美しい国ですね、とオーエンは呟いた。
オーエンは五十くらいの英国人で、いわゆるお雇い外国人であった。
この度、私の実家の近く、子供の時分私も通った中学校に英語の教師として招かれた。
開化から約二十年、古き国の形が変わったとはいえ、このような片田舎では、東京のようにはいかない。
西洋人には不便も多かろう、ということで帝大を卒業したばかりの私が、通訳として雇われることとなった。
通訳というよりは、オーエンの元で英国を学ぶ書生でもあったし、身の回りの世話をする使用人でもあった。
そうして、オーエンが私の家に身を寄せてから一月。
戸惑いながらも、私はこの、日本を愛する少し変わった西洋人との関係を楽しむようになっていた。
「日本の秋と言うのは美しい。私の国にはないものです」
立派な口髭をたくわえたオーエンは、縁側に座って蜻蛉を眺めながら笑った。
大柄な体に、私の丈の足りぬ浴衣を纏う姿はどこか滑稽にも見えたが、日本に溶け込もうとする彼が、私には微笑ましく見えた。
「蜻蛉がたくさんいますね。妖精みたいだ」
「妖精とはどういったものでしょうか」
「私の国で、森や湖にいる小さな……そう、小さな怪異です。この国の草木に宿る、神のような、ね」
オーエンは日本を愛していて、今私の家に住んでいるのも、本人の強い希望からであった。
とりわけ、日本の古い話、怪異譚や民話を好み、私も知らないような話を語ってくれた。
「日本にも、蜻蛉の神というのはいるのでしょうか」
「さあ、どうでしょう。ただ、古の人々も先生のように、この風景を愛したと思います」
「ほう。何故です」
「日本の歴史書である古事記に、日本を表す秋津島という言葉があります。秋津というのは、古い言葉で蜻蛉です。国に、蜻蛉の島と名付けるのですから、きっと美しい風景なのでしょう」
「ああ、知っています。くにみをすれば、くにはらはけぶりたちたつ、うなはらはかまめたちたつ、うましくにそあきつしま、やまとのくには……でしょう」
オーエンは奇妙な抑揚のついた日本語でそう言うと、万葉集ですがね、と滑らかな英語で呟いて片目をつぶった。
私はその歌を知らなかったので、曖昧に笑うことしか出来なかった。
「私はこの国が好きです。私の国にはない、美しいものがたくさんある」
オーエンは皺にかこまれた青い瞳を少し悲しそうに歪ませて、私の顔をじっと見た。
「他の人には笑われますが、西洋人が日本を愛するのはおかしなことでしょうか。私は……出来ることならこの国に骨を埋めたい」
「英国ではなく、日本でですか」
「私には家族というものがおりません。イギリスに帰った所で一人きりです。それに、ロンドンの風は私に冷たい」
青い瞳に映る夕焼け空は不思議な色をしていて、私は思わず見とれてしまった。
この、一人ぼっちの西洋人は夕日を浴びて、一回り小さく見えた。
「私は日本の言葉を話し、日本の暮らしをし、日本の心を持って、日本人として死にたい。……それはおかしな考えなのでしょうか」
「そんなことはありません」
私は思わず、立ち上がった。
この孤独な、懸命な日本人の心を私は救わねばならぬ。
「故郷が一つでなければならないなど、誰が決めたでしょう。先生の心がこの国にあるなら、ここが先生の故郷です」
オーエンは一瞬、目を丸くしたが、すぐに涙を浮かべて微笑んだ。
「そうでしたね。この国の神々は、異国のものに優しい。私は、それが好きなのでした」
昭君、今日は月見酒をしましょう、とオーエンは私の肩を叩いた。
私は何とも言えない、温かな気持ちになった。
大八洲
(彼の海を越えて)
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お題:秋津
110828 青人草
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