07


「逃げなきゃ……」

 月明かりだけが灯る暗い部屋の中、明は電気もつけずにベッドの端に腰掛けていた。
 優しかった戌が血塗れになって帰ってきたあの日から、ただただ不安ばかりが胸に広がっていった。
 このままここにいては、いずれ自分も殺されてしまうのではないかと、もしくは自分も血に触れなければならない時か来るのではないか。

(どうやって、どこから、逃げれば……)
 
 窓から外を見るが地面は遥か遠くにある上に、窓の外に付けられている冷たい鉄格子は強く押してももろともしない。
 窓以外に外に繋がるものはもう一つしかないと、大きな扉を見つめる。
 この家の住民にはとても良くしてもらっているのは身に染みてわかる。ここに来る前は休む暇もなく働いていたが、ここへ来てからは広い部屋や温かな食事など前の自分には起こりえないことばかりだ。
 けれど、彼らに優しくされればされる程、自分の知らない彼らが恐ろしく思えてしまう。

(ごめんなさい……)

 小さな謝罪を心の中で呟き、意を決した明は立ち上がった。まずは外に誰かがいないか確かめるべく、少しだけ開いた扉から顔を出す。
 ぽつぽつと明かりが灯る薄暗い廊下に人の気配は無く、明は心を落ち着けようと一度室内へと戻る。
 なるべく足音は立ててはいけないと靴を脱ぎ、万が一誰かがこの部屋に来た時の為に、ベッドの中に衣服やクッションを詰め込んで眠っているのだと偽装する。

「これで、大丈夫……多分」

 もう一度部屋から顔を出して外に人がいないのを確認し、深呼吸をした明は足音を立てないようにこっそりと部屋を出た。


*


 あれだけ警戒していたのか馬鹿らしく思えるくらいに、明は楽々と玄関までやって来た。多少迷ったりもしたが、誰にも出会わずにここに辿り着けたので問題は無い。

「すみません、お世話になりました」

 音を立てぬよう慎重に玄関の扉を少しだけ開け、その隙間から外へと出た。

「…………久しぶりの外」

 今や懐かしくも思える外の空気に背伸びをして体を伸ばしたいが、今はそんなことをしている場合ではない。
 初めて外から見た屋敷は思っていた以上に大きく、一体どれだけの金を積めばこんなに大きいものが出来るのだろうかと明は唖然とする。
 明るくなる前に少しでも遠くへ行かなければと足を踏み出し、地面に触れたチクリとした痛みで自分が今素足だということを思い出す。

「靴、置いてきちゃった……」

 焦りからか、靴を持って来なかったことを後悔するが時既に遅し。仕方がないと駆け出し、屋敷を囲う森へと踏み入った。
 月明かりは木々によって遮られ、隙間から差し込む光を頼りに足を進める。
 幻想的にも見える森の中を走るが、足の裏は木やら石やらのせいでちくちくと痛みを感じ始めている。
 息を切らしつつも、前方に木々が途切れるのが見える。森を抜けてどこか近くの街に行き、そこで誰かにここがどこなのかを聞くしかない。
 新しい人生を見つけるか、もしくは前にいた家に戻るか。家事洗濯掃除全てを明に任せていたあの家は、恐らく自分がいなければろくに家のことも出来ないだろう。
 もし突き返されたのなら新しい人生を歩もうと、少しだけ心を弾ませながらとうとう森を抜けた。
 服は木々で破れボロボロ、裸足で走った足は血が出ているのではないかと思う程にヒリヒリと痛い。
 それでも明は大きな解放感に包まれていた。
 部屋にこもっていた時、窓からは遠くに街が見えた。このまま行けばどこかに辿り着けるはずだと、弾む明の心は次の瞬間に崩れ落ちた。

「どーこ行くんだ?」

 突然耳に届いた声に振り返ると、そこには大きな岩に座っている申。そして次いで森の中から静かに現れたのは見。

「……ど、して」

 目を見開く明の言葉に答えもせず、巳は明の前に立つ。

「それはこちらの台詞です、明」

 鼓膜を撫でるかのように静かで優しい声だが、彼と対峙する明にとってはまるで終焉の訪れだ。
 傷だらけの明の足元を見た巳は、その儚げで美しい顔を悲しそうに表情を歪めた。

「君の体に傷を付けたのは、この森の木々達ですね? 嗚呼憎い、燃やしてしまいましょう……君を傷付ける全てのもの、私が壊してさしあげますから」

 どくどくと騒がしい心臓。
 つい先程まで解放感に弾んでいたこの愚かな心は、すぐに絶望と恐怖に塗れてしまった。

「バカだよなぁ明、本気で逃げられると思ってたんだもんな。 こんなことしたら逆にお前の行動範囲が縮まるだけだってわかんねぇのかな」

 早く帰ろうぜ、と差し出された申の手を取らずに怯えた目を向ける。
 すると彼は呆れたように溜め息をつき、巳を押し退けて明の前に申が立ちはだかった。

「帰るんだよ」

 その瞬間、遠慮も無い申の拳が明の腹部にめり込み、あまりの大きな衝撃で明は気を失う。
 倒れ込んできた明に冷たい目を向けながら担ぎ上げようとした申だが、横でその様子を見ていた巳が明を乱暴に扱うなと申から奪う。

「おい巳、返せ」
「こんなにボロボロになって……どうして逃げようなどと……」
「無視かよ」

 明を横抱きにし、囁くように明の耳元に唇を寄せる巳は申の話を聞く気など無い。
 舌打ちを一つした申は近くにあった石を蹴り飛ばし、家へ帰るべくまた森の中に入って行った。

「愛しい、愛しい……私の明」


*


「わざと部屋の鍵を開けとく酉もだけど、卯も大分性格悪いよね」

 明が出て行き、それを追って申と巳が出て行った屋敷の広間で、午と卯と辰が会話をしていた。

「酉はわかるけど、なんでボクまで?」
「だってわざわざ逃がしちゃうんだからさ、ここから逃げる前に捕まえたらいいのに。 全部聞こえてるって知らないんだよ、明ちゃんは」
「教えたら警戒されちゃうからね」

 卯の大きな瞳が嬉しそうに細められる。
 部屋で明が逃げようと呟いた小さな声も、靴を脱いでまで音を立てまいと忍んだ足音も、全て卯には聞こえていた。
 常人には聞こえない音を難なく耳にすることが出来る卯はまさに地獄耳という名に相応しい。

「本当に性格悪い」
「どこが?」

 全てわかっていた卯だが、屋敷から出るのを見逃したのだ。
 捕まえようと思えば明が呟いた瞬間にあの部屋に行くことも出来たし、薄暗い廊下をこっそり歩いているのを捕まることも出来た。
 だがそれを全て見逃し、外に出ることを卯は許したのだ。

「だって、逃げれたって思わせてから捕まえた方がショックでしょ?」
「ほら、性格悪い」
「逃げられないってわかってもらわなくちゃ」

 楽しそうに言う卯が悪魔にも見えてきた午は、ここまで黙っていた辰に目を向ける。

「ねぇ辰、どう思う? こんな可愛らしい顔してさ、中身は真っ黒な悪魔だよね」
「二度と逃げる気を起こさないように四肢をもぎ取ればいい」
「あぁごめん、君は見た目も中身も悪魔だったね」

 この十二人の中ならば自分はまともな方に入るだろうなぁと午が考えていると、卯が「来た」と小さく呟く。
 次いで玄関の方から申の大きな帰還の声が聞こえ、絶望しているであろう明になんと声を掛けるべきか午は優しい言葉を探す。
 だが明が気を失っているのを見て、やはり自分はまともな人間なのだと午が感じるのは数分後のこと。


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