03

「八重子、八重子や」
「はい、半天狗様」

私の膝にすがりつく野ねずみほどしかない小さな半天狗の本体を、安心させるように優しく両手で包みこむ。
この日の夜は半天狗の本体と、分裂体のひとりである積怒が来ていた。

「八重子よ、儂をいぢめないと約束したことを覚えているか?」
「はい、もちろんです」
「ではなぜ、あの人間の小僧に言わぬのだ?」

なにを?などと、とぼけられないほど重い空気だった。彼にまだ断りをいれていないことがばれている。
息をのむ私の横顔に、積怒の鋭い視線が向けられた。

「あの小僧の嫁になるつもりなのか、儂から離れるというのか、約束を破るのだな、八重子も儂をいぢめるのだな、儂を、いぢめるのだな」
「い、いいえ、約束は破りません、私は一生半天狗様のそばにいます、決して離れません、決して」
「おお八重子よ、お前は出会ったときから変わらず慈悲深い娘じゃ、お前は儂のものだ、誰にもくれてやるものか」
「はい、私は半天狗様のものです」
「おおお、儂のいとしい、いとしい八重子…」

がたがたと体を震わせる小さな半天狗は、どう見てもただのか弱い老人にしか見えない。それは、鬼は荒くれものばかりだと言われ続けてきた私にとって衝撃の事実だった。半天狗は上弦という鬼の中でも一際強い部類に入るということを、積怒から聞いたことがある。強くなればなるほど、ただの荒くれものではなくなるのかもしれない。現に目の前の半天狗は、上弦だというのにこんなにも臆病だ。常にひどく怯えている。
私のような小娘に慈悲を求めてすがりつくこの哀れな鬼を、どうしても嫌いになることができなかった。





「なにを考えている」

翌朝、突然部屋の奥から聞こえてきた声に、食べていたご飯を吹きだしそうになった。見ると、なぜか部屋の隅に積怒が立っている。太陽があるうちに姿を現すのは初めてのことだった。
いつもなら私が眠ったあと、日が昇る前に半天狗の本体と混ざりとっくに帰っているはずなのに。部屋の中を見渡すが半天狗の本体はどこにもいない。積怒だけが残ったのだろうか。一体なんのために。

「…おはよう積怒、日にあたらないように気をつけてね」
「話をそらすな、相も変わらず腹立たしい人間め」
「彼にはちゃんと断りに行くよ」
「日が沈む前までには済ませておけ」
「わかってる」
「本当にわかっているのか、可楽に言っていたことは嘘なのではないか」

疑いの眼差しを向けてくる積怒に負けじと強い視線を返す。
普段、分裂体の彼らは本体の半天狗と混ざりあっている。そのため、可楽となにを話したかなどすべて積怒には筒抜けのはず。可楽にあれほど約束は破らないと言ったことも知っているはずなのに、まだ嘘だと疑うのか。

「…信じてよ、約束は破らないって可楽に言ったこと積怒にも伝わってるでしょ」
「ならば二度とあの小僧のことなど考えぬことだ」
「わかってる」

従順に返事をしたが、胸の内には隠しきれない苛立ちがつのっていた。
約束は破らないとさんざん言っているにもかかわらず、こう何度も疑われては私だって多少不満は溜まる。臆病で疑り深い。半天狗の愛がこれほどまでに重いものだとは思わなかった。

「八重子」

耳元でささやかれたその声は、不気味なほど甘美なものだった。ぞくりと全身に悪寒が走る。いつの間に私の背後に回ったのか。あまりに近すぎるその距離は、少しの挙動も許してはくれない。
後ろから伸びてきた長い指先が、私の唇の上をゆるやかにうごめいていく。

「あの小僧に言いに行け、今すぐにだ」





家から出てきた彼の前に姿を現すと、彼は飛び上がるほど驚いていた。

「ど、どうしたんだ八重子、こんな朝早くに」
「…この前の返事をしようと思って」

彼の表情が真剣なものになる。私はあらかじめ用意されていた言葉を、淡々と口にした。

「ごめんなさい、あなたと一緒になることはできません」

私の言葉に、彼の表情は悲しみに塗りつぶされるように歪んでいく。彼の本気が垣間見え、心臓がじくりと痛んだ。それでも、彼の気持ちに答えることは絶対にできない。

「…俺の親父が鬼に喰い殺されたのは知ってるよな?」
「うん…」
「俺は、大切な人がいなくなるということがどれほど辛いことか、よく知ってる、だから八重子、両親を亡くしたお前の気持ちも痛いほどわかるんだ」
「……」
「一緒に支えあって生きていかないか、俺がお前の心の支えになれるよう頑張るから、だから、」

あまりにもまっすぐすぎる想いから逃げるように俯くと強い力で引き寄せられ、気がついたときには彼の腕の中で抱きしめられていた。可楽とは感触が違う。ぼんやりとした私の思考は、突如吹き荒れた風によって強制的に覚醒する。生い茂る木々の間から、こちらを鋭く睨みつけている積怒の姿が見えた。

思いっきり突き飛ばした彼の体は、地面に打ちつけられるように倒れこんだ。予想もしなかった私の行動に、彼は驚愕のあまり目を見開いて私を見ている。その顔がみるみるうちに傷ついた表情へと変わるのが見ていられなくて、私は逃げるように走りだした。
彼を傷つけただけじゃなく、唯一の友達さえも失ってしまったことだけはわかった。

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