ。 椿はすっと立ち上がった。 廊下に従者が二人待っていた。引きつられ、そのまま無言で部屋を後にする。 あまりにも呆気ない幕切れだった。 「椿…」 懲罰房に向かう背中を見送る。そこには悲壮というものはなく、何も語らなかった。やるせない気持ちの中朝日は昇りきり、一日が始まろうとしている。 同日の夕方。藤崎は朝に宿を出て、馬を使わず自分の足で帰っていた。普段の姿からは想像つかないが、彼は抜け忍だ。普通の人間ならとっくに音をあげる距離を、休み休みだが戻っていく。 道すがら椿との情事を思い出し、口元の緩みを堪えるのを繰り返す。呑気に次の旅行はどうしようかと一人で想い耽っていた。 そうこうしている内に、馬が繋がれたいつもの団子屋が見えてくる。土産を下げながら暖簾を潜ると、ヒメコ達が飛び出してきた。 「ボッスン!遅いやん!何してたん!?」 「何って…今帰ってきたところだけど」 ヒメコはただならぬ様相で、腰も落ち着かずうろうろしていた。スイッチがずい、と一歩前に出た。 『ボッスン、椿は?』 「椿は今朝先に帰ったんだよ」 「ほうかあ…やっぱり」 『じゃあこれは本当のようだな』 てっきり旅行のことをからかわれるのかと思ったが、そうではないらしい。二人は一枚の紙を見ながら神妙な顔をしている。藤崎は全く話についていけず、その紙を覗き込んだ。 「なんなんだよ一体」 『今日の夕方、ついさっき出たばかりの瓦版だ』 スイッチが紙を渡した。字を追う内に、藤崎はぎょっと目を剥く。 「火付盗賊改、左腕の椿。若くして優秀で品行方正と名を馳せた男には、裏の顔があった。なんと彼は盗人団と交流を図り、密偵として今日まで活動。役人として恥じ入る様子もなく、なんと盗人団の頭と公私共々にいい仲らしい。 しかしその事実は今朝判明し、懲罰房行き…なんだよこれ!」 「うちらにもわからんのよ。団子屋に来た時には馬がおって、さっき瓦版見たらこれや」 『この時機にばれたということは、旅行中誰かに見られたんじゃないか?』 藤崎は混乱して何もまとまらなかった。気にかかる事は多いが、一番心配なのは椿の安否だ。 敵と交流していたとばれた彼がどうなってしまうのか。島流しか、打ち首か。悪い想像しか出来ない。 藤崎は紙をぐしゃ、と握り潰す。 「………椿を助けに行く」 『ボッスン、向こうもこちらの事を警戒している筈だ。今行くのは無謀すぎる』 「じゃあ椿を見捨てろっていうのか!」 藤崎は丸めた紙を床に投げつけた。 「落ち着けってボッスン!そんな勢いで行ったって、うちらも捕まってしまうで!」 「でも!」 藤崎はいつもの冷静さを失っていた。旅から帰ってきたそのままの格好で、今にも走り出そうとしている。 ヒメコとスイッチが必死で抑えた。押し問答がしばらく続いたが、そこへ暖簾を上げてある男が入ってきた。 「御免」 侍の武光振蔵だった。盗人団のことを知る数少ない人物である。 「ボッスン殿、貸した馬を預かりにきたのだが…瓦版見たでござる」 「…ああ」 「城中でもその話題で持ちきりでござるよ。噂は本当でござるか?」 二人の仲は、ヒメコとスイッチしか知らない。 ヒメコ達は曖昧に首を振った。しかし藤崎は迷いなく頷く。 「本当だよ」 即答して代わりにヒメコが狼狽える。しかし藤崎の眼差しは嘘偽りを混ぜようとしなかった。 「いいんかボッスン」 「どうせばれてんだ。それより振蔵…椿は?あいつは無事なのか?」 振蔵は侍として城に時々出入りしている。彼なら何か状況を把握しているかと、すがるように見つめる。しかし振蔵は首を左右へ動かした。 「…今のところは、としか答えられないでござる。あの椿殿が密偵に男色…話が大きくなりすぎている故、処罰は免れないかと」 藤崎は歯を食い縛った。居ても立ってもいられず、振蔵の肩を掴んで揺さぶる。 「振蔵!侍のお前なら城に出入り出来るだろ?力を貸してくれ!」 「しかし…」 盗人団と懇意にはしているが、彼もまた城に仕える身だ。こんな時に危ない橋は渡れないだろう。 視線から逃げるように顔を背けた。 「……頼む。大切な奴なんだ」 眉根を寄せ、切に願う姿は痛々しかった。 振蔵は観念した様に嘆息する。 「…わかったでござる。しかし拙者に出来るのは城の潜入まで。それ以上は…」 「充分だ!」 藤崎の顔がぱっと明るくなった。 もうすぐ日が暮れる。夜の帳が落ちるのを待ち、四人は最低限の用意だけをして城へ向かった。 「拙者武光振蔵。今宵は警備の強化の為呼び出された」 この国唯一の城、そして椿が囚われている場所。噂の事もあり、今夜から警備をかなり手厚くしたようだ。火付盗賊改の人数だけでは不安に感じたらしく、振蔵も収集されたのだ。 入口で堂に入った威風で名乗る。頭巾を深く被った門番は、名簿を確認すると頷いた。 「確かに、聞いてる」 「それでは」 振蔵はすぐにでも城に入ろうとした。 顔布で口元を隠した三人がこそこそと後に続く。 「待て」 呼び止められ、四人はギクリと体を堅くした。振蔵がぎこちなく首だけ振り返る。 「な、なんでござろう?」 「その三人は誰だ?名簿に載ってないぞ」 藤崎達は首をすぼめ、生唾を飲んだ。 城は今どこも人が張っていて、こっそり侵入するのは難しい。それならいっそ、正面から堂々と入ろうという作戦になったが、無謀過ぎた。 懐に隠した短剣をこっそり握る。 「この三人は拙者の弟子でござる。城に尽くしたいとついてきた」 「…ふうん。そうか、わかった。入れ」 四人はそそくさと城に入った。 門番が頭巾を上げる。男は安形だった。彼は遠くなる背中を眺めた。 「今のが盗人団か」 ニッ、と笑みを浮かべる。それだけ確認すると、安形は門から離れた。 「良かったわあ、間抜けな門番で」 ヒメコがぐっと両腕を伸ばす。なんとか無事に潜り込み、四人は安堵の息を漏らした。 『しかしあまり知らない顔が長くうろつく事も出来ない。時間の問題だろう』 「俺は南を探す。他の皆はそれぞれ別の場所を探してくれ」 藤崎はそう言い残して駆け出した。 振蔵によると、懲罰房の場所はわからないが、城中にそのような部屋はないらしい。そうなると、庭のどこかになる筈だ。 人目を避け、草木に隠れながら壁伝いに走る。視界から何も取り溢さないように目を見張る。 目がぐるぐる回り、どっと汗が噴き出す。焦りが募って呼吸が荒くなる。 しかし、まるで救いの道を示すかのように、月明かりに照らされた古い蔵を見つけた。そこを囲うように役人が並んでいる。 藤崎はその蔵を睨み、袂に入れてあった煙玉を取り出した。 一方椿は、嵌め込み式になっている天窓から月を見ていた。 ここに放り込まれてからまだ半日しか経っていない。しかし随分長い時間を過ごしたような気がする。藤崎と温泉で過ごした時間はあんなにもあっという間だったのに、椿は自嘲した。 当たり前だが、懲罰房には何もない。元々城の者が、私物を置いておく為だけに作られた蔵なのだ。 古いので取り壊す予定だったのを、懲罰房として名前を変えただけだ。 「藤崎…」 座り込んで足を抱える。 することもないので、ただ思索に耽ていた。藤崎への想い、役人としての自分、色々考えると自責の念に捕らわれた。 罰を受け入れた筈なのに、唐突に悲しみが襲ってくる。それを通り過ぎると空虚に陥る。感情が起伏するのを繰り返し、何もしていないのに疲れていた。 「はあ…」 何度目になるかわからないため息を漏らす。 目を閉じて周りの音に耳を澄ますと、時々外の役人共が自分について下衆な噂をしていた。 しかしそれが止んでいる。ただ無駄話をやめているという訳でもない、静かすぎる。不審に思って目を開けると、頭上から聞き慣れた声がした。 「椿!」 「…藤崎?」 思いもよらない、しかしずっと願っていた人物が天窓から覗いている。 鉄柵を掴んでぶら下がっているのだろうか。椿は目を見開いた。 「なんで…あ、外にいた役人は?」 「スイッチ特製の睡眠導入機能付き煙玉で一発!」 片手で小型鋸を使い、鉄柵を数本切り取った。 壁に手をかけ、体を持ち上げる。狭いそこに無理矢理入り、頭から落ちた。大きな音と埃がたつ。 「いってて…」 「ふじ…」 呼び終わる前に、藤崎は駆け寄って椿を強く抱き締めた。 指先一本にまで力を込め、潰れてしまいそうな抱擁だ。椿は驚いてされるがままに座り込んでいた。 「…藤崎」 「椿、良かった…」 ぎゅう、と更に力が強くなる。しかし少し震えていた。 助けられた椿が、あやすように背中を擦る。 「…藤崎、僕は…」 「椿、逃げよう。ここから出よう」 顔を肩に埋め、救い出すというよりどこかすがるような声色だ。 椿は回した腕をぶらりと降ろした。藤崎と共に逃げる、つまり役人の道を一切放棄するという事だ。勿論、今更自分が役人として生きていくのは無理だ。ただここで逃げたら、役人として裁かれる事すら出来なくなる。 裏切って逃げ出すなんて、愚かな行為だ。 しかし、愛しく強く自分を抱き締める腕を、振り払うことなんて出来なかった。 「ボッスン殿、おられるか?」 城の潜入から数日後、振蔵は団子屋を訪れた。店の奥から一人の女が顔を出す。 瑠璃色の着物に、薄い色の髪を二つに編んでいる。大人しそうだが愛想が良く、目が合うとにこりと微笑んだ。 「いらっしゃいませ。お団子はいかがですか?」 振蔵はまるで花を咲かせたように顔を染めた。 「やや、見ぬ顔ですな。新しく雇われた方でござるか?しかし可憐な…」 女の手を両手でぎゅっと握る。相手は戸惑い、困った様に眉を下げた。 「あの…」 「拙者武光振蔵と申す。そなたのお名前は?」 「椿サス子」 代わりに答えたのは藤崎だ。二人の間に割って入り、振蔵を一睨みする。椿と呼ばれた女は藤崎の背中に隠れた。 「椿サス子…ええ!椿殿でござるか!?」 「気付けよ」 藤崎は呆れた顔でため息をつく。騒ぎを聞き付けたスイッチとヒメコが、店から連れだって出てきた。 『火付盗賊改の左腕の椿から、団子屋の店主左腕、嫁のサス子でございます』 「うちの着物とかつらやねんけどなあ、まさかここまで化けると思わんかったわ〜かわええやろ?」 肩を落とす振蔵に、まるで舅と姑のように自慢し始めた。 嫁、と言われ椿は赤くなった顔をお盆で隠す。 普段の椿からは想像出来ない行動だ。女装した彼は口数が少なく、全然違う人間のようだった。 鈍いと言えど、面識のある振蔵も女と見間違えたくらいだ。今の彼は戦場に狩り出る役人ではなく、ごく一般的な村娘だった。 「連れ出したのはいいけどさ、椿の実家は役人達が張ってるし…だからここで住み込みで働いてるんだ。ばれたらいけないから、変装して貰って」 「ほほう、成る程。…しかし、こうしていると本当に若夫婦のようでござるな」 振蔵は顎に手を当てて、寄り添う二人を眺める。藤崎達はカアッ、と顔を赤くした。 もじもじしながらお互いを窺う。三人は彼等を微笑ましく見つめた。 それからあっという間に数日が過ぎた。 団子屋は可愛い店員がいると評判になり、いきなり忙しくなった。毎日何十人もの客が押し寄せてきたが、誰もこの愛らしい女性をまさか男だと、あの左腕の椿だと疑う者はいなかった。 それどころか振蔵のように口説く連中も少なくはなく、藤崎は何度も肝を冷やした。 夜は今まで通り、盗人団の三人だけで活動していた。 椿はもう役人ではないし、彼等の行動にも理解を示していた。しかし犯罪の行動には変わりないので、やはり抵抗があるようだった。 ヒメコ達に何度か誘われたが、言葉を濁して避けた。藤崎はその気持ちを汲み取り、無理強いしたり押し付けたりする事は一切しなかった。 「じゃあ行ってくるな」 「ああ、気をつけて」 必要なだけの挨拶を交わし、藤崎達は闇へ消えていく。 椿は見えなくなるまでその後ろ姿を見送った。 「ふう…」 店に戻り、着替えて体を休めた。 スイッチとヒメコは元々自分の家があり、夜はそちらに帰っている。 藤崎は椿とこの小さな団子屋で暮らしていた。昼も夜も一日中一緒にいて、いつでも愛し合えるようになった。 恋人が当たり前に隣にいて、周りが祝福してくれる。二人の仲を裂こうとする人間もいない。 あまりにも平穏で、幸せな日々だ。 「もう寝るか…」 しかし椿の胸には、拭えない小さな違和感があった。それは痼になって段々体を蝕んでいく。 気付かないふりをして、頭から布団を被って床についた。 「いいかつば…いや、サス子。変な男に声かけられても無視しろ。なんなら殺せ。店に忍の武器置いてあるから。…ていうか、やっぱり俺残ってもいい?」 「何言ってんねんボケ!」 最後の一言はヒメコ達に向けたものだ。容赦ない突っ込みが晴天に轟く。 いつも通りの昼間だ。しかし盗人団は突然依頼人に呼び出され、出掛けることになったのだ。依頼主との話し合いに頭の藤崎が同行しないわけにはいかない。 そうなると椿一人残ることになるのだが、団子屋には既に客が来ていて閉めることも出来なかった。少しの間だけ、椿に店を任そうとしているのを藤崎は心配でぐずぐずしていたのだ。 「僕は大丈夫だから。気にせず行ってきてくれ」 ヒメコが藤崎の首根っこを掴み、半ば無理矢理引きずっていった。 「お姉ちゃん!団子まだ?」 「あ、はい!」 三人に手を振る間もなく、客に呼びつけられた。 四人で回している店を一人で切り盛りするのは、少し慌ただしかった。しかし直に客足も引いていく。 椿はやれやれと椅子に腰掛けた。真夏の夕方は陽が沈むのを惜しんでいる。蝉の声もまだ活気盛んだが、昼間にはない風が吹いていた。 椿は目を閉じて四季の五感を楽しみ、夕涼みしていた時だ。 「よお、まだやってるか」 そこに立っていたのは安形惣司郎だった。陽射しを背にして涼しい顔で立っている。 突然の事に、椿は言葉を失った。いくら変装が見事と言えど、安形にばれないわけがない。せめて顔が見られないように背中を向ける。 「…俺な、長期休暇貰ったんだ。久しぶりの休みだから噂の団子屋を見に来たってわけよ」 どっかりと椿の横に座る。いつもと同じ調子だ。安形は役人の椿に話し掛けているのか、団子屋の店員として話し掛けているのか、計り知れなかった。椿は曖昧に頷いた。 「…まあ椿がいなくなったのと、団子屋の噂が出始めた時期が似てたからな」 安形は腕を組ながら、どこか寂しそうに微笑を浮かべた。 「城の連中は好き勝手に話してるぜ。やっぱり密偵だっただの、敵と駆け落ちしただの」 椿は文字通り会わす顔がなく、背中を向けたまま俯いた。何も返事をしない彼に、安形はさも会話しているように一人で続ける。 「ただな、俺を含め椿の事をよく知っている人間は密偵なんて信じられないらしい。『あの椿はそんな事しない。きっと脅されたか唆されたんだ。可能なら見つけ出して火付盗賊改に戻ってきて欲しい』そういう連中もいる。普段の真面目っぷりが評価されたんだな」 椿はやっと顔を向けた。安形はずっとこちらを見ていた。 「勿論、真実がどうかなんて本人にしかわからない。何が事実で何が噂なのか…けど、今なら役人の席を用意してやれる。流石に前の役職からじゃなくて、下働きからになるだろうけど」 ぐっと息を飲んだ。 「お前を懲罰房行きにしておいて、こんな事を言うのは都合がいいかもしれないが…」 椿はぶんぶんと首を横に振った。安形は微笑を絶やさないまま、沈もうとする夕日を眺める。 「さっきも言ったけど、俺は休暇中なんだ。仕事は関係ない。だからここで見た事は報告はしない。今はな」 付け足した言葉が妙に重さを感じさせた。椿の長い睫毛が伏せている。 安形はゆっくり立ち上がった。 「十日後に仕事に戻る。その時に怪しい団子屋があることを報告する。だから、決めろ」 日が照りつけた地面は熱く、まるで安形を陽炎のように揺らいで映す。その癖夏の陽射しが落とす影はくっきり色濃かった。 「このまま藤崎と遠くで暮らすか。それとも別れて役人に戻るか」 椿は唇を噛んだ。 安形は自分を叱るどころか、逃げ道も帰る場所も用意してくれている。考える時間をくれ、どちらを選んでもいいと言う。 何か言わなければいけないと口を開いたが、蝉のけたたましい鳴き声で掻き消された。 安形の突然の来訪を、椿は藤崎に話した。 語られた内容だけを告げ、自分の心中は一切言わなかった。藤崎も言及しなかった。 折しも今日は七月六日。七夕の前日だ。この時代では前日の夜から七夕の用意をし、日を跨いで祭りを楽しむ。 まだ居残っていたヒメコとスイッチに呼ばれ、その日はうやむやに会話が終わった。 七月七日。彦星と織姫が喜びそうな、晴れ渡った空だ。 団子屋では昼間に笹を飾り、客達は短冊を書いて楽しんだ。そこにはサス子の両思いを願うものもいくつかあった。 「くっそ、俺が作った七夕飾りに余計なものを…」 「お祭りなんだから気にするな」 笹には千代紙で作られた、くす玉や天の川、あみかざりでなどで彩られていた。 それを持ちながら、二人は川沿いを歩いている。まだ当日だが、夕方になれば七夕は終わったものと見なされるのだ。使われた笹は燃やすか川に流すかが習わしだ。 二人は夕涼みがてら笹を流しに行っている。 「しかしいいのか?変装しないで出歩いて…」 「いいんだよ。ほら、あれ。誰そ彼時だろ」 濃い橙色の空に光る一番星。 椿はぼんやりそれを眺めた。藤崎がそんな彼を一瞬盗み見して、先を歩き出す。 「それよりさ、椿も短冊書いただろ?なんて書いたんだ?」 盗人団も短冊を書いていた。ヒメコは商売繁盛、スイッチは欲しいカラクリが手に入りますようにと記している。 「君こそなんて書いたんだ?」 「俺は…秘密」 藤崎が頭を掻きながら言葉を濁すと、椿はむうと口を尖らせた。 川上にある橋にたどり着き、二人はそこで腰を降ろした。 透明な水面は空と同じ色に染まっている。藤崎は足元に笹を置き、袂を探った。 「椿、こっち向いて」 「うん?」 手を伸ばし、耳に触れる。小さな簪をかけられたのだ。それには千代紙で作られた赤い椿が飾られている。 椿は触れながら横目で見た。 「これは…」 「俺が作ったんだ。千代紙で悪いけど」 「ううん、…嬉しい」 柔らかくはにかむ。椿は女装などしなくても十分愛らしかった。 この笑顔と共に生きたいと、短冊などなくても藤崎はずっと願っていた。表情を引き締め、真剣な眼差しを送る。 「椿」 緊張で、どうしようもなく声が震える。椿はいつもと様子が違う藤崎をじっと見つめ返した。 「俺、貧乏だし盗賊だし…こんな時に千代紙しか贈れない、駄目な男だと思う。でも、椿への気持ちは誰にも負けないから…」 言いたい言葉はたった一言なのに、中々出てこない。 大きな瞳がこちらを見ている。藤崎は自分の拳を強く握った。 「…結婚、してくれないか」 ざあ、と風が駆け足のように走り、木の葉を揺らした。 五月蝿いと思っていた虫の音も、夜のものに変わっている。心臓の鼓動が耳を煩わせる。あまりにも高鳴っていて、椿の返事に気付けないのではと思うくらいだ。しかし彼の唇はまだ動いていない。 どんな表情をしているか見れず、ひたすら唇が動くのを待った。 そしてそれは薄く開かれ、短く形を作った。 「………ごめん」 椿の透き通るような声が響く。 藤崎はその声を染み込ませるように聞き、目を伏せた。 「…そうか」 「君の事は誰よりも好きだ。一緒にいたいって僕も思ってる。けど、役人としての自分を捨てる事は出来ない…」 椿は地面に目線を落とし、顔を上げられずにいた。 「椿、俺だって逆の立場だったら同じように答えてたよ。お前だけが我慢する必要はないんだ…」 そう言いながらも力なく笑っている。 椿は帯に隠していた短冊を取り出した。 「…これ」 「短冊?」 「願い事、君のこと書いたんだ」 「なんて?」 向かい合わせに距離を縮める。二人の佇まいはとても自然だった。 「『生まれ変わったら藤崎と兄弟になれますように』」 「うん」 綺麗な字で書かれた願いをそのまま読み上げる。藤崎は首を傾げた。 「いや、いいんだけどさ。恋人じゃないの?」 椿が顔を上げる。このまま唇が触れそうなくらいに近い。 「…兄弟だったら、生まれてからずっと一緒だろう?今生では短い間しか過ごせなかったから…来世ではなるべく長い時間を君と過ごしたいんだ……」 椿の頬に、一筋の涙が静かに伝った。 藤崎は堪らなくなって抱き締めた。強く、強く、力を込める。離したくない、このまま時が止まればいい、思うことはたくさんあるが無駄な感傷だとわかっている。 「…ん」 唇を重ねる。言葉を交わせば悲しいものしか出てこない。 お互いの気持ちを伝えるには、皮肉にも訥弁な伝達手段だ。もどかしくする口付けが何よりも語った。 一番星もその内空の群衆に紛れ、姿がわからなくなる。天の川が出る頃には、藤崎は川辺で一人だった。 彦星と織姫は年に一度会える。しかし二人はこれから一生、会う事はない。 「…椿、つばき…!」 藤崎は短冊を握り締め、ぐしゃぐしゃに泣いていた。嗚咽が漏れ、膝が崩れる。 盗人団は町を去った。 三人の正体を知る何人かは突然の失踪に困惑した。 何も知らない団子屋の看板娘目当ての客も嘆いた。 「ボッスン、何見てんの」 「んー、一番星」 椿は火付盗賊改に戻った。 自分を中傷する者や疑う者もいたが、彼の働きぶりはその考えを改めざるをえなかった。 「椿、どうした?」 「いえ…一番星が出てるなって」 お互いの噂を聞く度、一番星を見る度、二人は願わずにはいられなかった。 来世こそは一緒になりたいと―。 *Another story |