02


 目が覚めると目の前に見知らぬ顔があった。その距離は恐らく十センチにも満たさない程に近い。
 こちらを凝視するその目としばらく見つめ合い、それと同じく長い沈黙が流れる。

「………」
「………」
「おい戌(いぬ)! お前見すぎ、近すぎ、いい加減に離れ……って、起きてんじゃん!」

 視界は男の顔で埋め付くされている為にその後方から聞こえてくる声が誰のものなのかはわからない。
 ただ真っ直ぐに自分を見つめてくる二つの眼球から、明は目を離せずにいた。
 そんな彼女の視界を埋めていた男が急に吹っ飛び、次に現れたのは嬉々とした笑顔を浮かべたまた別の男。

「よう明!」

 どうやら最初に明の視界いっぱいにいた男はこの短髪の男に蹴り飛ばされたらしい。

「オレは申(さる)! わかるか?」
「わ、わからない、です……」
「ふぅん、じゃあいい、覚えろ、申だ。 オレの名前を一番最初に覚えろ」

 そんな申の申し付けにハッとしたのは蹴り飛ばされた男。急いで起き上がり、黒に近い灰色の瞳を真っ直ぐに明へと向けて言う。

「俺、の、名前」
「戌、邪魔だって! 今はオレと話してんだ退け!」
「い、戌! 覚えてください、俺は戌、貴方の戌」
「糞真面目なワン公はどっか行ってろよ! 今はオレと話してんだよ、おい聞いてんのか! 無視すんな!」
「……」
「だぁー! 邪魔くせえこの糞犬!」

 申が戌を押し退けようとするが、戌はそれを全く相手にしていない様子で明を見つめる。そんな二人を止めたのは、これまた見知らぬ人物だった。

「あなた達、明が困っているじゃない」

 声のする方へ目を向け、そして明は混乱することになる。耳に届いた言葉は上品な女性が使うような言葉だったのだが、その声の主はどう見ても男性。
 男性のように見える女性なのだろうかとも思ったが、もしそうなら申し訳ないが男性にしか見えぬその風貌に明は言葉を失った。

「初めまして明、あたしは酉(とり)」
「は、はじめまして……」
「今日からあなたはここで過ごすのよ」

 ようやくまともに会話が出来そうな人間が現れたのはいいものの、やはり見た目と言葉遣いのギャップが強く明は戸惑う。

「そうね、まずは着替えましょう。 ほら戌に申、早く出て行きなさい」
「着替えたら遊ぼうぜ明」
「……外で待っています」

 申と戌が出て行き、部屋に残された明と酉。
 クローゼットから白いワンピースを取り出した酉はそれを明へと手渡し、ベッドの隅に腰掛けた。

「えっと……」
「どうぞ、着替えて」


 にこりと笑うその表情に他意はないように見える。
 元々ろくな服を着てはいなかったが、自称サンタクロースと言う彼に運ばれていた時に結構な汚れが服についてしまったらしい。
 今の今まで眠っていた柔らかなベッドを汚してしまったのではないかと不安に駆られるが、どうやら目視では汚れは見当たらない。後できちんと確認するとして、まずは着替えようと着てる服に手を掛けた。
 だが、そこでふと酉の存在に気が付いてそちらへとおずおずと目を向ける。
 にこにこと笑顔を向ける彼はどうやら動く気は無いらしい。女のような言葉遣いをする辺りからして、見た目は男でも心は女なのかもしれないが、どちらにしろ見知らぬ人の前で着替えるのは恥ずかしさが邪魔をする。

「どうしたの?」
「いえ、あの……」
「あたしのことは気にしないで。 なんなら手伝ってあげましょうか?」
「だ、大丈夫です」

 ここで出て行ってほしいと言っては酉を傷付けてしまうかもしれないと、意を決した明は彼へと背を向けて汚れた服を脱いだ。

「…………」

 それはもう、痛いくらいに。視線が突き刺さるとはこのことだろう。後ろを振り返らずともわかるくらいに、強い視線が背中へとぐさぐさと向けられている。
 見ないでほしいと伝えるべきかと明がチラリと後ろを見ると、ベッドの隅にいたはずの酉が先程よりもこちらに近付いていることに気が付く。

「うふふ、どうしたの?」
「あの、恥ずかしいのであまり、み、見ないでほしいのですが……」
「恥ずかしがることないじゃない。 こう見えてもあたし、中身は女よ? 女同士なんだから問題ないわ」

 そう言って更に距離を縮める酉の細い指が明の背に触れる。
 びくりと体を揺らした明の反応が気に入ったのか、滑るように触れる指は止まらない。

「あ、あの……っ」
「かわいい、明、すごくかわいい」
「やめ、」
「はは、勃ちそう」
「え?」

 ふと聞こえてきた男の低音に明は振り返るが、そこには酉の笑顔があるだけ。気のせいだったのだろうかと首を傾げ、ベッドに置かれたワンピースへと手を伸ばす。
 だがそれよりも早く伸びてきた酉の手がワンピースを奪うように取り、明が何事かと目を向けると彼は相変わらずにこりと笑っていた。

「あの、ワンピース」
「欲しかったらこっち向いてちょうだい」

 いつの間にか脱いだ服も奪われ、ベッドのシーツで隠そうともそれもわかっていたかのように奪われ、隠せるものが無くなった明は泣きそうになる。
 眉を寄せて顔を真っ赤に染める明に対し、楽しそうに表情を歪める酉は形のいい唇を開いた。

「ねぇ明、こっち向いて」
 甘えるように言う彼はまるで悪魔だ。
 どうにか泣きそうになるのを堪える明の視界に入ったのは今や救世主にも思える枕。
 そんな明の視線の先の枕に気が付いた酉はしまったと枕に手を伸ばすが、それよりも先に枕を掴んだ明はギュッと抱き締めて酉へと振り返った。

「ワンピース、ください」

 ちっ、と。
 先程聞いた低音の舌打ち。やはりあれは聞き間違いではなかったのかと疑いの目を向けると、酉はつまらなさげに溜息をこぼした。

「かわいくないわね、素直にあたしの言うこと聞けばいいのに」

 拗ねたように頬を膨らませるが、やはり見た目は男。身長もそこそこある男が頬を膨らませたとて、明に効くはずもない。
 出て行けと言っても従わないだろうと明はまた酉に背を向け、手渡されたワンピースを着たのだった。


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