大学生



大学に入ったばかりの兄ちゃんが寂しそうだった。背中が語っている。兄ちゃんは感情がすぐに表に出てしまうので、とびおと離れて寂しいのだと私は気付いた。
とびおと兄ちゃんは違う大学へ進学した。兄ちゃんは地元の実家から通える大学で、とびおは、とびおが所属する実業団がある東京の大学だった。
とびおも兄ちゃんもプロの実業団からお誘いが来て違うチーム、今度は敵として一緒にいた。私がお母さんに連れられて見に行った様々な試合で繰り出された、ヘンテコな速攻のトスを兄ちゃんの手のひらが叩くことも、とびおの手で放たれることもないのかと思うと私はちょっぴり寂しかった。
けど、二人が選んだ道を後悔していないことくらい知っていた。





あれは、とびおと兄ちゃんが高校を卒業する直前の出来事だ。春高が終わり、とびおが私の家に遊びに来た。突然、兄ちゃんに会いたくなったそうだ。とびおも中々、可愛い所がある。
うんうん、私は気付かないふりをしていてあげたけど、とびおを可愛くしてしまったのは、兄ちゃんなのだ。明日か明後日の卒業式を終えたら、そのまま東京へ旅立ってしまうとびおが、会いたいと寂しくなって、自転車を漕いで山を乗り越え、兄ちゃんの元に会いに走るほど。とびおは兄ちゃんのことを愛しているのだ。こういう恋愛、とても良いな、と私は幼いながらに思った。
普段のとびおから感じられる意地とか大きなプライドをすべて投げ出して。無かったことにして、ぐんぐん走るのだ。とびおが素直になれたのは、兄ちゃんのことを愛しているからだし、兄ちゃんがとびおのことを抑制するのではなく、包み込むように愛しているのが良く判る。
だって、相手の用事も考えずに会いに来るなんて最大限の甘えだと思うから。
息を切らして「日向――じゃなくて、翔陽いるか」と尋ねてきたときに、庭掃除をしていた私の口から「いないよ」と語られた時の、落胆したとびおの顔を写真に収めて、兄ちゃんに見せてやりたかった。それくらい、可愛かったよ。

兄ちゃんはお母さんにお使いを頼まれ街へ降りている最中だったので、兄ちゃんを待つ間、私はとびおとお喋りをした。とびおは相変わらず話すのがへたくそだったけど、以前より、ずっと上手くなったようだ。私に慣れたというのもあるんだろうけど。
肌寒くなってきたので、庭掃除を終えた私はとびおを家の中まで案内した。未だに仕舞われていない炬燵の電源をつけて、入っていてと指示をだす。台所からオレンジジュースを取り出して、とびおのコップに注ぐ。もう、零すことはなく、炬燵の中で温まるとびおに差し出した。

「どうも」
「別にいいよ!」

とびおは素直にコップを受け取って、オレンジジュースを飲んだ。ごくごくと液体が嚥下す。
私はとびおの腕の中に潜り込んだ。もう小学校高学年だけど、身長は残念なほど伸びず、兄ちゃんといい小さいのは遺伝なのだから、諦めるしかない。この小さいサイズがとびおとの円滑なコミュニケーションを築いているなら、それで良しとしよう。
帰宅した兄がこの光景をみると、嫉妬するだろうか。それは、それで見ものである。白い歯を見せながら影で嫉妬する兄ちゃんを楽しめばよいのだ。
潜り込んだとびおの腕の中はあたたかくて、先ほどまで走ってきた人の体温だった。私も自分が汲んできたオレンジジュースを飲む。

「とびおは遠くへ行くんだよね!」
「ま、まあな」
「兄ちゃんとは違う学校なんでしょう」
「ああ、そうだな」
「へぇ」
「なにがへぇだよ」
「一緒じゃないんだなぁって思って」

二人はずっと一緒だと思ってたの! と吐き出すと、とびおの顔は真っ赤に染まった。兄ちゃんが視たら倒れそうなくらい、真っ赤に。だって、兄ちゃんはとびおのトスを打つ時の顔が一番、きらきらしていて、堪らないのだ。バレーをやれなかった兄ちゃんの鬱憤もコンプレックスも全部、吹き飛ばすトスがとびおのトスには詰まっていて、活き活きしている。とびおも、兄ちゃんがいなければ未だに円滑なコミュニケーションを取れない所があったから、てっきり二人は依存するように生きていくのだと思い込んでいた所があった。

「一緒じゃできないことがあんだよ」
「そうなんだ!」
「お、おう……」

出来ないことがある。それは幼い私には想像できない言葉だったが、大きくなった今なら、とびおと兄ちゃんがしたかったことが、うっすら理解出来る。彼らは仲間であり、最大の好敵手なのだ。二人の関係性は依存などではなく、お互いが自分の足で立つ事が出来るのを前提とした、包み込むような温かさをもったものだった。弱った時には肩を貸してやるよ、お前の声を聞いてやるよ、といったものだ。
当時の私には難しすぎる言葉だったけど、二人の関係性を雰囲気で察していた私は、大きく首を振って「なら良かったね!」と叫んだのだった。

だから、二人が離れ離れになってしまうのは寂しい事なのだが、お互いに納得がいく最善の道を選んだのだという事を私は知っていた。誰かに流されるのではなく、お互いに確固たる意志を持って、誰かと付き合っているのはとても良いことだ。まぁ、二人とも頑固者だっていうのが大きいんだろうけど。








私は中学一年生になった。
とびおと兄ちゃんは大学二年生になった。とびおはテレビで見るくらい有名な選手になった。兄ちゃんは頑張っているが、日本代表でレギュラーではないので、テレビで見る日は少ない。私はテレビの中で活躍するとびおを見る度に、この人って実はすごい人だったんだなぁということを煎餅を齧りながら思うのだけど。
そうそう、バレーと言えば私もバレーをはじめた。中学校は全員部活に入ることが義務付けられているし、兄ちゃんととびおのプレーを見ているうちに私もバレーボールをやってみたくなったのだ。入部届を持って行ったときは、身長を見られて鼻で笑われたが諦めてなるものか! と闘志を燃やしている真っ最中だ。諦めの悪さだけは、兄ちゃんに並んでしつこいと自覚がある。
庭で自主練習に励んでいた時だ。落日をすっかり迎え、ボールが夜空と重なって見えなくなってきたので、そろそろ家の中に戻ろうとしたとき、久しぶりにとびおが私の家に訪れた。中学校のジャージを着ている私を見て「お前、中学生になったのか」と心底、驚いているとびおへ飛び蹴りを食らわした。とびおが、信じられない、という目をしていたことなど直ぐに察することが出来た。いつまで人を小学校低学年だと思っているのだ。失礼な。

「あ、とびお! 兄ちゃんまだ帰ってこないし暇でしょ! 練習の相手してよ」
「アイツまだ帰ってきてねぇのかよ」
「夕ご飯の時間過ぎたら帰ってくるよ! いいでしょう」

せっかく暇な人が居るのだからトスでも上げて貰おうと、とびおを誘った。縁側の電気を全開にすればボールはもう少し見える。
とびおはしょうがないな、と言いつつバレー馬鹿なので、楽しそうに口角をあげた。とびおが上げるトスは優しかった。ふわり、とオムライスをひっくり返すみたいに。トスが上がった。打っていく間に私の打点が徐々に上がっていくのが判った。フォームはこうした方がいい! とか、とびおは途中で真剣に怒鳴ってきた。煩いなぁ! と思いながらも、とびおの適確なアドバイスを耳にして、身体に覚えて、私はどんどん上達していったと思う。今日、教えて貰ったことを忘れずにやっていると、きっと上手くなる。いいや、絶対、上手くなってみせる。

「そろそろ、止めるか」
「あ、そうだね。さすがに限界だね」

日は落ち切ってしまった。お母さんがとびおと一緒に夕飯を食べるわよ――という声を発する。私はバレーボールを持って、とびおの腕を引っ張って玄関の中へと入って行った。
食事中、とびおがどうして私がバレーを始めたのか不思議そうな顔つきで尋ねてきた。普通、これだけ近くでバレー関係者がいるなら自分に憧れてとか思わないんだろうか。思わない所がきっと、とびおの良い所だ。
私は素直に「とびおと兄ちゃんのプレーを見て楽しそうだなって思ったから」と答えた。二人は本当に楽しそうにバレーをするのだ。この身長でアタッカーを目指しているのは、自分の身長を見て馬鹿にした連中を見返してやりたい! という気持ちもあるが、初めてアタックを打ったときの感触が気持ち良かったからだ。手のひらにあたって道を切り開く感覚が。病み付きになる。私はもっとあの光景をみたい。貪欲に求めた。だから、アタッカー。けど、兄ちゃんみたいにアタッカーだけじゃなく、もっと器用なプレーが出来る人間になりたい。

「私、とびおみたいなプレーが出来る人間になるよ!」

憧れなんだ、というと、何故かとびおは泣きそうな顔(けど、辛い涙じゃなく、嬉しくて思わず出てしまう部類の涙だった)でこちらを見て、私の頭を撫でた。しゅわしゅわ。




兄ちゃんが帰ってきた。とびおはお泊りするので、お風呂に入ってきて、上がりたてだった。とびおが今日来るというのは知っていた筈なのに(だって誘ったのは兄ちゃんだからだ。昨日、明日、影山来るからとお母さんに言っているのを私は聞いた)耳を真っ赤にして、久しぶりに会えた恋人との再会に驚いていた。抱きつきたかっただろうに、私がいるのを見ると、抑制できたらしく、身体をがちがちに固めながらもスル―した。素直に抱きついちゃえば良いのに。ああ、そうか。私がとびおと兄ちゃんが付き合っていることを知っているのを、二人は知らないのだ。
そして、おそらく二人が大学生に入りセックスも経験済みなのだということも、私はどことなく悟っているのだけれど。
最近の中学生を嘗めて貰っては困る。いつまでも純情ではいられない状況下に教室という空間は身を置く嵌めになるのだ。私も初めて行為の内容自体を聞いた時は赤面して倒れてしまったし、少女漫画のそういうシーンを見て、本をすぐに閉じてしまったが、兄ちゃんととびおが、そういうことをしているというのは、なんとなくわかった。
ある日、兄ちゃんがいつもより浮かれて帰ってきた。とびおと会った帰りだから当然だと思っていたが、どうやらそれだけじゃなく、とびおとセックスしてきたようなのだ。浮かれていた兄ちゃんは、気持ち悪かった。常に笑顔だったし「影山」っていう独り言を吐き出すし。
確信を持ったのは、とびおと兄ちゃんが二人一緒にいるのを見た、今の瞬間だ。お互いに意識しているし、今まで二人の間にあったどう頑張っても埋められなかった溝がなくなっていた。溝は互いが個人である限り埋められなかったものだ。身体を擦り合わせて、密着させて、抱き締めないと無くならない物理的なものだが、今はそれが無くなっていた。
良かったね、兄ちゃんにとびお! と私まで嬉しくなった。男同士で、どうやってするか私は全く判らないけど。

「あ、そうだ、二人とも」
「なんだよ、どっか行けよ夏」
「言われなくても部屋に戻って寝るもん! あのさ私、知ってるから」
「何を?」

二人はきょとんとした顔つきで私を見つめた。
何をって一つしかない。


「二人が恋人同士なこと」

さらりと告げると、とびおが兄ちゃんの頭を殴っている光景が目に入った。なに、殴ってるのとびお。
「お前がバラしたんだろ、このボケ!」
「はぁ、俺はバラしてないし!」
「だったら、なんでコイツが知ってんだよ!」
「お前が判りやすい態度したからじゃねぇの!」
「俺じゃねぇ!」
「俺じゃねぇ!」

と二人は言い合いを始めた。馬鹿らしいな。微笑ましいけど。どちらのせいもないよ。私が勝手に気付いたんだよ、と口を挟みたかったが、口論の隙間を中々、見つけられず私が口を挟めたのは、十分ほど経過してからになる。



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