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鼠が話したこと――自分が元々彼らと共に過ごした猫という人物そのものであるという話。
にわかには信じがたいそれに眉を寄せた明から鼠は目をそらし、本当のことであるその話を信じろとしか言いようがない。
「……でもみんなが大切なのは猫なんですよね?私は明です、猫じゃない」
「違うよ、お前は猫。 一番一緒にいた僕が言うんだもん……神の怒りに触れて堕とされて、輪廻転生してただの人間になったんだよ」
もし先程の話が本当なら、と明は考える。目の前の鼠は自分を騙したという事実は変わらない。
彼らに対する疑心暗鬼が、明の胸にふつふつと込み上げてくるのは自分が猫だからなのか、明にはわからない。
「鼠さんは、どうして嘘をついたんですか……?」
それは自然と出てきた問い。
その言葉に覚悟をしていた鼠は、苦しそうな笑みを浮かべて口を開く。
「負けたくなかった、お前にだけは……どうしても勝ちたくて、僕の方がすごいってことを言いたくて……それなのに、僕はお前に何も言えないまま、謝れもしないまま、お前は僕達の前からいなくなった」
今にも泣きそうなその表情を両手で覆い、鼠は何度も謝った。
嘘をついてごめんなさい、助けることが出来なくてごめんなさい、何も出来なくてごめんなさい。
ひたすら謝罪ばかりを述べる鼠へと手を伸ばし、頭を撫でると灰色の髪の毛が指の間に流れる。
「ごめんなさい、明」
もういいよ、と言う明の優しい声色にとうとう鼠は涙を溢れさせる。ぼろぼろと溢れる大粒の涙を明が服の袖で拭き取るが、それでも拭き取れぬ程にどんどん落ちる涙が絨毯に丸い後を付けた。
*
「あの子の調子はどう?」
その声がやって来るのはいつも突然。卯でさえその存在に気付くのは声が聞こえてから。
その声の主であるサンタはいつものように窓枠に腰掛けていた。勿論ここは三階に位置する部屋であり、彼が常人ではないということがよくわかる登場である。
「元気すぎて困り果ててる」
卯が溜め息をつきながらそう言うと、サンタは楽しそうな笑い声を溢した。
「躾がなってないなら首輪を付けてあげたらいいんじゃないかな?それでも駄目なら手足を縛ってしまおうよ」
爽やかな笑顔でそう告げるサンタの性根は心底腐っているのだろうと午が心の中で毒づく。
だが明を見つけ、ここへ連れてきてくれたのは紛れもなくこの男だ。どんなに腐っていようが感謝はしている。
「おれの大事な明をよろしくね、逃がしたりなんかしたら許さないから」
「逃がすわけないでしょ」
「そうだね、あの子は逃がさない」
卯と午の返事に満足げに笑い、サンタはいつものように窓から飛び降りる。
しばらくして聞こえてきた鈴の音に卯が舌打ちをし、午が窓の外を見つめる。
「まるで明が自分のものみたいに言って……明は元々ボク達のなのに」
「まぁそう言うなよ卯、サンタのおかげでまた明に会えたんだし」
明がいなくなった理由を知っている卯は心の中でもう一度舌打ちをして、またサンタが入ってこないようにと窓を閉め鍵を掛けた。
遠くからは鼠の泣き声が聞こえ、全て話したのかと卯は目を細める。
勿論泣き声が聞こえているのは卯だけで、何も聞こえない午は呑気に明ちゃんどうしてるかなぁなんて呟く。
「明に話したみたいだよ、鼠」
「え、話したの?鼠が?」
午は知らない。鼠のせいで明がいなくなったことを。
だから鼠が泣いていると知ってもきっと不思議がるだろうし、明に全てを話したのが鼠だと知って驚くのも無理はない。
このことを知っているのは鼠と、全て聞こえてしまう卯だけなのだ。
「明の声だけ聞こえたらそれでいいのに」
小さな卯の呟きに午はどこか寂しそうな表情を浮かべ、そうだね、と同調の言葉を返したのだった。
*
廊下を歩く申の表情は曇っていた。
いつもならば陰りを知らないような元気を振り撒く悪戯っぽい笑顔は消え、弾みのない足取りでとぼとぼと歩いていた。
(鼠が嘘を付いたせいで……?)
いつものように明の部屋へ遊びに行った申は、中から聞こえる鼠と明の会話を聞いてしまった。
そして知る事実を、まるで確かめるように申は呟いた。
「なんで明は鼠のこと許したんだ」
謝る鼠に対し、明はあの優しい声でもういいよと告げていた。
鼠に対する怒りは不思議よりも、なぜ嘘をついた鼠を明は許せるのかという疑問。きっと自分が明の立場なら鼠を責め立ててしまうに違いない。
「……明は鼠のことが好きなのか?」
あの頃、まだ明が自分達と一緒にいた遥か昔のこと。
明がよく一緒にいたのは鼠だった。鼠はライバル視していたようだが、明は鼠と一緒にいるとよく笑っていた。
思わず明の部屋の前から逃げ出してきてしまった申はふつふつと沸き上がる感情の名を知らず、ただただ生まれるのは明への疑問ばかり。
「……イライラする」
離れた間に膨らんで大きくなった明への気持ちは、明と鼠の仲に嫉妬を生み出した。初めての感情は申へと苛立ちを与え、ぶつけようの無い苛立ちを拳に込めた申は壁を殴り付けた。
壁へとめり込んだ拳からは血が滲み、だが申の苛立ちは治まらない。
誰に苛ついているのかも、何に苛ついているのかもわからない。胸に広がる淀んだ感情がなんなのかも申にはわからない。
ただ、明に腹が立っていることだけ。それ以外は何もわからない申はどうしようもなく、その場を立ち去ったのだった。
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