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 二人がセックスするのはいつも影山の部屋だった。
 相談したわけでもない。ひんやりと冷えた影山の家は両親、不在。セックスするのにちょうど良かった。誰もいないことの証明みたいに薄暗くカーテンの隙間から街頭の明りや、斜陽するオレンジを眺めながら、二人の身体は絡まりあった。
 「付き合っている」のに、思い出せば二人は会えばセックスばかりしていた。バレー以外で出会うと、二人の間には肉欲しかないのかと錯覚させるほど、影山は及川の背中へ手を伸ばした。
 影山の部屋はものすごく汚いというわけではない。寝るためだけに部屋へ籠るのがわかる、質素な部屋だった。中学生二人が性交するには、小さなベッド。折り畳み型だったので、行為をするたびに、ぎしぎしと揺れた。
 抱かれている最中、良く眠くなった。微睡の中で及川の鎖骨が見えた。脇も写った。いつもユニフォームの上から覗く部分だった。腹部に押し寄せる圧迫や快楽を受けながら、眠気に耐えた。
 いつもこの部屋が寝にくいわけではない。寝ようと思えば、いつだって、どこだって影山は寝ることが出来る。けれど、及川に抱かれ、背中に傷跡をくっきり残していくとき、二人の間にあった苦しい塊が解けていく気がした。涙があまり出ない飽和した悲しみが、嬌声と共に何処かへするするいなくなってしまうのだ。快楽と共に抜けていく。吐き出した精子の数みたいに爆発して、溜まっていた不純物がいなくなる。
 影山はそういった言い表しのない二人の間にある言語化出来ない感情が緩和されるのが好きだった。セックスというよりも、交わっている最中に訪れる安堵感に身を委ねた。
 抱き合っていると「なんで付き合っているんだ」とか面倒なことを考えないで済む。付き合い出したきっかけなんて、二人で居残りサーブ練習をしていた時、及川に影山から「好きです」と告白した、たったその一言で繋がっていた。及川は慣れた笑みを崩さずに「じゃあ、付き合おうか」と言った。吹けば飛ぶように軽い言葉だというのは、重々承知だったが、及川からされた口付けが思考を消していった。





「嫌なことの記憶っていうのはいつまでも奥に残るね」

 舌先を天井に突き出して、風船を纖な指先で弾き上げながら及川は述べた。風船を叩くたびに、影山のベッドがみしっと軋んだ。練習を終え、二人でこっそり帰宅した。薄暗い影山の部屋には指を慣らすように風船が常に転がっている。
 テーピングされた指先を解いていた影山はゆっくりと双眸を開いて、瞬きをした。ぱちぱち。及川から告げられた初めての弱音だった。

「飛雄ちゃんにはある?」

 風船を放り投げるのを止め、及川は尋ねた。
 嫌なこと、脳内で思いつく限りのことを反復してみる。嫌なことはもちろんある。生きているのだから、しょうがないことだ。不平不満が溜まることも。山のように、どっさり眠っている。嫌なことを受けた時は、心が痛む。きりきりと。胃を攻撃され、頭の中がぐしゃぐしゃに掻きまわされる。他人のペースを乱されているようで苦手だ。けれど、わざわざ、掘り起こさなければならないことでもない。

「ないです」

 と首を振った。
 影山の中に溢れている嫌なことは誰かに吐き出さなくても消化できるものばかりだった。

「そっかぁ。俺にはあるよ。飛雄ちゃん。嫌いで、嫌いで、仕方なくて、けど、忘れられない。俺は自分に嫌なことをされた人間のことを、きっと死ぬまで覚えているんだろうなぁと思う。死ぬまでってすごいことだよね。そう思わない?」
「思います」
「思うんだ。へぇ。うん、俺はずっと忘れない。憎くて、憎くて、どうしようもないんだ」

 
 どうしようもないんだ。という言葉は影山が知る及川にとって珍しいものだった。諦めを孕んだ言葉を及川は好かない。弱音だからだ。そんなもの、今まで聞いたことがなかった。及川はチームの主将で、憧れのエース。皆を纏めるセッター。影山にない技術を沢山、習得している選手だ。バレー以外でも、甘いマスクに女の子は群がる蠅みたく寄ってくる。
 悩みなんかない人だ。もしくは自分なんかに話さない人だ。一人で消化出来る人だと思っていた。だって、影山は今まで抱いてきた悩みを自分一人で上手に消化する方法を知っていた。悩むこと自体、少なく、強引とも取れる手段だったが、悩みなど努力と才能で捻じ伏せてきた。自分が知らない範囲のことを、人間は想像するのは難しい。影山は今まで及川に悩みがあるということすら、見破れなかった。
 けど、影山は嬉しかった。心の中が満たされていった。今まで表面上しか見えなかった及川の輪郭に触れられた気がした。先輩と後輩という対等ではない関係から、片足一本抜けることが出来たと歓喜した。表情には出さなかったがテーピングをすべて取り終え、ごみ箱に捨てた。今まで羽織っていた中学校のジャージを脱ぐと、影山の白く浮き出た鎖骨がみえた。

「ずいぶん、積極的だね飛雄ちゃんったら」
「……すみません」
「責めてるんじゃないよ。いいんじゃない? 可愛くて」

 可愛いと褒められ、影山は頬を染めた。
 ベッドに寄り掛かったまま、及川は影山の腕を引っ張る。
 余裕そうな顔をしたこの人の内面を崩してみたいと影山は傲慢にも思った。口付けを交わし、舌を絡めあいながら、吐息を漏らす。
 及川の膝に乗る様な体勢になった。すでにゆるく勃起した肉棒が服の上から主張をはじめていた。
 精神が蕩けていく中、しかし、そんな風に及川へ思わす人間はいったい、どんな野郎なのかと想像した。なんとなく、女子ではない気がした。上手にあしらう及川が女子のことを、憎むところが想像できない。傍から見ていて誰に対しても本気じゃない態度であることが判る。そういう大人な対応が出来る彼のことを尊敬さえしていた。

「どんな人っ――なんですか?」

 爪を伸ばしながら尋ねる。自分の中に潜む及川の熱が体中に麻薬を齎したみたいに広がっていった。鎖骨の上から見える及川の唇は口角をあげた。笑っているのに、泣いているような不思議な顔だった。もう、どこかへ逃げ出してしまいたいと告げているようで、影山は「これって聞いちゃいけないことだったんじゃ」と今まで、快楽で誤魔化してきたものが、形となって現れる瞬間を垣間見た。

「どんな人だと思う? 因みに、一人だけだよ」

 教えてくれもしない問いかけを及川は漏らした。
 心のどこかで判っていたのかも知れない。誤魔化し続けたままじゃいけないということに。影山と及川の関係には、いつも「それ」が間にあった。出会ったのも「それ」がきっかけ。二人とも中学生なのに、生涯、離れられない相手と既に出会っていた。
 「それ」の正体は及川と影山を知るものなら、すぐに見分けることが出来るだろう。ただ「それ」に愛されていたのは影山の方だった。愛されて、彼も自分の存在意義のように愛し返した。影山が無垢で及川が放つ完成系に近い愛情が光り輝いている時は良かった。けど、及川だけが先に気付いてしまった。自分が持てる限界値があるということに。二つ年下の一年生が、驚くべきスピードで成長していることに。

 もう良いでしょ飛雄ちゃん――キスで舌を封じた。気持ち良いことと一緒にすべてを封印するかのように唾液を飲んだ。




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