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「天才の人間らしい仕草に惹かれたんだ」

 錆びついたパイプ椅子に腰かけ、失笑しながら自宅から持ってきたペットボトルに注がれたお茶を啜った。及川の人より長く、美しい指先が白いぎざぎざのペットボトルの蓋を閉じていく。
 着替え終え、部誌をつける専用に置かれた椅子に腰かけながら岩泉はなにも言わずその話を聞いていた。
ただ、先ほどまで考えていた今日の練習メニュー内容とかはどこかへ飛んでいった。入部して既に一年以上経過しており、慣れ親しんだメニューだが、中学の頃とは勝手が違い、単純ではない練習方法を文字にしてすべて表すのは難しい。聞きながら出来る作業ではない。
 及川が漏らした一言に耳を傾け鉛筆を止めた。

「飛雄って天才でしょう」

 天才なことくらい岩泉は知っていた。中学の入部したての時から騒がれていた。類い稀なる才能の持ち主だと。横一列に整列させると影山の異質さは良く目立った。
 中学生。発展途上の幼い身体が見つめていたのは体育館に打ち上げられるトスだった。幼い身体のどこにその才能が眠っていたのかと疑う程、影山はどんな場所からでもボールを返した。皆が驚きを隠せない中で、及川がにっこりと、楽しみな後輩が入ってきたことに喜んでいた光景を岩泉は良く覚えていた。
 同級生から「正セッターとしてどう見るよ、及川」と冗談半分で聞かれながら「生意気だったら絞めるかな、なんてね」と答えていた及川の返事が本気でないことくらい、誰もが判っていた。可愛い後輩が入部してきたことに身体の芯から期待している顔だった。まさか、及川とて、可愛い後輩が自分を凌駕する実力を兼ね備えているとは想像していなかったのだろう。
 影山の成長はすべての人間が想像できる範囲を飛び抜けていた。自分自身が手の届く範囲でしか、人間は予想できない。飛び抜けた、初めから自分には無理だと判っているものは、妄想に過ぎなかった。
 ひとつ教えれば二倍も三倍にも返してくる影山を見て、及川は自分を慕い、後ろを歩いてくる雛がすでに旅立ち自分を超える準備を始めていることに気付いた。サーブのやり方。トスのあげかた。アタックの打ち方。このフォーメーションの時にどうやって動くか。誰を使うか。及川は影山に教えていった。言葉で直接教えたものもある。「ここはね、こうやって動くんだよ」と丁寧に。「こんなことも出来ないの」と囃しながら。
 言葉で教えていないものは、影山は見る事により吸収していった。盗られたとは思わない。スポーツ選手において、技を盗むのは基本中の基本だ。自分で開発した技術など少ない。様々な人間を参考にしながら自己流にアレンジしていき、吸収する。そうやって自己を高めていくのだ。
 けれど、吸収していく影山に対して、及川は寂しさのような感情を抱いていた。一年生同士の試合をコート上から眺めていると、影山が別人に見えた。恐ろしかった。客観的に見ることにより、更に影山飛雄が秘めている可能性に気付いてしまった。自分が培った能力を吸収しきった影山が、さらに高見へと登っていく様子が脳裏に浮かんだ。追い越されたくなかった。今まで自分が積み重ねてきたものを。

「はじめ、天才な部分に惹かれたんだ。だから親しくなった。先輩としてね。けど、それ以上に恋愛感情として自覚した部分は他にあるんだよ」

 後ろを着いてきた雛鳥など既にいないのに。影山はトスをあげ、試合に勝利するたびに及川を見た。今のどうでした! と尋ねるように。意外と表情が顔に現れやすい影山は及川にだけ満面の笑みを見せた。あれを独り占めしたかった。
 だから付き合って下さい、と目を瞑り緊張して、指先を白くさせた影山の告白に首肯した。可愛かった。恋愛面では影山に教えられることが及川にも山のように残っていた。

「俺さ、岩ちゃん……知ってたんだ。飛雄のちゃんと、人間らしい部分。いっぱい。いっぱい。天才って言葉だけじゃ片付けられない部分」

 よくよく見れば無口な時に思考を練っていること。喋りたいのに言葉の使い方が下手くそで人へ伝達する術を知らないこと。自分が頑張ろうと決めたことに最後まで取り組み、直向きなこと。及川の存在を、本当に、好きだったこと。
良く見れば、分かった。年相応に性的なことへ興味があることとか、ちゃんと人間らしい部分が感じた。
それでも「天才」という部分は圧倒的だった。
 魅力というのは様々な形がある。心の隙間に入ってあたたかな風を巻きお越し帰っていくもの。そういうあたたかいものから、影山のように見るものを圧倒させ、心を折る威力を持つのに十分なもの。


「人間らしい、飛雄に惹かれた。可愛いと思った。けど、俺は最後まで飛雄とバレーを別物として考えることが出来なかったんだ」

 

 だから俺達は別れることになったんだろうね。と及川は、昨日、影山と別れたことを告げた。
 
 別に岩泉は驚かなかった。及川が影山と付き合っていることは知っていた。及川がいる目線の先を見れば判ることだった。伊達に小学校時代からの付き合いではない。そういう恋愛があるのかくらいの気持ちで受け止めていた。
 別れたと言われても、及川が影山に対して憎しみのような、一言では言い表せない屈辱を彼に抱いていることを知った時からいずれ限界がくるだろうと思っていた。岩泉が見てきた中で、影山は初めて及川が対面した敵だった。自分でもあんな後輩が同ポディションにいるだけでウンザリだと肩を落としたくなる。影山が現れるまで順調に成長していた及川にとって、味わった、どうしようもない敗北感は岩泉の想像を超えているだろう。影山本人が無意識だから直接、気持ちをぶつけることを出来ない。
 例えるなら大切に及川が育てていた花を影山が無意識の内に踏みつぶしたようなものだ。綺麗に咲く直前だった花は立ち直る方法が判らなかった。影山は踏んだことにすら気づいていない。そういうものだろう。
 及川が初めて現れた花を踏みつける者の存在とバレーを区別して考えるなど不可能だというのはわかりきったことだった。そもそも出会いがバレーなのだから。接してきた時間の殆どがバレーなのだから。バレーと区別して扱うというのは、今まで共にあった、可愛いなと思う感情すべてを捨ててしまうということだった。完璧に別物として扱えるほど、及川は大人ではなかった。彼はまだ高校二年生なのだ。

「俺さ、最後まで飛雄に教えなかった、盗まれることも拒んだものがあるんだよね」

 まだ零したい愚痴があるのかと岩泉は及川の方をちろり、と見た。及川はパイプ椅子に上で三角座りをしながら、膝に顔を押し当てていた。泣いているのが一目で判った。

「一番、教えてあげなきゃならないものだったんじゃない。先輩として」
「なんだよ」
「コミュニケーション能力」

 あいつのコミュニケーション能力に欠陥があるのは元からだろうと岩泉は思った。そもそも、教える義務なんてない。そんな能力、勝手に吸収していく代表的なものだ。
 しかし影山に一番無く、及川にあったものの代表的な例としてあげられるものだ。及川は人を操る術に長けていた。その点、どうしようもない人間だな、と岩泉は告げたことがある。本当なので、ははは岩ちゃん嫉妬、と及川は述べていた。狡猾な人間だ。戦略的に人を喜ばせる術も、失望させる術も熟知している。だからと言って岩泉はそれを馬鹿にしているわけではなかった。彼の背後にある、努力という名のものを、岩泉はずっと見てきた。バレーが好きな及川の姿を。セッターというポディションを愛してやまない男の姿を。人と会話する力を彼がバレーボールを通して身に着けてきたものだと。だから、こうやって、男同士の恋愛事情という岩泉の常識からかけ離れた出来事を黙って聞いているのだ。

「しょうじき、ざまぁ見ろって思ったよ。裸の王様に仕立て上げられた飛雄を見るのは」
「へぇ。ざまぁ見ろって思った自分に自己嫌悪してるとかじゃねぇだろ」

 そこまで心が清い人間ではない。

「うん。俺が気付いちゃったのは、もう、ここまできたら俺と飛雄はお付き合いしていられないなぁってことだよ。憎たらしい。飛雄のことが憎くて仕方ないのに。あの子を愛している俺もまだ、いるんだ。独り占めしたいってね」

 笑っちゃうよね、と述べた及川の顔からは涙が出ていた。
 鼻水が飛び出していて、イケメンも台無しだなと岩泉は及川の肩を叩いて、鼻水でぐしゃぐしゃの顔を自分の胸へと引き寄せた。

「とりあえず泣いておけ。人前で泣くってよっぽどだろ。俺も忘れてやるから」

 及川が自分自身の心を整理整頓する術に長けた人間であることを、岩泉は知っていた。相談を持ちかけて人前で泣いてしまいたいほど、影山飛雄という人間が好きだったのだということが痛いほど理解出来た。
 岩ちゃんってなにも言ってくれないけど俺のこと良く判ってるね、と及川は呟きながら岩泉の腕の中でわんわん泣いた。普段の及川を知る人間が描く姿とは掛け離れた絵だった。

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