06

背後から伸びてきた大きな手が私の顎を掴む。そのまま顔の向きを強引に後ろに向けられ、視界いっぱいに見えたのは口角を上げている可楽の顔。重ねられた唇は相変わらず乱暴なものだった。

「…可楽、痛いよ」
「カカカッ!この程度でなにを言う、情けないぞ八重子」
「……」
「なんじゃ、もうしまいか?もっと儂を楽しませてみろ」

可楽は私が嫌がるように何度も口を寄せてくるが、私がなにも言わずにいるとつまらなそうに私から離れていった。どうやら可楽は私の嫌がる姿を見るのが好きらしい。一年も一緒にいたのにそんなことにも気づかなかった。
最近、半天狗の分裂体は太陽のある昼の時間帯にもたまに現れるようになった。彼らと過ごす時間が多くなればなるほど、彼らの知らなかった一面が見えてくる。それは不思議と私の心を穏やかにした。

破けた着物を縫っていると、私の隣に座りなおした可楽がじっと私の手元を見つめてくる。その顔がいつもの意地の悪そうなものとは違い、少しだけ幼く見えた。

「八重子、そんなものをまた着るより新しい着物を買ったほうが早かろう」
「お金がかかるでしょ」
「儂が持ってきてやろうか?」
「盗んできたものなんか着ないよ」
「強情なやつじゃ、どれ、かしてみろ」
「可楽、縫い物できるの?」
「カカカッ、こんなもの造作もない」

私の手から着物を奪い取ると見よう見まねで縫い始める可楽。その指先は不器用という言葉では言い表せないほど雑なものだった。縫っているはずなのに余計に破いているかのように、着物が無残にくたびれていく。可楽もおかしいと思っているのか首を傾げながらも懸命に縫い続けている。その姿があまりに普段と違いすぎて、なぜだかかわいく見えてきてしまった。

「可楽、それじゃあ縫えないよ」

少しだけ笑って可楽の手にふれると、びくりと大げさなほど可楽の体が跳ね上がる。驚いて手を引っこめようとすると逆に掴まれてしまい、どうすることもできなくなってしまった。顔を上げると可楽がじっと私の顔を見つめてくる。もしかしたら笑ったことを怒っているのかもしれない。
可楽の顔は怒っているようにも見える。それは名前の通りいつも楽しそうに笑っている可楽の、初めて見る表情だった。怖いほどに見つめてくる可楽から逃げるように顔を背けようとすると、それを咎めるように私の手を掴む力が一層強くなった。

「あの小僧のことはまだ好きか?」

可楽の目が探るように細められる。私は質問の意味を理解するとなにも言わずに首を横に振った。この場合、彼のことは好きじゃないと意思表示することだけが正しい答えだ。私の気持ちは関係ない。それなのに可楽の厳しい視線は変わらなかった。正しい答えだったはずなのに、もしかして間違いだったのだろうか。
心臓の音が耳鳴りのように全身に鳴り響く。この異常な緊張状態の中、呼吸するのさえ苦痛だった。

私の脳裏に死がちらつく。肉食獣に捕まった小動物のように、逃げだすこともできずに殺されるのをただ待つしかないのか。一心に可楽を見つめているとふいに可楽の顔が近づき、口づけされると思った私の体が反射でこわばった。ぴたりと可楽の動きが止まる。やってしまった。今度こそ殺される。ぎゅうっと目を閉じ俯いた。私の手を掴む力が一瞬強められたかと思うと、気づいたときには可楽の腕の中にいた。こわばる私の背に人ではないものの腕がやわらかくふれる。熱い吐息が耳をかすめた。

「儂を好きになれ、八重子」

可楽のかすれた声が脳を揺さぶり私の体から自由を奪う。ぎゅうぎゅうに抱きしめてくるその腕の力強さは、まるですがりつくように必死だった。いつもの可楽とはあまりにもかけ離れた姿に困惑するも、心の奥底からは感じたことのない不思議な感情がわきあがってきていた。
息がうまくできなくて苦しい。心臓ごと抱きしめられているかのような錯覚をしてしまう。

「できたぞ八重子」

突然の声に肩を跳ねらせ辺りを見まわす。いつの間に来たのか、哀絶が私の着物を手にそばに立っていた。
差しだされた着物は破れたところがすっかり元通りになっている。いつの間に縫ったのか。

「あ、ありがとう哀絶」
「これくらいなら儂にもできる、もっと儂を頼れ、頼られないと哀しくなるだろう」
「…うん」

差しだされた着物を受け取ると、抱きついていた可楽がしぶしぶ離れていく。そばに立つ哀絶を睨み上げるその顔は、すでにいつもの可楽に戻っていた。

「邪魔をするな哀絶、せっかくの楽しい気分が台無しじゃ」
「楽しいのはお前だけだろう、八重子は嫌がっていた」
「カカカッ、どこをどう見たらそう判断できるのか、なにもわからぬ馬鹿なやつめ」
「馬鹿に馬鹿と言われるのは腑に落ちん、哀しくなる」

ふたりの言い合いは止まることなく続いた。止めようと思えばできたが私はあえて止めなかった。ひとりだけのこの家で、誰かの声を聞いていたかったのかもしれない。
彼らがいることが日常になってしまった。

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