桐青との試合が終わった翌日の夜、私はなかなか寝つけずにいた。
布団の中で目を閉じれば、あのときの光景が鮮明に浮かび上がってくる。冷たい雨にも負けず、最後まで力の限り戦った凄まじい熱気と共に。
三橋くん、昨日はほんとにすごかったな。三振だってたくさんとってたし、やっぱり三橋くんはすごいんだ。

マネージャーをやって初めて知ったこと、それは野球が思ったよりもずっと頭を使うスポーツだということだった。捕手の阿部くんは本当にすごい。自分でコースを考えて、その場その場に適応した指示を三橋くんに教えていた。私には絶対できないよ。
泉くんの最後のキャッチもすごかったなあ。みんな興奮して浜田くんなんて泣いちゃってた。それに泉くんたくさん打ってたし、やっぱりこれも毎日の練習の成果なんだ。みんなが練習に集中できるように、私も千代と一緒にマネージャーの仕事頑張らないと。
最後、そうだ、最後の田島くんはほんとすごかった。最後の最後でシンカーを打ってくれて、田島くんも喜んでたな。そうだ、今日の帰りは田島くんと秘密の特訓やらなかった、きっと田島くんはちゃんと今日も素振りしてたよね、明日は私も手伝いたいな。
花井くんの最後のバックホーム、愛に見せたかったな。次の試合には愛もひなこも来て欲しい、みんなの頑張ってる姿を見てほしい。
そういえば、次の試合にもルリちゃんって子、来るのかな、来たら少しでもいいから話してみたいな。

「愛!ひなこ!おはよー!」
「おはよーサヤ」
「おっは!なんかサヤ、今日は元気だね!」

私は笑顔を浮かべながらうん!と返事をする。
席につくと、隣の席の田島くんがうんうん唸りながら宿題をやっていた。

「田島くん、おはよっ」
「おー!名字おっはよー!」
「宿題、大丈夫?」
「ぜんっぜん!なあ、三橋終わったー?」

前の席に座る三橋くんに声をかける田島くん。三橋くんはおどおどしながらまだ終わらないと言うように、頭をぶんぶんと左右に振っていた。
あれ、なんか三橋くん少し目が赤い。昨日よく眠れなかったのかな。

「み、三橋く、」
「ちょっと見せてって言ってるだけじゃん!泉のバカ!!」

三橋くんに声をかけたと同時に、教室中に広がるひなこの声。顔を向けると、泉くんとひなこが宿題の取り合いをしていた。
2人はいつも元気だなと思いつつ愛に視線を向けると、やっぱり愛はいつものように自分の席で熟睡していた。

「サヤ!泉が宿題見せてくんない!」
「宿題くらい自分でやれ、田島も三橋も自分でやってんだろーが」
「え?オレ、名字の宿題見せてもらってるけど」
「田島あああ!!」

ちゃっかり私の宿題を写している田島くんに泉くんが声を荒げる。
田島くんいつの間に!全然気づかなかったと焦りつつ、田島くんと泉くんの言い争いを見て小さく笑った。

「あっれ、愛もう寝てんの!?」
「うん、そうみたい」
「ほんと毎日毎日よく寝るなー、まあいいや」

さっさと宿題やっちゃおと言って、悩みながら宿題をやり始めるひなこ。
どこまでやったのかとたしかめるようにひなこの宿題を覗きこむと、あと2問ほどで終わるところだった。

「ひなこ、もう終わりそうだね」
「うん、でもこれがもうぜんっぜんわかんなくてさー、泉にちょっと見せてもらおうとしたんだけどね、泉見せてくんないし」

ほんとケチじゃない?と言いつつ、いまだ田島くんと言い争いをしている泉くんに視線を向ける。その表情は言葉とは裏腹に穏やかなものだった。
ひなこと泉くんのいかにも友達という雰囲気に、私は少しだけ羨ましさを感じた。

「ごめんサヤ!私今から職員室行かなきゃ行けなくて、地図取りに行けないの、だからかわりに取ってきてくれない?お願い!!」
「うん、わかった!取りに行って来るね!」

無事、宿題があった授業が終わり、次の時間までの休み時間中。ひなこに頼まれた私は、早く準備室に行かなければと急いで立ち上がった。
自分の席で眠そうにぼーっとしている愛にちょっと行ってくるねと伝え、教室から少し遠いところにある準備室に急ぐ。準備室のドアを開けると中はほこりだらけだった。
地図はどこだろう。準備室内に入り辺りを見渡すと、棚の上に地図が置かれてあるのが見えた。近くにあった椅子を使いそれに乗って思いっきり手を伸ばす。
どうしよう、全然届かない。

「…名字?なにしてんの?」

突然の声。びくりと体を跳ね上がらせながらドアのほうに顔を向けると、そこには怪訝そうに私を見つめる泉くんの姿があった。そうだ、泉くんなら届くかも。
急いで椅子から降り、泉くんに頼みこんだ。

「あの、次の授業であの地図使うみたいなんだけど、と、とれなくて、」
「地図?ああ、あれか」

地図を確認すると泉くんは椅子に乗り、背伸びもせずに棚の上から地図を取り出す。

「はい」
「あ、ありがとう!泉くん!」
「おー」

地図を手渡され見上げると、私を見下ろす泉くんとふいに目が合う。焦りつつもじゃあと言って軽く頭を下げた。それと同時に左手に感じる、一回り大きなあたたかな感触。どきりと心臓が飛びあがった。
それから、泉くんが私の左手を握っているという事実に気づいたのは数秒たってからのことだった。

「い、泉くん?」

恐る恐る見上げる先に見えたのは、ばつが悪そうに視線を泳がせ、頬を赤く染めている泉くんの姿。次第に強くなる私の手を掴む泉くんの大きな手。
一体どうしたんだろう、さっきから何かを言いたそうにしている泉くん。何か言いたいことがあるのかな。

「…名字、オレ、」
「あれ?サヤまだここに居た、の」

泉くんがやっとで何かを言おうとしたその瞬間、耳に届いてきたのはいつも聞きなれている元気な声。反射的にお互いすぐに手を離し、声のしたドアのほうに顔を向ける。
そこには驚いたような表情をしているひなこの姿があった。

「泉?なんで、泉もいるの?それになんで手繋いで…」
「あ、えっと、地図、取れなくて、泉くんに取ってもらったの、そろそろ授業始まっちゃうよね!い、急がないと!」

私はいまだ固まっているひなこを引っ張り、泉くんを手招きして急いで教室へと移動した。
走りながら盗み見たひなこは固い表情のままで、泉くんもずっと無言だった。

「はい!今日はこれで解散!!」
「おつかれーした!」

辺りもすっかり暗くなり、部活は終了を迎えた。千代と2人で後片付けをしながら考えるのはひなこと泉くんのこと。
あれからひなこは私と普通に話していてくれたけど、やっぱりどこか変だった。そして泉くんもあのときから今までずっと、なんか変。

「サヤ、今日ちょっと元気ないね」
「え、そ、そうかな?」
「うん、ずっと何か考えてるみたいに見えるよ」

何かあったのと心配そうに聞いてくる千代に、なんでもないよと言う。それでもまだ眉を下げ私を見つめてくる千代。
私のバカ、千代に心配かけさせるなんて。ひなこには明日元気ない理由聞けばいいんだから、今はちゃんとしないと。

「だ、だーいじょうぶ!ちょっと疲れてただけだから!気にしないでよ千代!」
「それならいいけど…」
「なあ、三橋のタオル知らねえ?」

阿部くんに声をかけられ、三橋くんに目をやるとおどおどと辺りを見渡していた。
三橋くんのタオル、なんだか見たような気がするけど。うーんと唸りながら思い出していると、千代がそういえばと私に耳打ちをしてきた。

「そうだよ千代!たしかそこだったね、私すぐ持ってくる!」
「サヤ、そんな急がなくても!」
「名字、さんっ」

急いで走り出したおかげで思いっきり転んでしまった。それを遠目から見ていた千代と三橋くんは驚いていて、阿部くんに至っては心底呆れているように大きくため息をついている。
私は苦笑いを浮かべながらタオルを取りに行き、すぐに三橋くんに手渡した。

「はい、三橋くんっ」
「う、あの、あり、が」
「つーか名字、お前あんな何もねえとこでいちいちこけてんじゃねえよ、お前ってほんと、そそっかしいっつーか落ち着きがないっつーか」

阿部くんが眉間にしわを寄せながらくどくどと話し出す。私は小さくなりながら以後気をつけますと、阿部くんの顔色を確認しながら呟いた。
それを見た阿部くんはなぜか、眉をぴくりと動かしさっきよりも怖い顔になってしまう。え、なんで阿部くん怒ってるんだろう、私なにか変なこと言ったかな。

「あ、阿部くん、」
「オレ、別に怒ってねえよ」
「…え?」
「だから!怒ってねえっつってんだろーが!!」
「ご、ごめんなさい!!」

私が謝ると、阿部くんの表情はますます怒りに満ちたものへと豹変していく。これで怒ってないって言うほうがおかしい。
阿部くんにびくつきながら顔を上げると、千代と三橋くんがもういなくなっていることに気づいた。

「ご、ごめんなさい、阿部くん、私、片付けしに行くね」
「だから、謝んじゃねーって、」
「また名字のこと怒ってんのか?」

突然、阿部くんの背中に飛び乗ってきた田島くんは、私に笑顔を向けながら声をかけてくる。
怒ってねえっつーの!と阿部くんが田島くんに声を張り上げていた。

「阿部ってすぐ怒るよなー」
「はあ!?」
「そーだ、名字!今日は秘密特訓やっからな!」
「う、うん!」
「…そういや前もそんなこと言ってたよな、お前ら何やってんだよ」
「あべーにはヒミツー!」
「はあああ!?」

怒りに満ちている阿部くんを無視し、田島くんは愉快そうに去って行く。私も阿部くんから逃げるように千代のほうへと走っていった。
あ、どうしよう、阿部くんすごい睨んでる。
怯えながら千代のそばへ行くと、近くにいた泉くんと目が合った。泉くんは素早く視線をそらす。
ひなこも泉くんもやっぱり変だ、今日のあの出来事からずっと。
この日、私は泉くんに声をかけることが出来なかった。

「お、来たな名字!」

部活が終わり着替えをしてすぐに家を出た。
急いで田島くんの家に行くと、田島くんはもう家をでて素振りをしているところだった。

「今日は何回?」
「今日は100回!」

にこっと2人で笑い合い、それが合図となって田島くんは素振りを再開させる。私も田島くんの素振りを見ながら声を出さずに数え始めた。
ずっと永遠に続きそうな気がするこの素振りも、田島くんを見ているとあっという間に終わってしまう。今日もいつもと同じで、すぐに田島くんは100回をやってのけてしまった。
すごい汗、私は慌てて田島くんにタオルを手渡す。

「お、サンキュー、すっげ汗かいたー!」
「うん、あ、田島くん!空!空見てみてっ」

はしゃぐ私を不思議そうに見ながら、田島くんはゆっくりと空を見上げる。真っ暗な闇が広がる空に、いくつもの星がキラキラと輝いていた。それを目にした田島くんはさっきの私と同じくマジすっげーきれー!!と興奮しながら叫んだ。

「明日は快晴だな!」
「うん!あ、田島くん、あの、桐青の試合の最後、私すごい感動したよ!」
「ああ、シンカー打ったときのやつ?あれは気持ちかったー!」
「うん!私も見ててすごいドキドキした!田島くん、やっぱりすごいね!」

浜田くんも感動して泣いてたよと言った直後、さっきまで笑顔だった田島くんの表情がかすかに曇ったのを感じた。とっさに口を閉じ、何か傷つけるようなことを言ってしまったのかと自分の言った言葉を思い返す。
無言の時間が流れる中、最初に口を開いたのは田島くんだった。

「オレ、すごくねーよ」

その言葉は、静かな夜の空間に響き渡った。
田島くんの表情は何かを考えているような複雑なものだった。明らかに元気がない。いつもの強気な田島くんじゃない。
田島くんらしくない。

「オレ、小さいから」
「……」
「だから、点とれねえ」

田島くんの言葉はどれも淡白で、普通に聞いている分じゃ意味を理解することができない。それでも私には何となく、田島くんが言っている意味がわかった気がした。
三星学園との練習試合のときに監督が言っていた言葉と、田島くんの言葉は繋がっている。監督はあのとき、田島くんひとりじゃ点はとれないと言っていた。
田島くんは体が小さい、あの体格ではホームランは打てないのだと。
田島くんもそれを知っていたんだ、自分ひとりじゃ点をとることができないということを。
そうか、田島くんは、自分がホームランを打って点を取れてたら、もっと楽な試合が出来たんじゃないかって思ってるんだ。

「…田島くん、打てるよ、ホームラン、田島くんはこれからどんどん大きくなって、絶対ホームランたくさん打てるようになるよ!もし打てなくてもみんなが居るから、みんなで点をとってくれるから、だから諦めないでホームラン目指していこうよ!」

ただの野球部のマネージャー、それに加え野球なんて高校に入ってマネージャーになるまで名前しか知らなかった無知な私の言葉なんて、本当に軽く意味のない無責任なものばかりだ。
それでも、目の前で悲しんでいる田島くんを元気にしたい。前に私を気遣ってくれた田島くんみたいに。

鳴り響く心臓を感じつつ田島くんに目を向けると、田島くんは大きな瞳をさらに開いてじっと私を見つめていた。驚いて声も出ない、まさにそんな顔だった。
次第に田島くんの表情は驚きからまったく違う方向へ。
もう我慢出来なくなったとでも言うように、田島くんはすぐに顔を俯ける。私からは当然のように田島くんの頭しか見えない。
肩がかすかに震えている、田島くん、もしかして。

「じゃーな!」

絞りだされた擦れた声。その一言だけ私に告げ、田島くんは急いで家の中へと入っていってしまった。ずっと顔を俯け、タオルで顔を隠したままで。
田島くんがいなくなった空間で、私は何も言わずに田島くんの家をあとにした。

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