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「なんか最近あの子荒れてない?」
「興味ない」

 酉の言うあの子が指す人物とは現在仕事に出ている申のこと。
 最近の申はどうにも常に虫の居所が悪いらしく、短気な寅に負けず劣らずの苛立ち具合であった。
 そのことには興味がないらしい鼠は顔を上げもせずに返答をし、読書を続けていた。

「相変わらず冷たいわねぇ鼠ったら」
「………」
「まぁでも、あたしが思うにはあなた少し前から柔らかくなったわね、雰囲気が」
「……気のせいじゃない?」
「そうねぇ、あなたが勝手に明に全て話した辺りからだと思うんだけど……なにを話したのかしらね」

 それに対する鼠の反応は無く、酉はつまらないと唇を尖らせたのだった。


*


「明、入ります」

 その声は巳のもの。
 明の返事を待たずに開いたドアの先には予想通り巳の姿。
 何をしに来たのか明が問うと、新しい部屋に明を傷付けるものが無いか確認に来たと言い、彼は一人部屋にしては広い室内を歩き回る。
 そんな巳をしばらく見つめ、すらりとしたその後ろ姿に声を掛ける。

「私には猫としての記憶は無いです」

 これは明を傷付けるから駄目だとハサミを手に取った巳は、背後から放たれた言葉に動きを止める。
 振り返るとそこには悲しそうな表情の明。

「だから私は皆さんの期待には答えられない」

 彼らが自分に猫の存在を求めているならば、猫としての記憶が無い自分は何も出来ない。
 どれだけ彼らが焦がれようと、自分にはどうすることも出来ないのだ。
 そんな明を見つめる目を細め、巳はハサミを握ったまま歩み寄る。

「私達の期待に答えられない、と?」

 抑揚の無い冷静な声色は明に恐怖を与え、だが怯えてはいけないと拳を握り締めた明は巳の鋭い目を見つめ返す。

「期待など、最初からしていませんよ。 何を期待するというのですか? 貴方が私達の側にいる、それだけでいいのです」

 だから貴方は私達の期待に答える必要はありませんよ、と口元に少しの笑みを浮かべる。
 その見当外れな悩みなど捨ててここに一生いればいいと言いたげなその目に、明は哀れみに似た眼差しを向ける。

「それでも私はここにいるわけにはいかないんです」
「ですが、貴方に帰る場所がありますか? 酷い扱いを受け、そして最後には売られてしまった貴方に、帰る場所など無いように思いますが」
「それでも、別れの挨拶くらいしたいんです」

 ぎり、と奥歯を軋ませる巳の表情はゆっくりと色を無くしていく。

「猫としての私はもうどこにもいないんです、だからあなた達ももう猫を忘れ――」
「貴方は、捨てることの出来ない醜い想いを抱いたことがありますか?」

 猫を忘れて生きて下さい、と言い掛けた明の言葉を遮る巳の声は今までに無い冷たさを含んでいた。

「その人以外のことを考えられないくらい、その人がいない世界など生きる価値もないと思えるくらいに、誰かを求めたことはありますか?」

 あんなに愛していた明が急に消え、その間巳は胸を焦がし続けた。
 明を忘れた時など無いに等しい。どれだけ人を殺せど、他人に愛を囁かれど、その思いは消えることも忘れることも無い。
 毎晩のように明を思い、それを我慢出来なくなったならば自慰をして自分を慰める滑稽な日々。
 数えきれない程の長い間を巳はただ明を想って過ごし、愚かにも身体を昂らせた。

「貴方は知らない、私がどれだけ深く貴方を愛しているかを」

 ようやく会えた愛しいものをもう手離したりはしない、そう思うのは巳に限らずここに住む彼らも同じ。

「私は、無知ですから……貴方をここに留める方法を一つしか知りません」

 握っていたハサミが床に落ち、その手のひらは明の首へと伸ばされる。
 本能が危機を察し、数歩後退りしたが後ろはベッド。震える膝は身体を支えることを放棄し、明はベッドへと転んだ。

「言っているでしょう?貴方に帰る場所など無いと」
「……あ、あり、ます」
「無いのですよ、とうに、貴方がここに来た時から。 ……愚かな私は、貴方を傷付ける物は何であろうと許すことが出来ません」

 それはどういう意味?と問い掛けるよりも先に、巳の細い指が明の首へと巻き付く。
 徐々に加えられていく力。
 巳の腕を掴み抵抗するが、その腕はピクリとも動かない。酸素が足りないと信号を出す明の身体は力を無くし、抵抗すら出来ずに霞んでいく視界に死を覚悟した。
 その時、巳の首元に冷たい刃が向けられる。

「離せ、巳」

 その声の主と、向けられる刃を順に見た巳はそっと明の首から手を離した。

「もう仕事から帰ったのですか、戌」

 駆けてきたのか、戌の息は僅かに乱れている。
 彼の頬には鋭利な物で切られたのだろう一本の傷があり、仕事の際におった傷だろうと巳は笑った。
 巳の笑みに対して、戌は恐ろしくも見える無表情。それを最後に明は意識を手離し、だらりとベッドに倒れた。

「二度とするな」
「ならばどうやって明をここに留めるのですか? いっそのこと殺してしまえばもう私達から離れられないのに」

 乱れた髪の毛を直すことなく、先程まで首を締めていた手のひらを明の頬へと当てる。
 青ざめた頬は冷たく、無意識に流れていた涙を指で掬って舐め取る。
 愛しい人間の一部が自分の中に入ったと思うと身体に快感が駆け抜ける。もっと舐めたい、と顔を近付けて長い舌で明の頬を舐めた。

「想うだけで満足していられる貴方はいいですよね」
 刃の先端はまだ巳へと向けられ、また巳が明の首へ手を伸ばそうものならその刃は巳の身体へと突き刺さるだろう。

「私はもう、想うだけでは満たされないのですよ。 見たい、触れたい、感じたい、明の全てが欲しい」

 いっそ壊してしまいたいという衝動は、自分が狂っているのだとよくわかる。それほど巳にとって明が大切なのだ。
 否、大切なんて言葉では足りない。もうこの世にある言葉では表現出来ないくらいに大きな感情を明に向けている。
 眼にその存在を写し取るかの如く明を見つめている巳へと、今まで押し黙っていた戌が口を開く。

「俺がいつ、満足した?」

 低い声が部屋に響く。
 予想もしない返答に驚いた巳は戌へと振り返った。

「そんな偽善染みたものを思ったことは無い」

 その鈴のような声で名前を呼ばれたいし、すぐに折れてしまいそうな腕に抱き締められたい。宝石よりも美しいその両の眼に見つめられたい、可愛らしい頬を桃色に染めたい。
 どれだけ表面上を着飾っても、結局中身は腐りきっているのだ。

「想うだけで満足出来るなら明をここに閉じ込めたりはしない、手離したくないと思ったりはしない」

 戌の本音を初めて聞いた巳は驚いたように目を丸くする。
 あの戌が――亥程ではないが口数は少なく、そしてまるで姫を守る騎士かのようにいつでも明を助け、自分達の仕事の内容を明に知られまいとしていた戌が。

「俺も、明に汚れた想いを抱いている」

 巳に向けられていた刃はいつの間にか床を向き、くるりと二人に背を向けた戌はドアへと向かう。

「一番まともだと思っていた貴方がそれならば、私達はもうおしまいですね」

 明を正しくベッドに横たわらせ、ゆっくりお眠りくださいと呟き頭を撫でる。
 先程首を締めていた人間と同一人物には思えない程の優しげな笑みを浮かべ、巳は立ち上がった。

「壊れてしまえばいいんですよ、貴方も……私も、彼も、皆、全て」

 閉じられたドアは外側から鍵を掛けられ、静かになった部屋には明の寝息だけが響いていた。


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