ぽろぽろと溢れる涙を見るのは何度目だろうか。 両手の指の数では足りない。プラス足の指でも足りないくらいに、俺は目の前で涙を流す彼女――アキラという人の涙を見てきた。 「今日はどうしたんすか」 春先にも関わらず屋上の風は冷たい。先程まで友達とバスケをして火照った俺の体はだんだんと熱を失っていくのがわかる。 「空が綺麗で」 先輩は少々――否、かなりおかしい。 空が綺麗だという理由だけで泣けるのだ。ついでに言うなら、初めて先輩と会った時は寒いと言って泣いていた。 どうやら先輩は極度の涙脆い人間なのだろう。ほんの少し何か心を揺さぶられると自然と涙が溢れる。 それはもう、木の葉を揺らす小さな風だけで彼女の心は大いに揺れてしまうらしい。 淡い茶色の髪の毛に、陽の光に晒すのが勿体ないくらいに透き通った白い肌。これ程に白が似合う人物はいるのかと思うくらいに、先輩には白が調和する。 あくまでも俺の中では、だが。 それに対し真っ黒な髪の毛、大きな黒目、真っ黒な学生服の俺ときたらまるでカラスみたいで、先輩とは正反対の存在である。 性格もそれほど明るくはないし、どちらかと言えば無口。クラスの人気者とは程遠い位置にいるのが俺だ。 ちなみにさっきまで一緒にバスケをやっていた長谷部という男は、人気者の鏡かってくらいにクラスの人気者。率先して物事を進めるし、クラスのみんなを笑わせたりするし、あとはなんだ、爽やかを具体化した存在と言えばいいのか。 「寒くないんすか?」 短くも長くもないスカートから伸びる白い足。 日焼け止めは塗っているのだろうかと心配になりつつ、無反応な先輩に歩み寄った。 「聞いてます?」 「聞いてるよ。 そうだね、今日もいい天気」 「聞いてないっすね」 大体いつもこんな感じ。 俺が話し掛けて、先輩がとんちんかんな返答をする。 相変わらず今日もよくわからない涙を流してる先輩は屋上から何かを眺めている。 空が綺麗だと言うくせにその目は下に向けられていて、同じく下を見るけどそこには下校する生徒や、手を繋いで歩く恋人達、もしくは部活に向かう者やら楽しいものは見当たらない。 「アキラ先輩、なんで泣いてたんすか」 「……空が綺麗だから」 ぽたりと先輩の涙が下に落ちて見えなくなる。 いつの間にか彼女の目は空に向けられていて、あぁ先輩は空が綺麗で泣いてるんだろうなと自分に言い聞かせた。 「で、今日はまたなんで泣いてんすか」 相変わらず屋上から下を眺める彼女の瞳からはポロポロと雫が溢れ、屋上の地面に丸い跡を付ける。 今日は一体何に涙したのか、それを聞くのはもはや挨拶のようなものだった。 「前髪を切るのに失敗しちゃったの」 どう失敗したのか見てやろうと彼女の隣に並び、横からその前髪を見やる。 「……ふーん、失敗したんだ」 正直言うと、いつもの見慣れた前髪の長さと今日のそれは何ら変わり無い。失敗したどころか切った様子さえ見当たらない前髪に俺は気付かないふりをして、先輩の言葉を信じたことにして目をそらした。 今までの理由ももしかしたら嘘だったのかもしれない。そして俺はそのことに心のどこかで気付いていた。 だって当たり前だ、寒いから泣いたり、空が綺麗だからと泣いたり、そんな理由を信じろという方が難しい。 「ねぇ東くん」 あずまくん、と聞こえた声に耳を疑う。その名は紛れもなく俺の名字であり、その声は先輩の口から紡がれた。 いつもは俺から話を振っていて、先輩から話し掛けてきたのは今日が初めてだった。 「な、なんすか」 動揺しているのが丸わかりな声に我ながら自分を殴りたくなる。それでも先輩はわかっているのかいないのか、その瞳は下校する恋人達やら部活に精を費やす生徒に向けられている。 「東くんは叶わない恋をしたことがある?」 先輩の口から出たのはこれまた不思議な質問だった。 「ない、ですけど」 私はあるよ、と間髪入れずに放たれた彼女の声に俺は何も言えなくなる。 「今、してる」 春だというのに風は冷たくて、そしてその冷たい風は先輩の綺麗な髪を揺らす。 「……そっすか」 それ以上は聞けなかった。 相手は誰なんだろうとか、なんで叶わないんだろうとか。聞きたいことはたくさんあるのに俺の喉は溢れる疑問の言葉を通してはくれない。 ――そして、俺は知った。 先輩に、叶わない恋をしているということに。 叶わぬ恋の入り口は、思っていたよりも胸が苦しかった。 毎日同じ夢を見ているかの如く、今日もまた先輩は放課後の屋上で泣いている。 何度も見た光景だけど、先輩の綺麗な横顔に飽きる様子は今のところ俺には無い。 「水分……」 ふと疑問に思ったことが口に出てしまい、仕方ないと続きを言うことにした。 「水分、ちゃんと取ってます?」 我ながら愚問だとは思う。 けど毎日毎日惜しげもなく流す涙に対し、アキラ先輩が摂取する水分は足りているのだろうか。 ちらりとこちらを見た先輩は目元を緩め、小さな笑みを浮かべた。 「取ってない」 「え」 「渇ききってるのに、涙は出てくるんだもんね」 不思議だね――と、小さな笑みはまた空に向けられてしまった。 まさか俺の馬鹿な質問に真面目に答えてくれるとは思わなかったし、笑顔を見せてくれるとも思わなかった。 下を歩く恋人達が手を繋いでいたり、部活に向かう生徒が荷物を両手にグラウンドへ走っていたり、補習から逃げたと思わしき男子生徒が教師に追われていたり。 「なんでも見えますね、ここからは」 彼女はいつもここから何を見ているのだろう。毎日毎日飽きもせず何かを眺めては涙を流す先輩と、毎日毎日飽きもせず先輩の涙を見る俺。 「そうなの、なんでも見えちゃうの……だから私は泣いてしまうの」 きっと先輩が泣く理由は一つ。 空が綺麗だからじゃなくて、空気が冷たいからでもなくて、そしてお昼ご飯が美味しかったからでもないのだ。 まだその理由はわからないけど、きっとそれは先輩の叶わない恋に関係するものであり、それはつまり俺の叶わない恋にも関係する何か。 「先輩……アキラ先輩」 「………」 「何で泣いてるんすか?」 これで何度目だろう、この質問をするのは。 「朝に見た占いで最下位だったから」 何度目になるだろう、先輩の嘘を聞くのは。 多分俺は、全てわかっていた。 今日も先輩が屋上に来ることも、また涙を流しているってことも。 「先輩、もう泣かないでよ」 先輩が、何を見て泣いているのかも。 「見なきゃいいじゃないすか、叶わない恋なんて」 先輩の視界を手の平で覆う。 見なければいいのだ。涙を流すくらいなら最初からあんなもの見なきゃいい。 そんな俺の手の平を掴み、彼女は真っ暗な視界から逃げ出した。 「東くん」 「俺知ってるよ、先輩が何を見て泣いてるのか」 今日も屋上から見下ろすと野球部らしき男子生徒達が掛け声をあげながら走っていて、部活の無い生徒は帰宅すべく歩いている。 そして仲睦まじい恋人同士が寄り添いながら帰路へとつく。 そして、先輩の頬をぽろりと滑り落ちる涙。 「好きなんすよね、あの人のこと」 手を繋ぐ男女が誰なのかはわからない。 けれど先輩はいつも屋上から二人を見ては涙を流して、俺に嘘をつく。 「先輩の好きな人には彼女がいるから、だから先輩は泣いてるんだ」 空が綺麗だからとか、占いの結果が最下位だったからとか、風が冷たいからとか。誰にでも嘘だとわかるような嘘を平気で俺について、先輩の気持ちは俺じゃない人間に向いたまま。 残酷な人だなぁと心の中で毒づき、広がる空を見上げた。 「あの青い空に飛び込んで消えてしまいたい」 ふと聞こえた声に視線を戻すと、先輩の目からは相も変わらず透明な液体が溢れている。 何も知らない頃なら、その涙を綺麗なものとして見ることが出来ただろう。けれど今はその涙の理由を知っている。 俺の知らない人間の為に流す涙なんていらない。見たくもない。 「本当に先輩って残酷な人っすね」 今にも飛び降りてしまいそうな先輩に歩み寄る、白い首に手を伸ばした。 ぱちぱちと瞬きをしたけれど先輩は抵抗することもなく、俺の指が自身の首に絡み付くのをただ受け入れていた。 「先輩、俺あなたのこと好きですよ」 「ありがとう」 涙が俺の手に伝う 青い空を背景にした先輩は何よりも綺麗だ。 「でもごめんね、私は東くんの気持ちには答えられない」 「どうして?簡単なことじゃないすか、あの人なんか忘れて俺を好きになればいい」 俺の為だけに笑って、息をして、瞬きをし、言葉を紡げばいい。そしてその綺麗な涙も俺の為だけに流してくれたらどんなに幸せだろう。 ちらりと下を見ると相変わらずあいつは恋人と一緒にいて、一瞬だけこちらを見上げたような気がした。 (見るな、俺の先輩を) おまえは自分のものだけを見ていればいい。俺の先輩を見る必要なんてない。 「先輩の全てが欲しいんす」 欠片も残さず、その全てを自分に向けてほしい。 首に絡まる手に力を込めると、先輩の顔が苦しそうに歪んだ。 「よくわからないんすけど、俺自分が思ってたより嫉妬深いみたいで……先輩が知らない人の為に泣くなんて、なんか…すごく苛々して……どうせ手に入らないなら、あぁすみません、もう何がなんだかわからない」 ひゅうひゅうと息が抜ける音。 抵抗しない先輩。 このまま俺の手で彼女を眠らせることが出来たらなんて思うけど、ふと考えてみる。 先輩がいない屋上、先輩がいない学校、先輩がいない放課後、先輩がいない世界。そんなもの我慢出来るわけがない。 でも先輩がこれからもずっとあの人の為に泣くのも許せない。ああ俺はどうしたらいいのだろうかと、先輩の首を締める力を弱めた。 「それなら、俺が死のう」 広がる淡い青へと飛び込んでしまおう。そして下にいるあの人に見せ付けてやるんだ。俺がどんなに先輩のことを好きなのか。 「先輩、アキラ先輩、さようなら」 別れの言葉は声になっていただろうか。 屋上の縁に立ち、先輩がいつも見ていた空をこの目に焼き付ける。 ふわりと吹いた風に押され、俺は体の力を抜いた。 (しまった…) 背中から落ちれば良かった。このままでは空を見たまま死ねないことに気付いたがもう遅い。 ちらりと視界に映った先輩の想い人に舌打ちをしながら、俺は目を閉じた。 それなのに。 「東くん、駄目だよ」 引き寄せられた体は遥か下にある地面とは逆の方向に倒れ、俺を抱き締めたまま下敷きになっている先輩は相変わらず泣いていた。 「駄目だよ」 「……なんで?」 体を引っくり返し、先輩を押し倒したかのような態勢になる。 「駄目」 「……先輩、酷い人っすね」 駄目だという目は俺を見てくれない。そして俺は先輩が何を言いたいのかよくわかった。 「いまは、だめだよ」 文字通り死ぬほど先輩を好きになっている俺と同じくらいに先輩はあの人のことを好きなのだろう。 下にあの人がいるから、だから今は落ちてはいけない。どうやっても俺は勝てないらしい。 とうとう俺の目からも涙が溢れ、ぽたぽたと落ちた涙は先輩の頬を伝って地面に流れる。 「東くん、どうして泣いてるの?」 「……空が、綺麗、で」 俺の気持ちなど知らない空は俺の後ろで呑気に青を広げ、そんな空を背景に俺は先輩に嘘をついた。 「そう、それなら仕方ないね」 悲しそうに微笑む先輩の視線は、俺の後ろの青を見つめたままだった。 ![]() top ×
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