少なからず、浮かれていた部分はあった。

高校を卒業して家を出て、大学に進学して念願の一人暮らしをしながら私は人生初めてのアルバイトを始めた。
私の高校はアルバイトが禁止だったから、当時他校の友達がバイトを始めてそこで彼氏を作ったり、可愛い制服着て働いてるのを私は羨望の眼差しで見ていた。正直とても憧れていたのだ、アルバイトという行為に。
だから大学生になったら絶対おしゃれなカフェでバイトするんだ!と思っていて、無事大学生になり張り切ってバイト探しをしたわけだけど、まぁ人生そう上手くはいかないもので結局働くことになったのは小洒落た駅前の居酒屋だった。第一希望とは違うけれど制服は可愛いし、時給も悪くないし、何よりバイトという未知の世界が私を浮かれさせていた。
その時の私は、憧れを拗らせ過ぎて途方も無い夢を見ていたんだと思う。

入学して少し落ち着いてから、と思ったのがそもそもの間違いで、まだ働き始めて日の浅いこのゴールデンウィークにがっつりシフトを組んでしまった私は長い連休中ひたすら労働に励むことになった。そういえば面接のとき店長にゴールデンウィークは出れますか?ってしつこい程聞かれたのはこのせいかと今更気付く。
私は飲食店の休日の忙しさを舐めていたみたいだ。
自分が何を今しているのか、しないといけないのか分からなくなるくらいに忙殺される。新人故の無知、教えを乞おうにも中々他のスタッフは捕まらない。とりあえずやれることだけはきっちりやろうと笑顔を振りまきながら目まぐるしく動き回っている私に、更なる試練が降りかかる。

厄介なお客様が現れたのだ。

こんな小洒落た居酒屋にまさか漫画やドラマで見るような酔っ払いが来るなんて、というのは言い訳に過ぎないかもしれない。けど他のスタッフを見る限り、これは恐らくイレギュラーな出来事だったんだろう、どう対応していいものかと困惑している中、たまたま目が合ってしまった私がそのお客様に捕まった。
お酒を飲んで気が大きくなったサラリーマンのおじさんは、会社からの急な呼び出しで、しかも大型連休のど真ん中であるこの日に休日出勤するハメになった、と大声で叫んでいて、そういうお店ではないとわかっているのかいないのか、あろうことか私にお酒を勧めてきた。未成年なので、と断りを入れても返ってくる返答は「オレの酒が飲めないのか、オレは客だぞ」
どうしようもなくて助けを求めフロアを見渡すけれど、忙しさでそれどころではないフロアスタッフは見て見ぬフリ。一番使えないあなたが生贄になって、って言われてるみたいで泣きたくなった。
長らく憧れて、どうしてもしたかったアルバイトなはずなのに、思い描いてきたもの全てが崩れ落ちる。
これが理想と現実の差?
絶望を胸に、張り付いた笑みを浮かべながら私はそのお客様の対応をし続けることしか出来なかった。

散々怒鳴り散らして満足したのか、やっとお客様から解放された頃にはもう上がる時間直前になっていて、私はキリもいいし今日はもう帰っていいよとのお達しを受けた。
ふらふらと電気も付けずにスタッフルームに入って着替えを済ます。制服を脱いでしまえば、私に残るのは疲労感とお酒とタバコの匂いがする身体だけ。

───辞めたい

思ってはいけない単語が頭をよぎる。
これくらいで辞めたいだなんて、甘ったれにもほどがある。わかっていても、私の存在を無かったことにして側を通り過ぎていく他のスタッフの姿が忘れられない。
必要な犠牲だったんだろう、それが今日たまたま私だっただけ。頭では理解している。だけど本当にショックで、息が出来なくなりそうだった。
今日はどこにも寄らずに真っ直ぐ帰ろう。早くお風呂に入って寝て忘れよう。
そう思うのにダメージを引きずる心がここから動こうとしなくて、私は閉じたロッカーの前でただ立ち尽くしていた。

「お先一番もらいまー...ッア゛!?
 何ィ!?電気くらい付けろビビんだろォ!」

私がそこで固まっていると、一人のスタッフがまかない片手にスタッフルームの扉を開けた。ぼんやりと足元の非常灯だけが光る暗い部屋に女が佇んでいれば、そりゃびっくりもするよね。落ち込んでいたとはいえ、なんか申し訳ないことをしてしまった。

「すみません...」
「あァ、こないだ入った新人チャンか
 電気のスイッチの場所知らねーの?」
「いえ、そういうわけじゃ...」

電気が付いて部屋がすっかり明るくなった。
じゃあ何で、と言わんばかりに顔を顰めたその人は確かキッチンの何とかさん、怖い顔してるけど仕事は早いって店長が言ってたっけ。確かに私を見ている目が怖い。
会話を続けることも目を見ることも出来なくて私は俯いたまま、狭い空間に二人きり。壁の向こう側から聞こえるお客様の楽しそうな声がやたら耳につく。
気まずい。帰ろう、早く。
肩に掛けたショルダーバッグの紐を握りしめ、重い足を持ち上げて出口に向かい一歩前進すると、机の上にお皿を置いたその人が口を開いた。

「...もしかしてさっきのホールの騒ぎ、オメー?」
「あ...はい...」
「ナルホドねェ...そりゃ災難だったなァ。ン、」
「え、」

お皿の上に乗っていたおにぎりの一つが私の前に差し出される。予想もしてなかった出来事にフリーズする私をよそに、彼はもう片方の手でもう一つおにぎりを掴むと、立ったままそれに食らいつく。

「腹が減ってっから落ち込むンだ食えヨ、オラッ」
「あ、う、え、んぐっ!」
「ウメーから食え、まかない用焼きおにぎり
 メニューにも載ってねェ、オレ特製」

ぱっくり開いてた私の口にねじ込まれるおにぎり。
何これ、新手のいじめ?
怖い、苦しい、おにぎり、焼きおにぎり?
勢いで咀嚼すると口の中に香ばしさとお米の甘みが広がっていく。鼻に抜ける醤油と出汁の香り、外はカリッと中はほっくりとしたそれは彼が特製というのも納得の、私がこれまで食べた中で一番おいしい焼きおにぎりだった。

「おいひぃ...」
「だろォ?
 ウマいモン食って、さっさと寝て忘れちまえ」
「...ありがとうございます」
「ン、食ったらさっさと帰れヨ」

そう言うと横にあったパイプ椅子にどっかりと腰掛けて、彼は大きな口にどんどんお皿の上のまかないを放り込んでいった。
飢えた獣みたいな荒々しい食事風景を眺めながら、私も貰った焼きおにぎりにかぶりつく。
───やっぱり、おいしい。
これは彼なりの慰めだったのかもしれないと、私は最後の一口を飲み込みながら思った。新手のいじめなんて思ってごめんなさい、少し元気になれた気がします。えと、何さん...だっけ...?

「あのっ!」
「ア?」
「お名前を伺ってもいいですか」
「アー、荒北ァ」
「荒北、さん...
 私白崎千歳といいます、よろしくお願いします」
「おー、ヨロシクネ白崎チャン。気ィ付けて帰れヨ」
「はいっ、お先に失礼します」
「おつかれェ」

ひたすら食を貪りながら話す荒北さんは、私と目も合わせないし愛想も無い。だけど不思議なことに最初に感じた威圧感とか恐怖感とかは、もう私の中から消えていた。
ドアノブに手をかけてちらりと後ろを振り返る。やっぱり荒北さんとは目は合わなかったけど、代わりに彼の左手が宙をひらひらと舞っていた。
それがなんだか嬉しいと、思ってしまっているのは何でだろう。荒北さん...荒北何さんって言うんだろうか?
次に会った時、聞いたら答えてくれるかな。



gastropub / 2018.05.08

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