白濁 | ナノ



「ちかくにきては くれないのですか」



 庭に落ちた枯葉が、秋の紅葉のように色鮮やかに見えるほどに謙信様のお声は美しいものでした。久々に、というよりもほとんど初めてに近い形で謙信様はわたしにお声をかけてくださいました。それは武田軍との戦で謙信様がお怪我を召された翌日のこと。



「わ、わたしのような身分のものが謙信様の近くには…」



 謙信様はすべてを見透かしたような笑顔でわたしを見るのでした。そんな風に言われては必死で押さえ込もうとした感情が露出してしまいそうで、心臓が早鐘のようになってしまいます。それを知ってか知らずか、謙信様は楽しそうに微笑をこぼすのです。



「これはわたくしのねがい、ですよ」
「ですが…かすが様にお叱りを受けてしまいます」
「つるぎもいまはいませんよ。すこしはなしをするだけでよいのです」



 そうしてゆっくりとわたしに向けて手招きをしました。そんな事をされてはわずかに残った自制心も揺れてしまいます。思わず手に持った竹ぼうきをぎゅう、と握りしめればそこは丁度節の部分だったのか、手の平に鈍い痛みが。この痛みでどくんどくんと煩い心臓の音も少しは治まるかと思ったのですが、人の気持ちというのはそう簡単なものではないようで。



「ふふふ、しかたないですね。ではわたくしがそちらにまいりましょう」
「謙信様!そ、そんな昨日の今日で動いてはお体に障ります!わかりました、では…し、失礼いたします」



 私が履物を脱いでいると、後ろからくすくすと謙信様のお声が聞こえます。まんまと謙信様の罠に掛った気が致しますが、謙信様が楽しそうならそれだけで私の心は満たされる気がしたのです。にしても謙信様は何をお考えなのでしょう?私のようなしがない女中を床に上げるなんて、決してあってはならない事なのに。



「いつもわたくしのにわをきれいにそうじしてくれているのはおまえなのですか?」
「は、はい。至らない所ばかりで申し訳ありません」
「おまえはへんなところであやまるのですね。ほめているのですよ」



 頬が、まるで火がついたように熱い。謙信様の手が、ゆっくりと私の頭を撫でる。ありがとう、と謙信様の川のせせらぎの様な声が頭の中に反響する。謙信様、どうか私をお許しください。どうか、この愚かな感情をあなたに持ってしまった私をお許しください。私があなたに近付く事を恐れていたのはきっとこの感情に気付きたくなかったから。(でも、もう 遅い。)きっとこの心の中に残った白く濁った感情はきっとあなたの傍に居る限りずっと私の中にあり続けるのでしょうね。




白濁
(伝える事は、赦されない)



120129/しろ
センチメンタルウーマン様へ提出させて頂きました。
素敵な企画をありがとうございます。