「竜ヶ峰帝人ってご存知ですか?」

青葉に向かってそう尋ねてきたのはリストカット跡が目立つ少女だった。薄暗い路地裏にいると稀に面白いことに遭遇するなぁと、自殺しようとする人間があの人にいったい何の用事だと胡散臭い笑みを浮かべる。以前、こういった笑みを浮かべた時に「君は臨也さんにだんだん似てきたね」と言われて、不服な気持ちになったことを思い出した。良く折原臨也と比較されることがあるが、嫌だから止めてくれと伝えてもそれを面白そうに誤魔化すだけだった。

「学校の先輩ですよ。けど、去年卒業したんですよ」

おおかた、来良という情報だけを入手して遠路遥々やってきたのだろう。さも、名前だけ知っているというように返事をすると、少女は虚ろな目で青葉を観察すると「そう」とだけ零して踵を返した。
あ――あ、このまま、車道に飛び出して死ぬ勇気と面白みくらいあれば、あの人に会わせても退屈しないだろうから褒められるのになぁと、期待外れの少女に対して溜息を洩らした。
今日はここで待っていても収穫はないだろうと、路地裏の細い隙間から曇天を見上げる。真冬の寒空は雪が降りそうなほど濁っていたが、いつもの池袋だとマフラーに顔を埋めた。





「帝人先輩いますか?」

東京の癖に不用心な襤褸アパートの扉を叩く。いまだに階段は軋むし、始発の音で目が覚める畳だけがあり隙間風がびゅうびゅうと入り込んでくる部屋に竜ヶ峰帝人は住んでいた。
ノックをするが返事はなく、目を細めてまた寝ているのか――と溜息を吐き出し、ポケットの中から合鍵を取り出した。そういえば、これを貰ったときは柄にもなく天にも昇るような気分だった。彼は紀田正臣にも、園原杏里にも折原臨也にだってこの鍵を渡していなかったのだから。カップラーメンを侘しく啜る先輩から「これあげる」と手のひらの上に落とされた時は喜びを隠すので必死だった。隠していたら少しバレて、気まずそうに口角をあげると見破られた。「年相応の顔をしている時が一番可愛いね」だった。今でも一文字も忘れず青葉の脳内に記憶している。珍しく、頭を撫でて褒めてくれた。褒めるときは頓珍漢だからストレートに「可愛いね」なぁんて言葉をさらりと吐き出してくれるのだが、文章にしてほめてくれるのが珍しいし自分だけ与えられたものだと思うと胸が疼いた。
まぁ、その結果がこうして寝ているあの人を起こすことに使われるようになるなんて、思ってもみなかったけどさぁと、青葉は鍵穴をがちゃりを回した。

電気は夕暮れ時だというのについていない。部屋の中は風を凌げるだけマシだがコートを脱げるほど暖かくない。靴を脱ぎ捨て、廊下ともいえない廊下をあるくと、煎餅布団で帝人が涎を垂れながら寝ていた。枕の前にはパソコンがあるので、大方、株の動きを今朝方まで監視する用に眺めながら遊んでいたのだろう。

「先輩、起きて下さい」

肩を揺すってみるが帝人は起きる気配がない。寝つきは早い方だと言っていたが、寝起きは最悪に悪い。用事が入っている時などは起きてくるが、優先順位が低い用事だと起きようともしない。今日は、池袋の様子を青鮫の連中と一緒に見て回るっていう遊びでもしようか――なんて提案してきたのはこの人なのに。やる気もなく寝ている様子を見ると、青鮫連中へ「先にご飯とか食べていてもいいよ」とメールしておいたのはやはり正解だった。


「キスしますよ――」

耳元で呟くが、慌てて飛び退くという古典的少女漫画な反応は見せてくれない。耳朶に息を吹きかけても起きないので、本当に不用心だとキスしてしまおうと顔を近付けると、やはり眼があいた。

「駄目」
「酷いですね。やっぱり起きてたんじゃないですか」
「意識はあっても布団の中からでたくなかったんだ。寒いから」
「寒いってあんた――」

ストーブくらい買いましょうよ――と言いかけて、そうしたら本当にこの人は家の中で過ごすのが大好きな人になりそうで、自分が誘っても「楽しそうだ」と興味を引かれなければ出てきてくれない気がしたので、口を閉ざした。別に引きこもっているのが好きな人というわけではないが、彼が愛してやまない非日常というなの異質な存在がなければ特別、外に出る意味も見いだせないという人ではあるのだ。

「着替えます?」
「一応。コートは着るから、そこにあるのとって」
「はいはい、わかりました」

コートを着ることを着替えるとは言わないのだが。布団の中から出てきた彼は大学から帰宅してそのまま布団へ飛び込んだのとよく判る恰好をしていた。高校在学中に色々とやらかして後悔出来ることとか、思春期の暴走とかで片付けられない行為を散々しでかした帝人だが、ちゃっかり大学には現役合格していた。今は大学生で警察のお世話にもなっていない。ヤクザのお世話になったことは何回かあるが。
大学ではごく普通の生徒として過ごしているようだが、路地裏の少女のように彼を求めて彷徨う人間もいないわけではないので、嫌なところで知名度をあげているようだ。最近は株にはまっていてまるでゲームをするかのように株をしている。彼らしい趣味だと青葉は帝人が株をしている様子を見ながらいつもそう思っていた。

「はい、先輩。コートです」

コートを渡すと帝人は青葉が伸ばしてきた手をとった。ぎゅっと自分の方へと引き寄せると、傷痕を舌で舐める。
いきなりの素っ頓狂な行動に動揺してしまうが、この人がこんなことをするのは今さらだろう! と言い聞かせ、帝人の眼を見つめた。へらりと柔和な笑顔を向けられる。腹立たしいことこの上ないが。まるで気にしていないのだろう。

「君って本当に僕のこと好きだよね」
「悪いですか」
「悪くないよ。可愛いなって」
「そうですか。だったら早くこの手を離して下さい」

何を考えているんだと睨みつけたが、するりと交わされむしろ引き寄せられる。帝人の貧弱な力をよけることなど青葉にとって容易いことだったが、どうしても引き寄せられる腕に逆らえた試しがない。帝人の視線、指の動き、筋肉のきしみ、息遣い、すべてが青葉に対して逆らうのを止めろと言ってくる。


「ねぇ青葉くん」

名前だけを呟いてキスを唇にされた。
あ、誘っているのに直接「セックスがしたい」とはこの人は言わないんだ。ズルいと眉を顰め、もう何回も使い古されたやり方だけど、逆らうことなく、言葉に引き寄せられて、口に入る舌をにゅるりと追及する。
しょうがない、今日の集まりはもうなしだ。おそらく、セックスがしたいというよりは、外に寒いのに出たくないという欲望が勝ったのだろう。その中に自分に対しての愛情が僅かでも交じっているのなら、いくらでもこの人の従うのは悪くないと熱を求めた。


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