夕食には赤が飾る


思い返せばクロから声をかけてきてくれない限り、おれ達の世界というのは、驚くほど交差しない。幼い頃から、部屋の中に閉じこもり、ゲームを無機質に熟していく、おれを外に引っ張り出したのはクロだった。

おれは相変わらずクロがなにを考えているかわからない。ただ、胸の奥底で、どうしようもなく、言い表せない痛みが蛇のように蜷局をまいて居座っているのが判る。痛みの解消法なんてもの、教えられてこなかった。閉じたドアの中で、布団をかぶっていれば、痛みなんてもの、時間が経過すると共に過ぎ去った。そもそも、学生の間に起きる「痛み」なんて耐え抜けば終了してしまうものばかりなのだ。うんうん、学生の間だけじゃない。きっと、おれが生きていく世界において、永遠に変わらないメビウスの輪なのだ。閉じこもっていれば。痛みはない。痛いのは過ぎ去ってくれる。一時の感情なんて、その場限り。今までだって、ずっとそうだったのに、耐え抜くだけじゃ、この痛み回復の兆しを見せないのだから厄介な話。


「研磨――お隣に夕ご飯持っていって」

ベッドで寝転んでいると(練習がせっかく休みなのに、お母さんは容赦なくおれを叩き起こした)階段の下から声がした。お母さん、嫌だよ。お隣といえばクロの家。クロの家と判っているからお母さんは行かそうとするんだろう。最近のおれといったら、休みならベッドへ。帰宅してもベッドへ。お風呂も面倒なんていって、この前、後頭部を引っ叩かれた。
容赦ないお母さんは「寝てるならあんたの恥ずかしいエピソードいうわよ」という脅し文句をつけてきたので、ベッドの上から這い上がって、ぎぃっと軋むドアを押す。おれは一階までぺたぺたと素足のまま降りていき、肉じゃがが入ったタッパーをお母さんから渡された。
おれの家もクロの家も両親は共働き。うちのお母さんは臨時職員なので五時過ぎには帰宅して夕食の準備を始める。お鍋がことこと音をたてる。お母さんの作ったご飯を独りで待っているクロの家まで届けに行くのは珍しい話じゃない。時にはクロも一緒に食卓を囲む。最近、クロが色んな人と付き合いだしてからは、なけどさ。
チャイムを押す
ピーポーンという音が鳴った。同じ居住区にあるから、クロの家とおれの家は、そんなに大きさが変わらない。車を停める車庫が庭にあって、自転車も収納出来る。木を細工して造った扉がニスで艶が出されている。チャイムは「ぴーぽーん」という間抜けな音。
暫く待っても出てこないクロに腹を立てながら、おれは扉をがちゃり、と左に回した。
居ないんだったら置いて帰ってやればいい。どうせ、えみちゃんか、しおりちゃんか、よしこちゃんか、と遊んでいるんだ。
無用心に鍵もかけずに、クロのバカ。うざい。

スリッパを脱ぎ捨てて、台所まで運ぶ。置いておいたら、勝手に食べるんじゃないって吐き捨てながら、一応、メモ帳にお母さんが作った肉じゃがだということを示す。
帰ろうと踵を返すと天井から、妖怪みたいな声色が聞こえてきた。
まさか泥棒なんじゃないのって肩を震わしながら、生唾を飲み込んで、ひっそりとあがっていく。大丈夫。スマフォ持ってきてるから。


「んっ―――ぁ」

クロの部屋から聞こえてきた。クロの部屋は無駄なもので溢れかえっているのに、お洒落に見える不思議な玩具箱を開けたような部屋だ。小さいころ、おれが迷わないようにと(思い返せば過保護すぎるのと、馬鹿にされていることが判る)表札がかかった、間違うはずがないクロの部屋。
おれは扉をあける。軋む音がしない、開放的なクロの部屋には裸体の女子がクロの陰茎を舐めていた。



「く、クロ」

途端にむせ変える。
鼻を切り裂くような香りが過り、口許を両手で押さえた。下腹あたりが痛くなっていて、しゃがみこむ。
女の人は驚いたみたいで「きゃっ」と甲高い声をあげ、ベッドシーツを身体にまといお洋服を着始めた。そのまま、視界からシャットアウトするみたいに、するり海月のようにおれの横を通り過ぎていった。
クロは溜め息を吐き出しておれを見る。なに、なんで、溜め息吐くの。


「せっかく、やる気だったのに」
「ご、ごめん。に、肉じゃが」
「別に研磨のせいじゃねぇって。な、大丈夫か」

ニヤニヤ。
優しさの裏に隠れた笑みを見せる。誰かを貶めようとする眼差しだ。おれには見破られるってクロは知ってる筈なのに。あがる口角を押さえようとはしない。


「クロは、なにが、したい、の」
「別になにもしたくねぇけど。あーーあえていうなら、コレ治めて欲しいかも」

コレと指差したのはクロの陰茎だった。
ばか、なんで、こんな状態で勃起してんの、信じられない。萎えろよ。
な、クロ。


「研磨がしてくれる?」

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