「お前、今日からオレのマトになれ」

榛名さんにそう言われたときは、何を言われているのかわからなかった。
榛名さんの見開かれた目に見下され、怖くて体が震えていて、早くその場から逃げたかった。
逃げられるはず、なかったのに。

榛名さんと出会ったのは、中学1年の秋頃だった。

「え?放課後も図書委員の仕事あるの?」
「うん、本の整理とちょっとした掃除だけ」
「ひとりで?」
「ジャンケンに負けちゃったから」
「今日だけなの?」
「ううん、一週間やって終わりみたい」
「大変だね、すぐ終わる?待ってるよ!」
「いいよいいよ、たぶん遅くなるから千代は先帰ってて!」

でも、とまだ何か言いたそうにしている千代に大丈夫と言って、手を振りながら図書室に向かった。
放課後の図書室には何人かの生徒が居て、私は早速新刊の整理を始めた。
外からは部活をやってる生徒の元気な声が聞こえてきて、私も部活やればよかったかなと思いながら窓の外を眺めていた。

「すいません、これ借りたいんですけど」
「あ、はい」

ひとりの生徒が本の貸し出しを申し出てきて、私はテキパキと作業をする。時間がたつと、図書室内からも少しずつ人がいなくなっていった。
何冊も積み重なっている新刊を一冊ずつ確認し整理していく。一段落し顔を上げると辺りはすっかり夕暮れになり、図書室内には私しかいない状態だった。

窓の外には部活を終えた生徒達の姿があった。電気をつけていない図書室内も外の景色と同じく、暗いオレンジ色に染まり始めている。
明日もあるし、そろそろ帰ろうかな。
椅子から腰を上げ帰り支度を始めたとき、ふいに図書室のドアが勢いよく開いた。
先生かな?そう思いながら顔を上げると、ドアを開けたのは見知らぬ制服姿の生徒で、走ってきたのか汗だくで息が乱れている。
違う学校の人だ、なんでここに。

「あの、なにか…?」

聞こえていないのか、私なんかより全然背の高いその男子生徒は、不機嫌そうな顔つきで図書室に入ってくるなり一冊の本を取り出し、突然ビリビリと破き始めた。

「な、何してるんですか!?やめて、下さい!」

今の状況に唖然としながらも、その男子生徒に駆け寄り無残な姿になった本を取り返す。瞬間、男子生徒はぎろりと私を睨んできた。
あまりの怖さに一歩後ずさる。どうしよう、怖い、なんでこの人いきなりこんなことを。先生を呼んできたほうがいいかもしれない、でもここは、何か言わなきゃ。

「あ、あの、勝手に、本を破かないで下さい!これは、学校のもの、なんです!」

言った、ちゃんと言えた。どくどくと鳴り響く心臓。私はすかさずもう鍵を締めるので出てくださいと言って、バックをとりに男子生徒に背中を向けた。その瞬間、バンッ!と目の前の本棚に手が置かれたのが見えた。
恐る恐る男子生徒のほうに顔を向ける。そこには冷たい視線で私を見下す姿があった。

「ムカツクな、お前」

ぴりっと空気が冷めたのを感じる。
怖い、早く、今すぐ逃げたい。

「お前、今日からオレのマトになれ」

恐怖の中、男子生徒から発せられた言葉。その言葉を私は理解できなかった。
眉をひそめていると男子生徒は私から離れて、鞄から野球ボールをひとつ取り出す。

「動くなよ」

そう言って、男子生徒は構えもせずにボールを私に向かって投げつけてきた。ボールは私のすぐ横の本棚に当たり、その衝撃で次から次へと本が落下する。
私は恐怖のあまり両腕で頭を抱えてその場にしゃがみこんだ。

「動くなっつったじゃねえか」
「…っ!」

強い衝撃が私を襲う。
足が痛い、足にボールがあたったんだ、痛い、誰か助けて。
男子生徒が私に向かって投げるのをやめたのは10球くらい投げてからだった。
無言のまま図書室から立ち去り、私は本が散らばる中、ひとりで泣いた。

翌日。私はアザが出来てしまった足や腕に包帯を巻き、学校に行った。

「サヤ!?その包帯どうしたの!?」
「な、なんでもないよ」
「うそ!なんでもないはずないよ!」
「ほ、ほんと、だよ」

千代に昨日あったことを話そうとはしなかった。千代は何度もアザの原因を聞こうとしてたけど、私は何とか誤魔化していた。千代に知られたくはなかった。

「よお」

その日も部活が終わる時間になると、あの男子生徒が現れた。彼が来る前に帰ろうとしていたところだったのに。
昨日と同じく冷たい視線で私を見下す彼は、すっと野球ボールを取り出した。

「そこに立て、動いたら昨日より強くてめえに当てるからな」

私は震える足でなんとか立ち上がり、ずっと前の方に居る彼に視線を送る。彼が投げる球が私に向かってくるたび怖くて怖くて、避けようとすればするほどボールは体に当たっていた。
恐怖から流れる涙、その涙でかすれて前方から飛んでくるボールが見えない。なんでこの人はこんなことを、早く帰りたい。

この男子生徒は一日5球は必ず私の体に当てていた。前のアザの場所と同じ場所に当たったときは痛くて痛くて声も出なかった。
そんな私を見ても彼は何も言わず、興味なさそうな顔をしていた。
次第に私は学校や家で何も話さなくなった。増えていくアザ、家族や先生、友達や千代もみんな私を心配していた。
何度も何度もこのアザはどうしたのと同じことを聞かれるたび、私は適当なことを言ってごまかしていた。あの人のことを言えば助かるのに、私自身、なんで言わないのかわからなかった。

ジャンケンで負けた放課後の図書委員の最終日、今日ですべてが終わる。もうあの人に会わなくていいんだ。そう思うと嬉しくて、私は少しだけ口元を緩めていた。
ガラッと図書室のドアが開く。毎日の日課のように訪れるあの人だった。いつもよりだいぶ早い時間帯に来たその人に、少し驚いていた。

「立て、動くんじゃねえぞ」

言われた通りその場に立ち、自然に流れてくる涙を拭きながら早く時間が過ぎることを祈った。
今日さえ終わればもう放課後ここに来なくてもいいんだ。今日さえ頑張れば、やっと開放される。
15球ほど投げ、彼はいつものように無言で図書室から出て行こうとする。
安心して俯くと、ふいにドアの方から声が聞こえてきた。

「明日も来い、オレが来なくていいって言うまで来いよ」
「…え、」

そんな、なんで、いやだ!
体中が痛くて痛くて反論の声さえ出なかった。彼はそのまま図書室から出て行ってしまう。今日でもう終わりだと思ったのに、なんで。
もうどうしていいか、私にはわからなかった。

それからも私は放課後、図書室に行き続けた。無視すればいいのに、逃げればいいのに、みんなに言えばいいのに、全部できなかった。
ただただ怖くて、この人から逃げられないとそればかり考えていて、一日一日が終わるだけですごく安心できた。
彼と出会ってから二週間が経過していた。いつものように放課後の図書室で彼の投球が終わり、私はひとりその場に崩れ、痛さと恐怖で泣いていた。
いつもなら無言ですぐに帰る彼。なのに今日は私のすぐそばまで近寄り、ゆっくりと目の前に膝をついた。震える体を必死におさえ、恐る恐る顔を上げてみる。

「お前、名字サヤって名前だろ」

突然のことに頷くことしか出来なかった。
なんでこの人が私の名前を。

「オレ、榛名元希っつーから、覚えとけ」

そう言って彼は無表情のまま去って行った。初めて彼の名前を知った、榛名さん。
なぜだかその名前を忘れられなかった。

それから何日かして、放課後に野球の練習をこっそりと見に行った。友達から聞いたことがある、怖いけどかっこいい人がシニアにいるって。
そのとき初めて見た、ユニフォーム姿で野球をしている榛名さんを。そうか、榛名さんはシニアにいたんだ。だから毎日ここに。でもその光景は見たくなかった光景だった。
小さい黒髪のキャッチャー相手にガンガン野球ボールを投げる榛名さん。
キャッチャーの人はそれが捕れずに体に当たり、体には無数のアザが存在していた。

「お前、今日練習見にきてただろ」

いつものように放課後の部活が終わった時間帯に、榛名さんは図書室にきてボールを手に持ちながら私に話を振ってきた。
図星だった私は何も言えずにただ俯く。

「なあ、オレもう飽きた」

榛名さんの言葉に顔を勢いよく上げた。どれほど待ちわびた言葉だっただろうか。その喜びは一瞬で消え去り、前方から投げられたボールが私の頬に思い切り当たった。
顔に当たったのはこれが初めてで、じんじんと熱を持つ頬を押さえ、あふれでる涙を堪えながら背後にあった本棚に体を預けた。

「だからいい加減、解放してくれよ」

靴音が近づいてくる。頬を押さえながら顔を上げると、目の前にはいつもより不機嫌そうな視線で私を見下ろす榛名さんの姿が。
恐怖のあまり声を出すことができない私は、ただただ涙を流していた。

「早く行け、誰でもいいから早く助け呼びに行けよ、今までのは全部榛名にやられてたんだって、全部オレが悪いんだって!さっさと行け!!」

この時初めて、榛名さんが表情を出した。
出会った当初から無表情だった榛名さん。そんな榛名さんが今はすごく怒っていて、私を睨んでいる。

「お前いつまでこのこと黙ってるつもりなんだよ!なんで誰にも言わねえんだ!!オレはもう何もしたくねえのに!野球なんかもう、したく、ねえのに」

こんなオレに、野球、続けろって、言うのかよ。
榛名さんは顔を俯け黙ってしまった。私から榛名さんの表情は見えない。
私はどうすれば、でも榛名さんは今まで私にひどいことを、でも、今目の前にいる榛名さんは、泣いてる。

「…サヤ」

榛名さんは顔を上げないまま、私の頭に手を置き軽く撫でた。その手を退けると榛名さんは図書室のドアまで歩いて行き、ドアを閉める瞬間少しだけ後ろを振り返った。

「じゃーな」

バタンと閉められたドア。図書室には静けさしか残っていない。
それから榛名さんが、放課後の図書室に来ることはなくなった。

卒業式。他校の生徒だけど、なんとなく榛名さんがいつもの図書室に来てるんじゃないかと思って、図書室に行ってみた。
図書室には当然のごとく誰も居なくて、外から卒業生や在校生達の声が聞こえてきていた。
榛名さん。
窓際に何かある。近寄ってみるとそれは野球ボールで、ひとつだけ不自然に置かれていた。これはたぶん榛名さんが置いたんだ、根拠はないけど、そう思う。

私はそのボールを今でも持っている。怖い榛名さんの記憶を呼び起こす元になるボールなのに。
このときから私は心のどこかで、榛名さんに野球を続けて欲しいと思っていたのかもしれない。

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