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 どんなに夢中に趣味を楽しんでも、どんなに多く練習を積み重ねても、及川の心の隅っこにはいつも影山の存在がいた。中学三年生から高校二年生までの時間を共に過ごした恋人の、はじめ幼かった未発達の身体がするりと美しく成長していく様子が網膜に焼き付いて離れない。
 部屋の片隅に息づき、押してくるぞっとした静けさ。天才と秀才がどんなに陽気に過ごしていても、埋められない空間があることに、及川が気付いたのは、影山よりずっと先だった。
 本当に暗く寂しいこの山中で、もがきながら輝くことだけが自分に出来るたった一つのことだと知った。愛されて育ち、バレーをしてきたのに、いつも心は寂しかった。バレーの神様に愛されているのは自分ではない。知っていった。闇の中でちりちりになって消えてしまう。
 二人が別れたのは当然ともいえる結末だった。
 けど、及川は別れたくなかった。闇の中に消えるまで繋ぎとめておきたかった。手を離してしまったのは三ヶ月ほど前だ。大事に抱きかかえていた影山と別れ、友人の前でぼろぼろと泣いた。泣いても消化できなかったものが、今も及川の胸の中で燻ってずきんと痛みを与えた。

「はぁ」

 及川は誰にも気づかれないように溜息をついた。バス停で次のバスが来る時刻まで十五分程度ある。スマフォの電源をつけると、時刻は夜の八時を回ろうとしていた。自主練習のやり過ぎだと母親に怒鳴られる声が耳の後ろまで聞こえる。
 冬の息は白い。二酸化炭素が白く凍っている。指先をあたためるために吐息をかけるが、一向にあたたかくならない。

「なに溜息ついてんだ、色男」

 後ろから、ばしんと手のひらで殴られた。手袋をしている状態で殴られるので、痛みは半減していた。声色と乱雑な挨拶の仕方で振り返るまでもなく、叩いてきた人間の名前がわかる。
 先ほどまで一緒に練習をしていた相手だ。バスの時間を確認してくる役目と、体育館の鍵を職員室へ返す相手とに分かれた。嫌な役目(何時まで使っていたとか、戸締りはしっかりしたとかを紙に記入しなければならないので面倒だ)を押し付けて、及川はバス停で待っていた。

「岩ちゃん、なにするの。あ、この俺のCMに出ているかのような美しい容姿に見惚れちゃったりした」
「黙ってろ」

 部活用品がたっぷり詰まった鞄をベンチに置き、岩泉が腰掛ける。自販機で買ってきたのだろう。コーンポタージュの缶ジュースをぷしゃっと開けた。

「おいしそ――俺のは?」
「あると思ってんのか。ねぇよ」
「あ、やっぱり。お腹空いてくるから横で飲まないでよ」
「バス来るまでの間に飲もうと思って買ったんだからバス停で飲むに決まってんだろ」

 ごくごくと岩泉の咽喉仏が上下した。及川は唇を尖らせながらスマフォを鞄の中へしまった。
 三ヶ月前、及川の悩みを聞いてくれたのは他でもない岩泉だった。幼馴染に気が緩んでしまったのか。昔から及川のだらしない所を受け止め慣れている岩泉の前でつい、ぽろぽろと泣いてしまった。あの日から、微妙に気まずい。気まずいというより、及川が勝手に躊躇って、数年築き上げてきた仲に戻りにくくなっているだけだ。
 今まで及川と岩泉の関係は平等だった。良くも悪くも、伸し掛かった後に、伸し返されていた。それなのに、今は及川が一方的に抱きかかえられている状態だった。岩泉が恋愛でもすれば変わるだろうが、まったくその気配がない。あと、泣いてしまったのが恥ずかしかった。

「落ち込んでたのかよ」

 コーンポタージュを飲み終えた岩泉が尋ねる。あの日から容赦なく岩泉は及川が泣きそうだと述べてくる。日常に潜む会話のように、しごく、単純に。

「忘れてくれるんじゃなかったの岩ちゃん」
「忘れてないのはお前だろうが。三ヶ月経つのに。まぁ、無理ねぇから、うじうじ落ち込んでいるみたいだったら聞いてやろうかと思ってよ」

 にっと白い歯を見せて笑う岩泉を見て、俺が隣にいなかったらきっともっと女の子から騒がれていただろうに。ご愁傷様と合掌した。
 ふと思う。岩泉はないのだろうか。圧倒的な天才をみて鬱屈してしまう気持ちに支配されてしまう時が。その天才を敵わないと思い、それでも焦がれる様な体験が。

「岩ちゃんにはないの。忘れられない人だったり、好きなのに憎くなったり、怖かったりする相手」
「お前にとって影山みたいな?」
「うるさいな、岩ちゃん」

 岩泉は一拍置いた後「いるよ」と答えた。

「つ――か、お前」
「え、岩ちゃんって俺のこと好きなの!?」
「一緒にすんな。誰がホモになったって話したよ。小学生の時、俺にとっちゃお前は圧
倒的だったよ。俺より遅くバレー始めたくせして、上達スピード早いし。セッターのくせして、アタック打つし。サーブも出来るし、身長が俺より高いし、女にはモテるし、ムカツク所だらけじゃねぇか」

 最後バレー関係ないじゃん、と思いながら耳を傾けた。

「ムカツクけど、尊敬しているしお前のトス打つのは気持ち良い。正直、上手くなるお前に対して葛藤がなかったわけじゃねぇよ。けどお前はお前だろ。俺はむつかしい恋愛感情なんかお前に対して抱いたことねェし、お前よりむしゃくしゃすることなんか、なかった。お前が努力しているのは知ってる。悩んでいるのもな。だから、平気だ。俺はお前と戦ってんじゃねぇ。お前とバレーしてるんだ」

 そもそもな、スポーツしていて追い越される怖さを影山まで知らなかったお前が可笑しいんだよ、と岩泉は告げた。
 岩ちゃんって男前だね、と気軽に告げようとしたのに、及川の顔からは、また、涙がぽろぽろ落ちていった。なんで泣いているんだろ俺――と思っていると、岩泉が頭を引き寄せ、肩を貸してくれた。岩泉の言葉が及川の中に染み込んでいく。そうだね、俺も飛雄とバレーがしたかったんだ、ということが自分の中で解されていった。才能とか関係なく、忘れてはいけないのはバレーを楽しむということだ。その中で、誰かを愛していけたらもっと良かった。きっと、そういう形になっていきたかった。

 岩ちゃんにとって俺がそうだったんだ。心を砕いていった人だったんだ。他にもそりゃぁ、居るよね。俺が砕いていった人。砕いていった人が、今はこうして乗り越えた顔で笑ってる。ああ、そうか受け止めなきゃいけない問題なんだね、岩ちゃん。乗り越えるのとは違うんだ。乗り越えるとすべてを忘れてしまうから。忘れよう、忘れようとすれば、どうしても先には進めない。思い込んでいる時点で、頭の中にあるのだから。忘れなくても良いんだ。


「新しい恋でもしてみろよ、お前は」
「え――考えておく」

 バスの明るいライトが見える。ちかちかと音をさせて、バス停前で停車した。ぷしゅっと扉が開き、学校の名前を機械音が読み上げる。やっときたな、と立ち上がり二人はバスへ乗った。

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