15


 ――明は走っていた。息を切らしながら、その先にある希望に向かって。
 事のあらましは、酉の一言だった。

『逃がしてあげる』

 その言葉に最初は耳を疑った。あれだけ自分が逃走した時に追ってきたくせに、今度は逃がすと言うのだ。
 訝しげな様子の明に酉が続ける。

『でも、捕まったら終わりよ。 逃げるのはこれが最後で、捕まったらお仕置き』

 それでもいい?と酉が笑う。逃げるのは最後とはどういうことなのだろう、仕置きとは何をされるのだろうか。
 ぐるぐると明の頭の中を巡る疑問のせいで答えかねていると、酉がまた一つ提案を設ける。

『森を抜けたら橋があるの、そこを越えることが出来たらあなたの勝ちよ。 私達はもう追わない』

 その言葉に明は首を縦に振るしかなかった。最近は明が逃げるのを防止する為か、常に誰かが側にいるし部屋の守りも堅い。
 逃げるのなら恐らくこれが最後のチャンスなのだ。

『わかりました』

 覚悟を決めたその言葉に、酉は至極愉快そうな笑みを浮かべて明に背を向けた。

『ほら今すぐお逃げなさい、私達は三十分後にあなたを追うわ』

 楽しい鬼ごっこを始めましょう、と言う酉の声を背に明はその場から走った。

 そして今、明は森の中にいる。
 恐らくもう三十分は過ぎているだろう。ただでさえ広い屋敷の中から出るだけで時間がかかってしまった。
 橋を越えればいいのだ。そうすればこの檻に別れを告げられる。
 前回とは違い靴も履いているので走る速さは数段違う。木々を避け、躓き転びそうになるのを堪え、明は薄暗い森の中をがむしゃらに走っていた。

「はぁ、は……っ!」

 ふと前方に見えてきた光。
 それを遮る人影は無く、明は勝利を確信した。ぼろぼろと頬を流れる涙を拭くのは橋を越えてからだ。

「……っ、はぁ」

 薄暗い中にいたせいか、太陽の光が眩しくて目を細める。
 もう走れない、けれどもう少し。だがその時、背後から聞こえてきた声。

「明ちゃん見ーつけた」

 その声は午のもの。
 振り返って存在を確かめている暇などないと察した明は森を抜け、希望に繋ぐ橋へと走った。
越えたらこちらの勝ちだ。橋を越えればいいだけ。最後に残った力を振り絞り、明はこれまでにないくらいに走った。

「本当に、あなたって可愛いのね」

 ふと、前方から聞こえた声。

「可愛すぎてぐちゃぐちゃにしちゃいたいわ」

 一瞬呼吸を忘れた明は躓いてその場に転んだ。
 もう立ち上がる気力なんて無かった。地面を抉り土を握り、明の目からは大粒の涙が止めどなく溢れる。
 ようやく太陽の光に目が慣れてきたその先に、眩しいくらいの陽を背にした六人の影が橋の上にあった。明の背後にもまた六人の男達が並び、それは明を絶望させるのに十分なもの。

「………」
「ごめんね明」
「うふふ、楽しすぎておかしくなりそう」
「意外と早かったじゃん」
「終わりだ」
「眠くなってきちゃった」

 橋の縁に腰掛ける戌、曇った表情をそっぽに向ける鼠、ぞくぞくとあまりの楽しさに身体を震わせる酉。
 そんな酉の隣でしゃがみこみ頬杖をつく申、仁王立ちする辰は笑みを浮かべ、待ち呆けたのか目を擦って欠伸をする卯。

「頑張ったね、明ちゃん」
「最初から無駄なのに」
「呆気ねぇ、ここまで来たのになぁ」
「お腹空いたぁ」
「………」
「捕まえに来ましたよ、私の明」

 明の後ろには乱れた髪の毛を直す午、包帯を腕に巻いた未、こちらもまた楽しそうに笑っている寅に、もぐもぐと口を動かしている丑。
 亥が静かに明を見つめ、巳が美しくも恐ろしくも見える笑みを浮かべていた。

「……っ…」

 悔しいのか?と嘲笑う申の声が聞こえる。
 もう少しだったのに、もう少しで終わりだったのに。顔を上げた明は橋の上にいる六人を睨み、その目を卯で止める。
 卯ならばどうにかして押し退けることが出来るかもしれないと、怪我をして血が出ている膝を気にせず立ち上がった明は橋へと歩み寄る。

「諦めて自ら捕まりに来たか?」

 そう言う辰をまた睨みつけ、明は深呼吸してから地を蹴った。
 目指すは卯。あんな華奢で可愛い子を押し退けるのは少しだけ罪悪感があるが、この状況では仕方がない。
 明が歯を食い縛ったその時。

「ボクを舐めるな」

 ひらりと避けられ、腕を捕まれ、気が付くと明は卯の腕の中にいた。
 もう離すまいと力強く明の身体を抱き締め、耳元に唇を寄せる。

「つかまえた」

 同時に首の後ろに手刀を入れられた明の視界は暗転し、だらりと卯に身を預ける。
 最後の希望はいとも簡単に絶たれ、そして気を失う明の頬に辰の手のひらが触れる。

「もう終わりだ」

 風だけが音を立てるその場に、低い声が響いた。


*


 ふと目を覚ました明はしばらくぼーっと天井を見つめ、脳が覚醒し始めた頃に視線を落として部屋を見回した。
 起き上がった明は何があったんだろうと考え、そして脱走に失敗したのだと思い出す。
 ふと感じた違和感に手のひらに目を向けると、視界に入ったものに明の表情は歪む。

「……な、に、これ…」

 手のひらに描かれた未という文字。よく見れば手首には寅、腕には子(ねずみ)、手の甲には亥の文字。
 擦っても消える様子はなく、嫌な予感がした明はベッドから降りて姿見の前に立つ。
 そして明の目に入ったものは喉に丑、首筋に巳、太ももに酉、足の甲に戌という文字。
 更に服を捲ると現れたのは、胸に辰、腰に申、くるりと回って見ると背中には卯の文字も見える。

「なにこれ、な、なに……」

 必死に文字を消そうと擦るが、肌が赤くなるだけで消える気配は無い。

「残念、消えねーよ」

 振り返るとそこにはいつの間に部屋に入って来たのか、申がベッドに腰掛けていた。
 同時に部屋のドアが開いて入ってきた午と酉、遅れて戌と巳が姿を現す。

「ちなみに俺のは耳の裏ね」

 にこりと笑う午に言われ、鏡に近付いた明は確認するとそこには他と同様に午の文字がある。

「それ、消えないわよ……刻印みたいなものだからね」

 言葉を失った明は唖然として彼らを見つめ、その瞳に涙を滲ませる。
 まるで自分のものに名前を付けるかのように、身体中に彫られた十二の名前。

「言ったでしょ、捕まったらお仕置きって」

 もし家に帰れたとして、この身体では何を言われるかわからない。ただでさえあまり好かれていないというのに、汚らわしいと嫌われてしまうかもしれない。
 消えないと言われても尚、明は彫られた文字を消そうと肌を擦る。

「やめろ、諦めろ」

 歩み寄る申が明の腕を掴み、擦って真っ赤になる皮膚を見て表情を険しくする。このままでは爪をたててでも消そうとするだろうその細い手首に、ガシャンと嵌めこんだのは明の自由を奪う枷。

「帰りたい、帰して、家に……! 家に帰りたい!!」

 今にも狂いそうなその叫び声に戌が目をそらし、酉はこの状況でも楽しそうな笑みを浮かべる。
 少しだけ罪悪感を胸に秘める午の横を通り過ぎた巳が、座り込んで泣き喚く明の前に膝をつけた。

「明」
「もういや、こんなとこ、こんな…っ酷いことする人達のところになんか……!」
「明」
「触らないで!!」

 まるで駄々をこねる子供をあやすかのように巳の声色は優しい。泣き喚く明を見て、もう一押しで壊れるわね、と呟いた酉を午が一瞥する。

「明」

 優しかったはずの巳の声は、途端に冷たいものへと変わる。

「貴方が帰りたいと嘆く場所はもう無いのですよ」

 あの日、今と同じ声が帰る場所など無いと明に告げた。その時に感じた違和感がまた明の胸に広がり、やがてそれは大きな恐怖へとなった。

「貴方に私達以外の人間など必要無いと思い至りましたので、殺しました」

 その言葉はいとも簡単に告げられる。まるで眠る前におやすみなさいと言うように、当たり前のことだと言わんばかりの涼しさで彼の口からその言葉は発せられた。

「貴方を蝕み、帰りたいと望むその場所はもう無いのです。 私は貴方を傷付けた人間は誰であろうと許せません、それが例え貴方の大切なものであろうと」

 部屋を出ていこうとした戌の腕を酉が掴む。ここで全てを見ていろと、明が絶望に落ちるのを黙って見ていろと、ギリギリと手首を掴む力は強い。

「面白い」

 そう呟いた酉の低い声は近くにいる戌と午、もしくはどこかで聞いているであろう卯にしか聞こえていない。

「明、貴方に関わる全てを、私達が殺して差し上げました」

 だから安心してここにいて下さい、という声は既に明の耳に届いていない。
 帰る場所が無いと言われた時から、心のどこかでわかっていた。彼らが人を殺すことに戸惑いが無いこと、そして森を焼き払う程に異常な執着を明に持っていること、今まで一緒にいて知る彼らの裏側。
 だが実際に現実を突き付けられ、明は声を出すことも出来ないくらいの絶望に胸を侵されていた。

「そんな甘ったるい言い方じゃ駄目よ、巳」

 靴音が近付いてくる。
 立ち上がり場所を譲った巳の代わりに、明の前へと膝をつけたのは隠しきれない満面の笑みを浮かべた酉。
 顎を掴まれ、強制的に目を合わせられる。

「貴方が帰りたいと駄々をこねるから、貴方がワガママを言うから殺したの、わかる? 明、貴方があたし達に貴方の大切な人間を殺させたの」

 酉の言葉は明の胸に深く突き刺さる。
 最早まともな思考が出来ない明の口から零れたのは、小さな謝罪の言葉。
 まるで呪文のようにごめんなさいと呟く明の瞳から溢れた涙を舐め取る。そして愛しいものを見つめる目で、だが吐き捨てるように、酉は言った。

「だから、もう壊れろ」

 その声を最後に、明の意識は心の奥深くへと落ちた。


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