▽ あなたの側にいさせて下さい
翌日、泣き腫らした目をして学校へ行った。友人たちが心配そうに話しかけてくるが、笑ってごまかした。
昨日のことが頭から離れなくて、ろくに授業の内容も頭に入ってこない。彼、炎司さんのことを考えていたらあっという間に放課後になってしまった。
帰ろう、と友人に別れを告げて教室から出る。そこには見知った顔が立っていた。
「杏さん」
「…焦凍くん」
お世辞にも仲が良いとは言えない。彼の息子の焦凍くんとは顔見知り程度で、積極的に会いに行ったりし合うような仲ではない。
その彼が、何の用だろう。教室の扉を閉めて彼に近寄る。彼は少しだけ焦ったような顔をしていた。
「どうかした?」
「親父が、病院に運ばれた」
周りの音が突然消えた気がした。息をするのもままならない。なんて言った?脳が理解することを拒否していた。
「行くか行かないかは、あんた次第だ」
そう言って彼は俺にメモを押し付けるとすぐに踵を返してしまった。手の中にあるメモを震える手で開く。そこには病院の名前と部屋の番号が記されていた。
行かなきゃ、使命感に駆られて俺は走り出した。
やっとのことで病院に着いた。震える手を叱咤して白い扉を開け、息を整えて病室に入る。彼に似つかわしくない、恐ろしく真っ白な部屋だ。
彼がいた、ベッドに横になっている。包帯が所々に巻かれてあり、彼は似合わない病衣を着ていた。
扉を閉めると彼がこちらを向いた。目と目が合う、思わずそらしたくなるような熱い瞳を見つめ返す。
「お前のことを考えていた」
俺は視界が歪むのを感じた。一歩、二歩進んで彼が横たわっているベッドを見下ろす。
「それがこのザマだ」
「炎司さん…っ」
頬に熱いものが伝う。俺は、この人がいなければ死んでしまう。そう確信した。恋なんて、恋なんて生易しい感情じゃなかったんだ、このどうしようもない感情は愛だった。
杏の花がハラハラと白いシーツに舞う。彼に覆い被さって、確かめるように抱きしめて震える。
「俺は、あなたが病院に運ばれたと聞いた時、死ぬ思いでした」
震える声でそう呟く。
「なんで今自分があなたの側にいないんだろうって、焦って、そして怖かった」
ぎゅっとシーツを強く掴む。そこに彼の手が優しく乗せられた。無骨で大きな手だ。彼に触れなところから息が吹き返すのを感じた。たまらなく愛おしい。
「杏」
彼がそう呼んでくれた。それだけで俺は生きられる。まるで水だ。花を燃やす炎ではなく、彼は俺にとって水だったのだ。
彼が撫でてくれた箇所から杏の花が芽吹いていく。生きている。俺も、彼も。
「愛人だって、なんだっていいんです。あなたを、炎司さんを愛してるんです。そして、俺を愛して、側に置いてください……ずっと」
「ああ…約束しよう」
頬に伸びた手に導かれるままに、俺は彼の唇にそっと口付けた。
お父さんの代わりの父親じゃなくたって、俺が大人じゃなくたって、恋人っていう肩書きじゃなくたって、血の繋がりのある家族じゃなくたってなんだっていい。ただ、愛人として、彼の側にいられる。
「炎司さん」
「杏」
彼が名前を呼んでくれる。それだけで俺は救われたのだから。
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