04

彼を突き飛ばしたあの日から、彼はぱったりと姿を現さなくなった。
私はとうとうこの村でひとりになった。

「八重子!来てやったぞ!」

縁側で夜空を眺めていると、派手な羽音をさせながら空喜が空から舞い降りてきた。空喜は、半天狗の分裂体の中で一際異形な姿をしている。背中には大きな翼が生えていて、両腕と両足はまるで鳥のようなかぎ爪の形をしていた。
何も言わない私を不思議に思ったのか、空喜は腰をかがめて私の顔を覗きこんでくる。

「なんだなんだ、元気がないのう、一体どうしたというんじゃ」
「知ってるくせに」
「カカカッ!お前のことで知らぬことなどないわ、あの目障りな小僧がこなくなったのだろう?喜ばしいことだのう」

嫌味なほどに喜んでみせる空喜に私はなにも言わなかった。
これから一生、私はこの村でひとりのまま、半天狗たちとひそかに暮らしていかなければならない。村に鬼の被害が及ばないようにするためには仕方のないことだ。そう何度自分に言い聞かせても、この先の未来があまりにも暗すぎてどうしようもなく絶望した。

「八重子、お前の暗い顔は俺も見たくはない、お前の元気がでる場所に特別に連れだしてやろう」
「…どこに行くの?」
「おかしなことを言う、俺の翼は空を飛ぶためにあるものだぞ!」

私を抱きあげた空喜は、そのまま空高く飛び立っていく。突然の浮遊感に助けを求めるように空喜の首に腕を回すと、空喜は嬉しそうに私の頬に鼻先をすり寄せた。

「ああ、八重子はいい匂いじゃ…」

私の首筋に顔を埋めうっとりと熱い息を吐く空喜に、言い知れぬ恐怖を感じる。少しでも空喜から離れたかったが空中ではさすがに暴れることもできず、諦めた私は空喜の好きにさせていた。
ふと視線をさまよわせると真っ暗な闇の中、真下に森があるのがかすかに確認できる。雪が舞い散るこの美しい夜空を本当に飛んでいるのだと理解したとき、私の冷えきった心が少しだけあたたかくなった。

「…私、本当に空を飛んでるんだね」
「ああそうだ、元気がでたか八重子?」
「うん、楽しいよ」
「楽しいのなら少しくらい笑ってみせたらどうだ、能面のような顔で言われてもまったく楽しそうに見えないぞ」

空喜の言葉に絶句する。笑っていると思っていた私の表情は、少しも笑ってはいなかった。
笑い方を忘れた私の唇に、空喜のかぎ爪のような手がちょんと軽くふれる。

「八重子、なにも絶望することはない、お前には俺がいる、俺がずっとずっと八重子のそばにいてやろう」
「……」
「それにしても八重子、お前はなんていい匂いなんじゃ、可楽のやつめ、俺よりも先に味見しおって」
「…空喜?」
「俺はずっとずっと我慢していたのに、それももう限界じゃ、なあ八重子、八重子…」

ぽたりと冷たい水滴が私の頬を濡らす。恐る恐る見上げた先には、満面の笑みを浮かべる空喜の顔があった。大きく開かれた口からは、だらだらとよだれが絶え間なく垂れ続けている。見開かれた目は血走り、ただ私のみを映していた。空喜の眼球に映りこむ私の表情が恐怖で引きつっている。明らかに普段の空喜ではない。
正気を失くした空喜からとっさに体を離すと、空喜の体も傾きそのまま重力に従うように落下していく。感じたことのない奇妙な感覚に、吐きそうになるのを必死に耐え続けた。

地面に落ちる直前にふわりと羽ばたいた空喜は、やわらかな雪の上に私を押し倒す。慣れない空中での極度の緊張から私の体は脱力しきっていた。覆いかぶさってくる空喜を突き離すことさえできない。
ぼやけた視界に、歓喜に満ちあふれた空喜の顔が映りこんだ。

「八重子、俺はずっとお前を喰ってみたかった」

ぼたり。空喜のよだれが私の顔に滴り落ちると同時に、首筋に激痛が走った。喉が張り裂けそうなほどの絶叫は空喜に届くことはなく、むなしく夜空に吸いこまれていく。空喜がぎちぎちと私の肉に歯を食いこませるたびに、ひどい痛みが全身を駆け巡った。
ここで私を喰い殺すのなら、約束は一体どうなるの。犠牲を払ってまで守っていたあの約束は、一体なんだったの。あまりの悔しさに涙をにじませる私に気づいたのか、空喜はゆっくりと私の首筋から牙を引き抜いていく。顔を上げた空喜は、私の血でまみれた自分の口をべろりと舐め上げた。

「愛するお前を喰い殺すはずがないだろう、少しだけ、血を少しだけ舐めるだけじゃ、なあ八重子…」

うっとりと甘い瞳で私を見つめる空喜は、再度私の首筋に顔を埋めていく。ぼんやりと薄れゆく意識の中、雪の冷たさだけが私の救いだった。

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