06


 唇に触れる柔らかい感触。
 覚めやらぬ脳はぽやぽやとしていて、明はその柔らかい何かに温もりを求めた。
 啄まれ、吸われ、噛まれてもまだ明はその心地よさに身を委ねる。
 だが温かいものが口内に侵入して来た時――眠りこけていた明の脳は覚醒を始め、同時に明も少しずつ感覚を取り戻していく。
 舌が明の歯列を舐め、そして明はとうとう目を開いた。

「……?」
「おはよう、明ちゃん」
「おは、よ、ござい……ます」

 間近にある顔。明の記憶によると彼は丑という名の男だ。テーブルに広がった大量の料理をあっという間に食べ終え、明を驚かせたあの男。

「明ちゃん、美味しいねぇ」

 そして明は気付く。
 先程のあの温もりは、丑にキスをされていたものだと。

「な、な……な…っ」
「な?」
「なんでっ…キ、キス……」
「うーん……美味しそうだったからかなぁ?」

 真っ赤になった明の頬を、丑はぺろりと舐める。

「ひっ!?」
「明ちゃんのほっぺ、リンゴみたいで美味しそぉ」

 現状がこうでなければ、その緩い笑みは緊張しきった頭を癒してくれるに違いない。ただ、やっていることが普通ではないのだ。
 何より、生まれてこのかた恋愛などする余裕もなかった明にとっては彼とのそれが所謂ファーストキスというもの。だがその理由はロマンチックなものでも甘い誘いでもなく、美味しそうだったから。

「いただきまぁす」

 そう言って再度顔を近付けられ、思わず明は転がってそれを避ける。
 枕にキスをした丑だったが不機嫌になる様子は無く、枕に顔を埋めて動かない。

「あ、あの……」
「いいにおいー」

 すりすりと今まで明が使っていた枕に顔を寄せる丑に、明は恥ずかしさで真っ赤になる。

「僕ねぇ、明ちゃんのこと食べちゃいたいんだぁ」
「た、食べ……?」
「だって明ちゃん、絶対美味しいもんねぇ」

 ごくりと喉を鳴らす丑に、明は本能的に危機を感じる。
 起き上がり、にこにこと穏やかな笑みを浮かべる丑と距離を置きながらベッドから降りる。

「わ、私は食べても美味しくないですよ」
「そうかなぁ?」
「それより、あの、なんでここに?」
「あぁそうだぁ、明ちゃんを起こしてきてって言われたんだ、そうだそうだぁ」

 どうにか話が反れたことに安心した明は用意されていたワンピースに着替えて丑と共に部屋を出る。
 いつもならば戌が起こしに来てくれるのだが、今日は珍しく丑が来た。戌は仕事にでも出ているのだろうかと考えてふと頭をよぎった血飛沫に、それ以上の勘繰りはやめた。
 ぽてぽてと前方を歩く丑はマイペースを貫く。決して速いとは言えないそのスピードはむしろ遅いと言ってもいいだろう。

「お腹空いたなぁ……」

 意識してゆっくり歩かなければきっとすぐに追い越してしまうであろう程に、彼の歩くペースは遅い。
 もし明の部屋に来る時もこのペースで来たのなら、部屋にいた時間も含めて相当なものになっているのではないだろうか。

「みんなぁ、遅くなってごめんねぇ」
「ノロマ丑! お前が出ていってからもう三十分たつぞ!」

 扉を開けて丑が笑顔満開の謝罪をし、それにいち早く食い付いて来たのは申。
 戌と未以外の十人が揃った部屋はそれでもまだ広く、この部屋に一人でいるとどんなに心細いだろうと明は自分の場違いさを思い知る。
 よく世話を焼いてくれるからか、明が一番安心出来る戌の姿が無いことに少しの不安を感じながら部屋へ足を踏み入れた。

「明! こっちに座れ!」

 申に呼ばれて隣へと腰掛けると、正面に座る辰に鋭い目を向けられて思わず体を縮こませる。

「さぁて明、あなたに大事なお話をするわよ」

 ニコリと笑みを浮かべる酉は確実に今現在の状況を楽しんでいる。

「あたし達の仕事についてだけど」

 その言葉に明の瞳が揺れる。
 思い出したのはあの時の赤い飛沫。

「あたし達はね、馬鹿な人間達の願いを叶えてあげるのがお仕事なの。 もしくは神様のお使いを頼まれてあげたりね」

 頼まれたことなら何から何まで全てやるというのが彼らのモットーだと言う。

「勿論それが、殺しや盗み、汚いことであってもね」

 わかってはいたが、言葉にされるとこんなにも胸に重く突き刺さるのかと明は俯いた。
 恐ろしさを隠すように、明は爪が白くなるくらいに手を強く握り締める。
 それに気付いた寅は楽しそうに口元に笑みを浮かべる。

「もっと早く言うべきだったんでしょうけど、うちの番犬ちゃんがあなたを怖がらせたくないって言うもんだからねぇ……まぁその番犬ちゃんが今はお仕事でいないから、丁度いいと思って」

 戌がいてはこの話を明にすることに反対するだろうし、聞かせまいと邪魔をしてくるだろう。だから戌がいない間に話してしまおうということらしい。
 あの優しい戌が、いつもほんわかとした丑や女の子のように可愛らしい卯、常に眠そうな未や元気な申。
 あの時に返り血を付けて帰って来た寅と巳はともかく、彼らが考えるだけでも恐ろしいことをするとは思えない。

「帰って来たよ」

 窓から外を眺めていた鼠がそう呟き、酉の表情が更に楽しそうなものへと変わる。

「今玄関に入って、こっちに真っ直ぐ向かってる……未は遅れて来るみたい」

 常人には聞き取れないような音を聞き取ることの出来る卯が目を閉じながら実況する中、明はまだ戸惑いを隠せずにいた。
 自分の知らない世界に突然やって来てしまったかのような、大きな不安と恐怖。
 明に歩み寄った酉が何を言うでもなく目の前に立ち、そしてくるりと回って明に背を向ける。
 何がしたいのだろうかと首を傾げた時、扉が開く音がした。

「おっかえりー!」

 申が元気に言うが、明からは酉が邪魔で誰が帰って来たのか見えない。

「未は?」
「怪我をしたから治療室へ向かった」

 午の問い掛けに答えた声は戌のもの。恐怖にまみれた明の胸に少しだけ安堵が灯り、それを横目で見ていた寅はつまらなそうにそっぽを向いた。

「それより酉、殺しの仕事なら事前に教えてほしい。 聞いていなかったから少し手間取っ……」

 そこでようやく戌は酉の後ろに見える明の存在に気が付き、言いかけた言葉とネクタイを緩める動きをピタリと止める。

「……明」

 動きが止まったのは戌だけではない。
 明の目に滲むのは驚愕とそして、隠しきれない大きな恐怖。
 ハッとした戌は自らの格好を見下ろす。
 事前に殺しの仕事だと聞いていなかった為に準備不足で挑んだ仕事。
 予想以上に多かった相手に苦戦しながらも勝利を収めた戌のスーツには自分のものも含め、たくさんの返り血が飛び散っていた。
 それは戌にとって明に一番見せたくなかった姿。

「ごめんなさいね、知らなかったのよ殺しのお仕事だったなんて」

 今日一番の笑みを見せた酉と、先程から瞬きさえも忘れている明。

「ただいま」

 部屋の空気が固まる中、遅れてやって来た未がただいまと言いながら明に真っ直ぐに向かう。

「見て」

 はらりとワイシャツを捲った未の脇腹には痛々しい刺し傷。瞬きを忘れた明の渇いた目からは涙が滲み、未はそれを気にすることなく続けた。

「すごく痛いの、ここ」

 だから僕のこといっぱい心配して、と言うが明は何も反応出来ない。
 それが不服らしい未は傷口に自らの拳を押さえ付け、ただでさえ痛々しい傷口を更に悪化させる。

「っ……み、見て、明……い……すごく、いたい」
「だ、だめ……っ」

 ようやく我に返った明は、傷口にめり込む彼の手を掴む。それに満足したのか、にこりと微笑んだ未はあまりの痛さに気絶し、明へと倒れ込む。

「あーほら、どんどん未がおかしい性癖に走ってく」

 隣で申が皮肉げに言うが、明の耳にはそれが届いていない。

「仕方ないわねぇこの子ったら……亥、未をもう一度治療室に運んでくれる」

 無言で首を縦に振った亥は明に覆い被さる未を軽々と担ぎ上げて部屋を出ていく。

「あらまぁ明、服に未の血が付いちゃったわねぇ」

 白いワンピースはいつの間にか赤く染め上げられ、ぴくりとも動かない明は視界に広がる赤に思考が定まらない。
 そして、酉がそれをを楽しそうに見ている。

「さぁ、部屋に戻りましょう?」
「っ!」

 差し出された酉の手を明は思わず弾いてしまった。予想外のことに固まる酉はつい先程まで浮かべていた笑みを少しだけ崩し、驚いたように明を見つめる。
 室内に静寂が訪れ、室内の全員の視線を受ける中明はハッとして立ち上がった。

「ご、ごめんなさい……!一人で、戻れます…っ」

 逃げるように出ていった明に何も声を掛けられずにいた戌は拳を強く握り締め、明に弾かれた手を見つめる酉の顔からは笑顔が消える。

「やりすぎたな、酉」

 辰が嘲笑うかのようにそう言うと、室内にはまた静寂が広がったのだった。


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