高校生




まだ、アタシが幼い頃の話だ。








高校に入り、帰宅が遅くなった兄ちゃんを玄関で待っている時間が退屈だった。
お母さんは夕暮れになると、台所に立ち、とんとんとん、まな板を叩く。味噌汁が毎日のように出てくる食卓の準備に取り掛かる。包丁を使うから台所には入っちゃダメ! と言われていた。
今までは学校が終わった兄ちゃんが一緒にいてくれたけど、すっかり一人ぼっちになってしまった。じっと三角すわりをして、兄ちゃんが帰ってくるのを待っていた。今まで兄ちゃんというのは朝と夕方は一緒にいることが出来る人だったから。高校という場所に行ってしまってから、帰ってこない兄ちゃんの足音を待ち続ける間は退屈で仕方なかった。
おじいちゃんとおばあちゃんは、畑仕事をしていて、玄関で兄ちゃんを待つ私の頭を泥だらけの手で撫でてくれた。
父さんが帰宅する時間になっても、いつも私の待ち人である兄ちゃんが玄関の扉を叩いて「メシ――!」と飛び込んでくるのは、太陽が落ち切ってしまい、私が眠たくなったあとのことだ。
眼を擦りながら、台所で兄ちゃんが話す学校での話をお母さんの膝で聴く。お母さんは「もう寝なさい夏」と注意するけれど、私はいやいやいやと首を振って抵抗する。お風呂から上がって夏場ならパンツ一丁になったお父さんが「お兄ちゃんの話しを聞きたいんだろう」と私のおでこを優しく撫でた。
兄ちゃんの話は新鮮だった。高校という場所には憧れが詰まっていたから、兄ちゃんが赤裸々に話す、学校での日常に夢のような儚いものは崩れていったけど。うんうん、本当はね、幼い私は話の内容を半分も理解していなかったのだ。ただ、兄ちゃんが米粒を頬っぺたにつけながら笑顔で話している時の顔がとても好きで堪らなかった。
中学時代の兄ちゃんは、自分の好きなことを思いっきりやれなくて、友人たちの手を借りながら、ようやく好きなことの爪先に触れることが出来たのだ。
けど、それじゃあ物足りなくて、お兄ちゃんは一緒にいてくれたけど、私を抱え無邪気に遊んでいる時、どこか遠くを見るように切ない横顔を見せることが良くあった。落日が絡まりあった、虚空を見つめる様な眼差しは、見ている人間の息を封殺してしまう効果を持つ。
普段、まったく怖くないお兄ちゃんが怖く見える瞬間だった。あれは、彼の中に溜まった怒りだったのだ。寂しさだったのだ。自分の中に蓄積された、行き場のない。誰が悪いわけでもない。強いていうなら自分自身に腹を立てるようなもので、現状に満足できない鬱憤を腹に蓄えていた。
加えて好きなことが出来ないので欲望は溜まるばかり。あの眼差しは、耐えきれない寂しさも孕んでいたけれど、自分の欲求が通らない現状に対する怒りのようなものの意味合いの方が強かった。兄ちゃんは昔から、意外と頑固で、現状に不満があると直ぐに表面上へ現れてしまう人なのだと私は思っている。
ある時期から、そんな腹の中に溜まった鬱憤を外に排出するように兄ちゃんは動き回った。そうだ、この時期からだ。夕暮れ時、一緒にいてくれた兄ちゃんがどこか遠くへ行ってしまう恐怖がちりちり私の中で溜まったのも。「とびお」の名前が出てきたのも。

私がとびお。本名、影山飛雄の名前を初めて知ったのはお兄ちゃんが呟いた一言だった。

「チクショウ、影山飛雄」

兄ちゃんが誕生日に買って貰ったバレーボールを私が縁側で弄って、兄ちゃんへパスしていると、唐突に呟かれた言葉。兄ちゃんは良く言うと集中力が高く、悪くいうと自分の世界へ浸ってしまうと周囲の声が聞けなくなる時があり、その時も、飛んで行ってしまっていた。主にバレーに関することでしか発揮されない能力だ。この能力を勉強面で活かせるなら、兄ちゃんはテストの点数を見て母親に嘆かれることはなかっただろう。

「とびおってだれ」
「え――! 王様! すっげぇ怖い王様!」
「こわいの、王子様じゃないからだ!」
「アハハ、そうかもな」

幼い私は絵本に出てくる王様といえば、たいてい王子様かお姫様の適役になるか、足を引っ張っているイメージが強く、あの兄ちゃんが怒気を混入した声色で呟くものだから、飛雄は悪い人間なのだと言う固定概念がついた。奥歯を噛み締めて泣きそうなものを押し込めるような寂しさも含んでいた。言い表しようのない、声色だったのだ。

それから暫く、兄ちゃんのなかで影山飛雄は息を潜めていた。いいや、胸の中で鼓動を循環させる要因に幽閉され、もがいていただけなのだが。口から影山飛雄の名前が出てくることはなかった。
高校に入ってからだ。
再び、兄ちゃんの口から影山飛雄の名前が紡がれるようになったのは。

兄ちゃんは一日あったことを、とにかく喋らなければ胸の整理がつけられない人だった。報告癖というのだろうか。私は眠気眼で兄がぺちゃくちゃと喋る内容を聞いていた。本当は、私に話しているんじゃなくて、お母さんに語っていることだと判っていたが、私は、こくん、こくん、と首をさげ、そうしていつの間にか眠ってしまっていることが多かった。
朦朧とする意識の中で、とびおの名前をいっぱいきいた。
とびおの話は兄ちゃんが口から叫ぶ中で一番多かった。しかも、不満がある様な愚痴を孕む言葉の棘がところどころに交じっていて、お母さんは珍しい息子の一面を見るかのような眼差しで、とびおの話を聞いていた。けど、誰が聞いても兄ちゃんがとびおのことを嫌いじゃないっていうのはわかった。初めの方は苦手で怖がっていたみたいだけど(人見知りが意外と激しく、兄ちゃんは小心者なのだ。まぁ、人見知りというより興味がない人の顔と名前を覚える気が普段からないので、仲良くなるのに時間がかかるのだ)今は苦手なことは苦手なんだろうけど、その苦手が一言で表せない、複雑に入り組んだ物へと変化していることは話しを聞いていて思った。
兄ちゃんの口から飛び出る、とびお。
私は、一時だけ、そんなとびおのことが嫌いだった。悪者だし、大好きな兄ちゃんを横から取られたような気がして嫉妬していたのだ。とびおがいなければ、兄ちゃんは愚痴のようなことを吐き出すことはないし、とびおがいなければ、練習時間というものに時間を割かれることもなく、私の元へ帰ってきてくれるのではないだろうかと決めつけていた。


そんな、影山飛雄と私が出会ったのは、兄ちゃんたちが高校一年生の夏休みを終了する前日だった。溜めていた宿題をみんなで集まってしようという提案がだされ、日向家が潜伏先として選ばれたのだ。兄ちゃんは馬鹿だから、兄ちゃんに宿題を教えるとびおは頭が良いんだろう、嫌な奴だ――と思っていたら、なんと、とびおも教えてもらう側だったから驚いた。
私は悪の大王様は、てっきり頭が良いものだと思っていたので(だって物語上で、様々な策略を練り王子様を危険な目に合わせるのだ)とびおが馬鹿で驚いた。眼鏡の頭がふわふわした身長が高い人に「王様ってなんでこんなことも出来ないの」と失笑されている姿を、母親に言われオレンジジュースをお盆に載せ運んできた私は目撃した。王様と呼ばれていたので、いったいそれが誰をさすのか私は一目でわかった。
私がはじめて影山飛雄を目撃した瞬間だった。
とびおは綺麗な男の人だった。短く切り揃えられた髪の毛と、首筋から見える項が見ている人間の心を掴んで行く用だ。切れ長な眸に、男の人にしては長い睫毛と、稜線が綺麗な鼻が特徴的だった。それなのに、口は少し前に出ていて、睫毛が上を向き、眉間に皺が寄っていた。その歪なアンバランスさが彼の人間性を表しているようで、私は息をのんだ。とびおはずっと不細工な大男だと思っていたから、こんな綺麗な人が悪の大王様だとは想像していなかったのだ。
ちょっぴり緊張した私は、オレンジジュースを持ったまま転倒し、とびおの頭の上目掛けて、オレンジジュースが舞った。眼鏡の人には間一髪、水滴がかからなくて、とびおの黒い髪の毛にべちゃべちゃと粘着力のあるオレンジジュースが被さった。

「わ―――夏、なにしてんの!? 大丈夫!?」

そばかすの人に勉強を教えて貰っていた兄ちゃんが飛んできて、扱けた私を起こしてくれた。兄ちゃんの腕にすっぽり収まった私は放心状態。目線をあげると、怒り狂ったとびおと目があった。や、やっぱり悪の大魔王様だ! と先ほど見惚れていたことなど忘れ恐怖で身が縮こまったが、とびおが怒ったのは私ではなく、兄ちゃんだった。

「てめぇ、なにしてくれんだ!」
「え、俺!? 俺はなにもしてなくない!?」
「ボケ! そっちのチビがやったことだろ」
「そりゃ、悪かったけど。てか、早く脱いで。お母さんに洗ってもらうから」
「なっ」

とびおはなぜか顔を赤くした。気持ち悪かった。後ろの方で眼鏡をかけた人が、鼻で笑っているけど、そっちの方がもっと気持ち悪かった。
私は謝らなくちゃいけないということに、気付いて、鼻息を荒くしながら兄ちゃんと服の奪い合いをしている、とびおの前に立った。

「と、とびお! ごめん!」

ふぅぅぅん――!!
荒くした鼻息を牛のように吐き出すと、とびおは驚いた顔をしていた。雀斑の人が「とびお呼びなんだ」と小さく呟いた。私は何か間違っているのだろうか、と不安になった。ちらっと、おそる、おそる、とびおを見た。とびおは許してくれないだろうか、と躊躇ったが、私が謝罪したことにとびおは固まっているようだった。
兄ちゃんがとびおのことを突くと反応を見せ、とびおは、おそる、おそる、私の頭を撫でた。制服の裾に付着したオレンジジュースの香が漂う。

「別に、いい」

言い終わった、とびおは私より顔を真っ赤にしていた。可笑しな話だけど、許して貰った私の心は一気に軽くなって、もう、とびおのことが嫌いではなくなった。昔から、単純なのだ。
とびおの手を掴んで、引っ張った。とびおは困惑していたが「風呂!」と私が叫ぶと大人しくついてきてくれた。
お母さんがオレンジジュース塗れになったとびおを見て悲鳴をあげた。制服をあずかり、お風呂に入れてもらう。
お風呂から上がったとびおに私はひっついて、肩車をしてくれるように頼む。駄々を捏ねると面倒だと言う顔色と一緒に、元来、子どもが嫌いではないのだろう。嬉しい、という気持ちが全面的に出ていた。子どもだった私は気にせず、とびおにお願いをして、肩車をしてもらった。
肩車で立ち上がると、とびおの身長プラス私の身体だと天井に後頭部を衝突させる結果だということがわかり、おんぶに切り替わった。
おんぶされた状態で、私は兄ちゃんの部屋まで帰ってきて、すっかり、とびおに懐いてしまった私を兄ちゃんは「なんで!」という顔で見ていた。当時は、うんうん、妹が取られて寂しいか、くらいの気持ちで見ていたが、今からして思えば、あの時、兄ちゃんが私に向けていた視線が嫉妬ではないだろうか。彼は意外と、心が狭いのだ。






とびおは高校三年間の間、良く私の家に遊びに来た。正確には私の家じゃなくて、兄ちゃんの家だったのだけれど。
とびおが遊びに来ると、とびおの足元に駆け寄って、抱きついた。私に慣れてきたとびおは両手を万歳するだけで、抱っこをしてくれるようになった。とびおと接していくうちに、私も順調に大きくなっていって、とびおが高校三年生のときに、私は小学校高学年になっていた。
高学年にもなると、ちょっと幼い自分は消え、様々なことが見えるようになっていく。小さいままの身長は変わらなかったから、とびおにとって私はいつまで経っても子どものままなのだけれど。
とびおと接していて気付いたことがある。とびおはコミュニケーション能力がない。初対面の子どもがいる前で大声で怒鳴ったり、不意打ちで謝られると固まってしまったり。コミュニケーションの取り方を知らないみたいだ。思うに、とびおは自分の気持ちを相手に飛ばすのは得意なのだ。とびおと兄ちゃんがやっているバレーのトスみたいに。トスを上げてばかりで、受け取り方を知らないのだ。とびおと喋っていると、とびおは生きていくのがへたくそだなぁと小学校高学年の私は思っていた。
根が正直なので「とびおってへたくそだね」というと、鼻を掴まれて「生意気いうな」と叱られた。そのあと、とびおはちょっぴり凹んでいた。
けど、大丈夫だよとびお! と私は凹んだとびおの背中を叩いた。
とびおはへたくそだけど、兄ちゃんと一緒にいると大丈夫だった。私は三年間二人が一緒になって喋っている姿を何回か見たけど、とびおが下手くそなコミュニケーションをとっていると、兄ちゃんが自然と(なにも考えてはいない)フォローに入ったり、知らない間にとびおを笑顔にしているのだ。私はこれに気付いた、たいそう驚いたし、兄ちゃんと一緒にいるときの、とびおの雰囲気が全体的に滑らかで穏やかなものであると言うことにも驚いて止まなかった。
一歩、後ろに下がった位置から二人を眺める立場だったから、私は良く二人の変化に気付いた。
二人の間にしかない、他の誰かが侵入できないような宝物を見守っているのが、こころがほくほくしてきて、大好きだったのだ。


どうして、チームメイトで友達であるだけの二人に、こんな空気が流れるのか。二人の間にある宝物を、二人して壊さないよう気を使っているのか。疑問でならなかったけど、ちょっと考えればすぐに判った。

それは、二人とも、恋をしていたのだ。
兄ちゃんはとびおに。
とびおは兄ちゃんに。
お互いのことが大好きで、皆には内緒にしていたけど、高校三年生になるころには、すっかり二人は恋人同士だったのだ。私だけが、なんとなく、気付いてしまったのだった。

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