車軸の如き雨の中、男が私のいる茶屋へ飛び込んできた。

私の叔母の家に近い、そこそこ名の知れた寺を訪れる客の為の茶屋に私はいた。
雨の日にわざわざこのような田舎にやって来る物好きが私の他にもいたか、と思ったが、入口近くにも客が一人座っていた。案外普通の考えなのかもしれぬ。
男はぽたぽたと水を垂らしながら、居心地悪そうに立っている。
見たところまだ若い。青年というより少年か。
黒く焼けた肌に着物は薄汚れ、荷物も何も持っていないので、遊山に来たという雰囲気ではないようだ。
しかも茶屋に来るのは初めてのようで、せわしなく辺りを見回すばかりである。
見かねた女将が笑いながら手拭いを持ってきた。
「あんた、何だってこんな雨の中。医者さまでも呼びに行ったのかい」
少年は荒っぽく髪や顔を拭くと、静かに首を横に振った。
「……虹を」
探しに来たんです、と少年はくぐもった声で言った。
女将はどう思ったのだろう。へえ、とかふうん、と言ったきり奥に引っ込んでしまった。
座って良いのか分からないのだろう。少年はそのまま立っていた。
足元には滴る水の作った染みが出来ていく。
しかし、虹を探すとはどういうことなのだろう。
虚言か冗談か、それとももしやこの少年は文学被れだろうか。
私の中の好奇心がむくり、と芽を出した。

「虹を探す、とは本当ですか」
しかし、私がかすかな疑問を口にする間もなく、入口近くに座っていた男が少年に問いかけた。
「虹ってあの、空に架かるやつでしょう。君はどうして虹を探しているんですか」
男は穏やかな声でそう問うた。
開襟に鼠色の洋袴の若い男は、その瞬間だけ幾十年を生きた老人のように見えた。
「私は本の行商をしています。職業柄、君の助けになるかもしれない」
静かな笑みを浮かべながら男は言った。
その声には不思議な響きがあった。水のように静かに此方の心の中へ入ってくるような声音だった。
「俺は、近くの村で、お屋敷に奉公しています」
少年はその声に引きずり出されたように、自分の境遇を語り始めた。
「お嬢さんは、お体が弱くていつも臥せっています。でも、俺にだって話しかけてくれる優しい人だ」
そこで少年はごくん、と喉を鳴らした。
話すことはあまり得手でないのかもしれない。
「来月、お嬢さんは隣村に嫁ぐんです。それが決まってから、お嬢さんが言ったんです。虹の根本に埋まってる石が見たい、って。俺は学が無いからそれが本当かは分からないけど、お嬢さんの為に探しているんです」
「しかし、そう急いで探すものではないでしょう。君は何だってそんなに焦っているんだい」
「焦っている訳では」
「私には分かる。君はもう三日も虹を探している。村には帰らなくて良いのかい」
男は少年を見てきたように言った。
それが本当だったのだろう。少年は黙ってうつ向いてしまった。
「……実は、お嬢さんは、もう長くないと、言われています。嫁ぐのだって、旦那様が、娘らしいことを、してやりたい、って」
ぽたぽた、と少年は涙を溢しながら、声を絞り出した。
少年は心からその娘を慕っているのだろう。
素朴な関係なだけに、彼らの置かれた状況が哀しい。
少年も男も、それきり黙ってしまった。

「……虹は昔から竜だと言われてましてね」
雨の音が聞こえない。いつの間に止んだのだろう。
男は紙巻を取り出すと、唐突にそう言った。
「雄を虹、雌を霓と言います。虹霓はこの季節に、稀に交わって卵を産むことがある。そのお嬢さんが言うのはそれでしょう」
煙草を燻らせながら男は語る。
雨はすっかり上がって、初夏の日差しが店の中にも入って来た。
しかし、微笑む男の回りには何かが纏わり付いているかのように薄暗い翳があった。
一体この男は何者なのだろう。
一瞬だけ、この男がヒトではないものに見えた。
「信じるか信じないかは自由ですがね」
少年も私もそのまま動くことが出来なかった。
男が語った不可思議な話が、私の心を捕えて離さない。
男の語り方にはそれを確かめさせるだけの引力があった。
果たして、少年はこの話を信じるのだろうか。
「では、私はこれで」
男は最後にそう言うと、おもむろに足元に置いてあった荷物を背負って何処かへ歩いて行った。

何れ程の時間が経ったのだろう。
少年は弾かれたように外へ飛び出すと、何処かへ駆けていった。虹を探すのだろう。
思わず彼の後を追って外に出た私は、彼の姿より先にのろのろと歩く先程の男を見つけて驚いた。
目に染みる緑の中、やはり男の姿だけは薄暗い。
声を掛けると、男は柔和な笑みを浮かべて私を見た。
「やあ、先程はお見苦しい場面を」
「いえ、それよりもその、あの話」
私は虹の竜が見たかったわけでもなく、少年の願望を遂げるのを見たかったわけではない。
単に己の好奇心に負けただけだけだ。
「本当ですよ、勿論ね。ただ虹霓は雨が降りそうにならないと来ません。卵も産むか分かりませんし」
それがさも真実であるかのように、男はさらりと言ってのけた。
「さっきの彼は山の上に行ったようですが、その方が雨は降るかもしれない。運が良ければその内見れるでしょう。貴方も行きますか」
「……私には貴方の話が本当なのか分からない。否、むしろ作り話に聞こえる」
「ははは。それは良く言われることだ」
私の無礼な言葉も全く気にせず男は笑うばかり。
おかしなことに、私は子供のようにわくわくした。
「しかし、今回ばかりは私の言葉は信用してよろしい。そら、雨の匂いもするでしょう」
男は鼻をひくつかせたが、私は何も感じなかった。
そんな様子を見て、男は一層目を細めて唇の前で指を立てた。

私が眉をひそめたその瞬間、ぐおおおん、と何かが唸る声が聞こえた。
一瞬、鐘の音かと思ったが、もっと低く美しい。

もしや、と思い空を見上げるとそれは確かにつがいの竜であった。
絵画で見るような体を悩ましげに、苦しそうに互いに絡ませている。
どちらが雄かはわからなかった。
しかし両方とも、鱗をきらきらと虹色に輝かせながら山の方へと飛んで行った。
ああ、あれが虹霓だな、と自然に理解した。

「良いものが見れたでしょう」
暫く空を眺めていた私は、男の声で我に帰った。
全身が痺れたようで、何も考えられない。

男は満足気に笑っている。私はどんな顔だろう。
幻覚ではない、確かに真実だ。
私達も虹の根本を探しましょうか、と男が言ったので、私は笑ってしまった。

少年はきっと卵を手に入れただろう。
私は久しぶりに、ひどく幸福な気分になった。





虹待ち
(理へ連なる)
(原始の鼓動)


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お題:虹待ち
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