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 睥睨しても自身の心臓は見えなかった。形に表すとするのなら、きっと空洞に違いない。影山は胸のあたりに手をあてて、残酷にも奏でる音を止めない鼓動に溜め息を吐き出した。
 ベッド。
 誰もいないベッド。親しみ深いベッドが当たり前のように部屋の隅っこにあった。折り畳んで異動出来るのに、影山のベッドは動こうとしない。部屋だけが、時を止めたように日常を送っていた。持ち主の日常に必要だったピースが欠けようと関係ない。
 影山の部屋に置かれてあるベッドは二人の象徴だった。誰と誰なんて尋ねるまでもなく分かっている。家族以外で影山の部屋に入った人間は一人だった。親しい人間など今まで一人とていなかった。親だって、ひんやりとした室内が当然だというように、家を空けていた。影山が扉を開けるたびに、人間と関わる胸が燻るような喜びを得た人物は一人。及川徹だけだった。
 その及川がいない。二週間前に別れたばかりだ。二週間経って、二人の関係が修復されるわけがなかった。もうダメな音を嬌声を叫ぶなかで聞いたのだ。抱き合っていても、無駄だと諭すように。どうしようもない事態に諦めろ「好きなだけじゃダメだよ」と及川の低いテノールの自分とは違う声変わりした大人の肉声で囁かれた。

 ごろん、と軋むベッドに寝転んでみる。及川の残り香は日に日に薄くなっていった。自分の香りが及川を消していく。
 なにがダメだったのだろう、と肉体の触れ合いでは隠しきれなくなった部分の謎が頭のなかに残った。分かっているのは、及川が以前告げていた「憎い人間」がおそらく自分だということ。これも、必死に頭を何回転して、ようやく理解した。今まで悩むことを放棄してきた影山にとって、最大の敵だった。煙硝が起きた恋人との関係を探っていくことが。
 影山は、及川が好きだった。好きだけで十分だった。及川は影山がはじめてみた「凄い人」だ。中学バレーの高さを見せ付けられた。胸に焦がれ、憧れた。及川みたいになりたかった。早く及川に追い付いて一緒にバレーをしたかった。当然のように及川も同じ気持ちだと思っていた。追い付くことを喜んでくれると、信じていた。だから、自分を抱いたのだと。好きだから、抱いてくれたのだと勘違いしていた。及川はいつからか、自分のことが「憎い人」だったのだ。

「なんでだよ、及川さん」

 暗闇のなかで呟いた。暗礁が落日を隠すように、部屋の窓から射し込んだ光は弱まっていく。








「いい加減にしろよ、影山」

 体育館へ足を伸ばすと、開口一番に金田一から告げられた言葉だ。早朝の体育館は誰もいない。てっきり一番乗りだと思っていたのに、すでに練習着に着替えた金田一がネットを張り終わり、入り口で待ち構えていた。
 影山は睡魔の名残で朦朧とする意識の中、金田一の言葉に耳を傾けた。
 言いにくそうな雰囲気で金田一が生唾を一言、一言に飲み込みながら喋っている。欠伸をすると肩を叩かれ「しっかり聞け!」と怒鳴られた。
 しっかり聞いてるよ、と睨み返すと金田一が躊躇う。一瞬だけ。踵で踏ん張るように躊躇う気持ちを払拭させ、声を張り上げた。

「一人でバレーすんなよ!」

 一人でバレーをしているつもりは、毛頭なかったので反論を吐き出した。

「してねぇよ」

 個人競技ならまだしも、バレーは団体競技だ。二回続けて同じ人間がボールを触れない。誰かとしなければならない競技。

「お前、なにもわかってねぇよなっ―――影山」
「なにが」

 平然と吐き出すと、金田一の一瞬、憐情を孕んだ眼差しが向けられた。怒っているのではない。怒りが限界点に到達し、口を閉ざした顔だった。
 踵を変え、金田一は体育館のなかへと入っていく。三年が引退して背負ったキャプテンマークが輝いていた。及川も一年半前に同じものをつけていた。



「お前……もっと人のこと考えられるようになれよ」


 立ち去る直前、金田一が告げた。独り言だと投げ捨てるには、今の影山にはきつい言葉だった。人のことこれでも考えてんだよ! お前らだってわかってんのかよ ! と苛立ちが募った。今のスピードだと勝てねぇだろ。ブロックの隙間を撃ち抜くような技術もないんなら、スピードを駆使して勝つしかない。エースだったら答えて見せるのが普通だろ。と叫んでやりたい衝動に駆られた。
 それをしなかった理由を脳内で巡ってみても、漠然とした巨大な闇が渦巻いているに過ぎなかった。
 自分を否定してくる。
 落ち込むなんてこと、今までの行き方で知らなかった。寝たら忘れられると思ったのに、忘れられず、身体を蝕んでいった。

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