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「憧れって理解からは程遠い感情だろ」


 平然と満面の笑みを浮かべながら、不動しない眼差しで日向は影山を見つめた。誰もいない体育館倉庫。埃が溜まったなかに、ネットを折り畳み、モップをしまい後片付けをしている最中だった。居残り練習のため、主将である大地に無理を言って借りた鍵を握り締めながら影山は生唾を飲んだ。
 そもそも、なぜ、このような話をしているのだろうと、脳内で奇想する。確か部活が始まる前、部室で山口が自慢気に話していた中に月島がいかにモテるのか、という話があった。日向は「スッゲェ!!」と騒ぎながら、影山は興味がないふりをした。黙々と着替えを済ましていた。及川との一件があり、恋愛に対しての興味が低い影山は「下らない」と思いながら無視を貫き通した。
 練習を終え、日向が「トスくれ!トスくれ!」と煩いので三十分ほど居残り練習をして帰ることになった。大地は渋ったが後輩二人の勢いに負け、溜め息を吐き出しながら「最終下校時間には帰ること」というのを条件に鍵を貸してくれた。職員室へ返しに行く義務を忘れるなよ!! とも怒鳴られた。


 結局、二人は下校時間ぎりぎりまで練習し、急いで体育館倉庫へ用具を押し込みだした。最後のネットを押し込み、鍵を閉めるだけになった時、日向が思い出したかのように喋りだした。


「影山は付き合ったことある」

 という質問に影山は動きを硬直させた。二人きり、名指しということで、上手く無視を貫き通すことが出来なかったのだ。そもそも影山は上手に話を迂回させる方法を知らない。答え辛い質問が投げ掛けられると、怒鳴り立てるか、無視を貫き通すかのどちらかしかなかった。
 今回もそうやって、話の内容を避けるように過ごそうと考えたが、顔を上げた先にあった日向の相手の心などすべて見透しているかのような眼差しに、嘘をつけなかった。部室で話していたようなテンションではない。
 お前、なんでそんな目で見つめてんだよ………と奥歯を噛み締め唾を飲み込みたくなった。見透かしたように日向は自分を見ているのに、影山は日向がなにを考え、どんな意図で自分にそういった質問を投げ掛けたのか理解出来なかった。以前、及川と別れたばかりのころ、金田一が告げた忠告が心の中で騒いでいる。
「お前……もっと人のこと考えられるようになれよ」
 と。胸に巣を張る言葉だった。忸怩が思い出すたびに、心髄から浮かび上がってくる。金田一の忠告を無視した挙げ句、導きだした結末は上げたトスを受けとって貰えないバレーをする選手としての存在意義を拒絶するものだった。今なら、まだ穏やかな気持ちで自分勝手だったのだと振り替えることができる。金田一たちに要求してきたことは、自分が合わせるという、協調性を無視した行動だということがわかってきた。日向へ合わせるトスをあげることで。
 しかし、未だに判らないものがある。及川の気持ちだ。交わったベッドは未だに影山の部屋になる。あの日から誰かと交わったことは一度もない。寝転べば寂しさと怒りが湧き出してくる。
 不透明を募らす心が、影山の及川に対する愛情を怒りへ変えていくのに時間はかからなかった。これだけ悩ます相手がいることも煩わしいし、あんなに好きだったのに「憎い」という気持ちを落としていった及川が嫌だった。


 日向のこちらへ向ける視線に負け、口を開く。今まで誰にも告げたことがない、及川との関係や気持ちを暴露した。
 思えば日向は謎な奴だった。初めて会った時から、影山の心にずかずか無秩序に入ってきた。試合前の緊張や先輩に叱られて脅えている所を見ると、身体にみあった小さい男に映るのに、一度触れあっていくと、ゆるやかなあたたかさを持っていた。
 無秩序に入ってくると言っても、けして無神経ではないのだ。相手が聞いて欲しくない最低ラインを見極めるのが得意なので、さりげなく優しいと女子から人気なことを影山は小耳に挟んだことがあった。
 常に笑っているわけでもないのに、日向と言われ思い浮かべる顔は笑っている顔だ。背が低いので見下す形になった。拗ねていたり、怒っていたり様々な顔を持っているくせに、思い出されるのは健全な顔だ。
 その健全さが嫌いではなかった。
 むしろ影山は好きだった。
 今まで自分が接してきたことがない種類の人間だ。思う所があれば、口に出して、自分と違う意見があれば主張してくる。おそらく家族に愛されて育ってきた人間で、日向の家からなんの気なしに持ってくるなにか明るいものが、影山をあたためた。
 そんな日向だから、話せたのかも知れない。


 及川と付き合っていたことを、影山は述べた。男同士ということで恐ろしかったが、日向は気にすることなく頷いている。及川ということに眉を潜め「大王様か」と呟いたくらいだ。
 次に別れることになった経緯を淡々と述べていった。「憎い」存在に知らない間、なっていたことも。
 淡々と、静かに喋っているつもりだったのに、気付いたら激情に任せるよう、怒鳴っていた。
 怒鳴りながら自分の心の中に溜められていた不純物はこんなに大きな形となって蓄積されていたという事実に気づいた。今まで吐き出す相手はいなかった。クラスの中にさえいけば喋る相手はいたが、休日に遊ぶ相手はいなかった。今までそれを寂しいだなんて思ったことはなかった。休日になればバレー漬けの日々が当然のように広がっていた。高校に進学した今は会うこともなくなった相手。指を折って数えてみれば、友達ではなかったクラスメイト。相談する相手もいなかった。そもそも、誰かに相談するということ自体を馬鹿げた行為だと思っていた。

「大王様のこと好きだったんだ影山って」
「……そうだな。今は嫌いだ」
「へぇ、けど、今の話聞いた感じじゃ随分、一方的な愛情だったんだなぁって。よくわからないけど!」

 眉間に皺を寄せた後、日向はけらけらと笑った。
 そうして、冒頭の言葉を吐き出した。

「憧れって理解からは程遠い感情だろ」

 漫画で見た科白だけど――と日向は続けて喋りながら、影山の心髄を刺激してくる。今まで誰も触れなかった場所に。


 聞いた話だと影山って大王様のこと好きだったんだろう。好きっていうか、憧れ? バレーのことだって大王様から見て学んだことが多いとか言ってたし。憧れてたんだろう。だったら、憧れって理解から遠いじゃん。だって理想なんだから! 俺もさぁ、小さな巨人にすげぇ憧れてるけど、実際に会うと現実との差異に困惑すると思うよ。憧れの時は都合の良い自分の解釈に合わせておけば良いけど、現実で親密になろうとすると違うだろう。悪い所も見えてくるだろう。嫌いな奴がいない人間なんておかしいし、違う人間なんだから、許せない所とかも出てくるだろう。理想が高かったぶん、いっぱい出てくるんじゃねぇの? 


 ぺらぺら喋る日向に影山は唖然と口を広げながら見つめる。お前、なに頭良さそうなこと言ってんだ、と思い、日向のいう言葉が自分よりすっかり成熟した人間の意見なので開いた口が閉じられなかったのだ。

「憧れのままいれたら良いけど、影山と大王様はそういうんじゃない関係になりたかったんだろう。それが無理だったから、別れたってだけじゃないの?」
「けど、知らない間に傷つけてたらしい、し、恨まれたって」
「恨む方が悪いんだって。大王様だって人間だし、俺、中学時代のお前ってそうとう嫌な奴だったんだなぁって思うし。てか今も」
「なっテメ!」
「うん、けど、嫌なやつだけど、俺は好きだよ」

 好きだよと平然な顔で言い放った日向は、唖然として口をあけたままの影山の唇を飛び跳ねて奪った。
 は、ちょ、テメェなにしてるんだよ! と困惑気味の影山を見て、日向は顔を真っ赤にしている。
 なにテメェが勝手に赤くなってんだ! と思いながらも、自身の顔色が紅色に染まっていることに気づき、口を金魚のように開封させ、指をさし、頭を引っ叩くくらいしか出来なかった。

「イッテェ――! なにすんだよ」
「なにっておま、お前が!」
「え、だから言ったじゃん好きって。好きじゃなかったら、お前の恋愛相談に乗らないし、興味ないよ」
「なっ――」

 興味ないと言い放たれたことがショックだったのか、影山は顔を蒼褪めた。しかし、それ以上に日向から好きだと言われたことの方が嬉しかった。

「好きだよ、影山のこと。ストレートに物事を言ってくる所とか。うじうじ悩んでる所とか」
「うじうっ――!」
「だってそうじゃん。引き摺ってんじゃん。けど、良いと思う。トラウマって中々、抜け出せるものじゃないし。あ、う―――ん、けどさ、誰かの気持ちが判らないのって当然じゃない? 俺だってお前の気持ちわかんねぇもん。今、俺はすっげードキドキしてるけど、影山はどうなのかなって思ってるし。誰かの心なんて判らなくても当然じゃない? しょうがないじゃん!」
「っ――けど、そのせいで、憎まれてんだぞ」

 思わず日向の胸倉を掴んだ。
 憎んでなんて欲しくなかったのだ。好きだったから。確かに及川のことは憧れる気持ちが強かった。始めは憧れだった。根本的なところから違っていたのだから、理解出来なかった。そもそも、当時は、誰かを理解しようという考えすら気づかなかったのだ。

「あ、泣いてる」

 気付いたら泣いていたらしい。胸倉を掴んでいた日向は手を指しのばし、落ちてくる影山の涙を拭き取った。

「なぁ、影山。泣いても恥ずかしくないし、泣いてもいいんだぜ。落ち込んでも。大切なのってその後じゃない? 俺もさ、バレー出来なくて中学の時は辛くて、もっとああしておけば良かったって思うことはあるけど、大事なのってその後じゃん。後悔して、もしもっとか考えても時間は戻ってこないんだから」

 煩い――と否定するのを忘れ、影山は日向の手のひらの顔をうずめた。自分の上げたトスを打つ日向の手のひらで少し泣いた。大泣きレベルではないが、高く尖ったプライドを少しだけ減らしてべそべそ泣いた。胸の中にあった「及川」という存在が、溶けていく。けして、無くなるものではないが、溶けて、柔らかくなっていく。
 泣き終わると鼻水を啜って、気まずそうに日向から背を向けた。あ、ひっでぇ――! という日向を無視して歩いていると後ろから小さい身体に乗りかかられた。

「新しい恋愛してみるのも、あ、ありだと思う」
 
 耳朶の後ろで囁かれる。熱い。吐息の音が熱くてたまらなかった。お前みたいな奴がどうして俺のこと好きなんだよ、と思った。日向のことは嫌いではない。寧ろ好きだ。好きなんだろう。ここまで自分の情けない姿を披露出来たということは。気持ちの整理はついていないが、好きでなければ、誰かの前で泣くことなどできない。


「……考えておく」


 精一杯、声を零した。

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