縄で縛られてしばらくたった彼女の手首は赤黒く、見るからに痛々しそうだった。

絹のように白い肌が傷付くのは勿体無いけれど、縄をほどくと彼女は逃げようとするから仕方ない。
せっかく俺があの家から連れ出してやったのに。


彼女は裕福な家で大切に育てられたお嬢様で、俺はその家で雇われているただの執事。彼女は上から下の者まで隔てなく優しくて、ただの執事である俺にもいつも笑顔を向けてくれる。

いつの間にか彼女を慕っていた俺は毎日毎日彼女に会いに行って、彼女も俺を毎日迎えてくれた。
長い前髪を切った方が表情が見えていいんじゃないかと言われた俺は前髪を切った。バッサリ切ってしまったせいか、前髪の長さが揃ってどこぞの姫君みたいだ。

それでも彼女は似合っていると褒めてくれた。

きっと彼女は俺のことが好きなんだと思った。両想いなのだからさっさと想いを伝えなければと、いつも通り彼女に会いに行った。
部屋にいない彼女を探し回ってようやく見つけたけれど、俺は目を疑う。
客室にいた彼女は見知らぬ若い男とそれはそれは楽しそうに話していて、普段俺にも向けてくれるその笑顔に憎たらしささえ覚えた。
この頃から俺の心は歪み始めた。

次の日、彼女に昨日いた男の事を聞いて俺は絶望する。
あいつは彼女の許嫁だと言う。親同士が決めたものだからあの男を慕ってはいるわけではないと言ってはいたが、ほんのり桃色に染まる頬が本音を物語っていた。
ついでに彼女の笑顔を見たのはこれが最後。


そして俺は彼女を拐った。
抵抗する彼女の手首と足首を縄で拘束し、猿轡をはめ、俺の家に閉じ込めた。

そんでもって俺は普段通りに彼女の家へ勤めに行く。彼女が誘拐されたと騒ぎたっていて、俺はこっそり笑った。それはもう、声は抑えたが腹の底から。
彼女の許嫁の男が来て彼女の安否を気にしていた時は声が我慢出来なくて、急いで城から出て笑った。
喉が痛くなるくらい、全力で。
おかげで最近は笑いすぎて声が掠れてきている。
笑う角には福が来ると言うし、俺は幸せに胸を膨らませて彼女が待つ家へ帰る。


「只今帰りました、お嬢様」

反応は無い。彼女は照れ屋だから。
こちらをキッと睨むその表情に思わず興奮してしまう。帰って早々勃起してしまいましたお嬢様、どうしてくれるんですか。
ちなみに俺はつい最近、彼女と体を重ねた。理由は彼女が逃げようとしたから。何度も同じ事を繰り返すのでお仕置きしてあげた。
無理矢理犯すというのは俺のほんの少しだけある良心が痛むので、たっぷりと媚薬を飲ませてあげた。
後半は彼女自ら腰を振ってきたし、やっぱり凪様は俺のことが好きなんだ。

「ただいまって言ったらおかえりって返してくれないと、俺寂しいじゃないですか」

俺の中での最上級の笑顔を浮かべて言うが、彼女は依然と怯えと怒りの入り交じった表情を変えない。

「おかえりなさい、ですよ」
「……」
「そうですか……凪様はまたお仕置きして欲しいんですね」
「!? ご、ごめ…ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさい」

がたがたと震える肩。
今にも壊れてしまいそうな彼女を抱き寄せて、俺はあまりの幸せに目を細めた。

「愛してます、俺はあなた以外いらない。 あの許嫁があなたの名前を口に出すたびに殺したくなる……俺、あの男がこの世で一番憎いです。 凪様はもう俺のものなのだから諦めればいいのに。 ねぇ?凪様もそう思いますよね、俺以外の人間なんていらないですよね?俺だけがいればあなたは幸せですよね」

その言葉に、彼女の返答は無かった。


*


最近の凪様は俺のことが好きだという自覚を持ってきたらしく大人しい。
前のように睨んできたりしないのは、嬉しいけど少しだけ悲しい。彼女の表情の全てを見たいからね。

「凪様、口を開けて下さい」

何の躊躇も無く開かれた口の中にスプーンで掬ったスープを運ぶ。

「おいしいですか?」

こくりと小さく頷いた彼女はまた口を開ける。

「可愛い」

無意識に声に出た言葉。
彼女は美しくもあり、壊してあげたいくらいに可愛くもある。壊してあげたいくらいっていうか、もしかしてもう壊れているのかもしれないけど。

光の宿らない瞳が俺を真っ直ぐに見つめていて、彼女の笑顔でいっぱいだったあの頃を思い出す。

「……凪様」

俺は今物凄く幸せだ。
どんな形であろうと彼女が俺の側にいるならばそれ以上の幸せは無いと思ってる。

「凪様」

返事は無い。
彼女の鈴のような綺麗な声はどこに落としたのだろうか。彼女の声が最後に俺の名を呼んだのはいつだったか。

「凪」

俺は今幸せで、これ以上の幸せは無い。
けれど俺の心は空っぽで、ついでに言うなら彼女の中も空っぽで。

「笑っ、て」

笑って下さい、と呟いた言葉に彼女は答えない。笑わない。
俺の頬を流れて落ちた液体が床に丸い跡を付けた。

「愛してる、愛してる愛してる愛してる愛してる、あいしてる」

俺は彼女を愛してる。
彼女もきっと俺を愛してる。
俺は今、非常に幸せだ。

すると、彼女の口がぱくぱくと動いた。掠れてはいるが、彼女の声が僅かに聞こえる。

「っ……何ですか、凪様?」

彼女の口元に耳を寄せて、小さな小さな声が紡ぐ言葉を聞く。



「   」


少し錆びた鈴が最後に紡いだ言葉は、俺がこの世で一番憎い男の名だった。




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