くすんくすん、と鼻をすする音が部屋に響いていた。
声の主は少年。
仕立ての良い、汚れなんて一つも無い服で、膝小僧には青痣も擦り傷も見えなかった。
部屋の中には玩具らしい玩具なんてなく、小難しそうな本がみっしり詰まった本棚の隅に小さなブリキのロボットが置いてあるだけだった。
ドアには鍵がかけられ、少年の小さな机の上には分厚い本が何冊も積み重ねられていた。
少年がその机に突っ伏してさめざめと泣いていたその時、窓からこんこん、とガラスを叩く音がした。
窓の外を見た少年は驚いた。
見知らぬ少女が、窓の側の木に登って笑っていたからだ。
開けてよ、と口の動きが言っているようだったので、少年は辺りを見渡して、袖で目をごしごし擦ってからそっと窓を開けた。
「ありがと」
少女はそう言って窓の所までぴょん、と跳んでそこに腰かけた。裸足の足をぶらぶらさせている。
亜麻色の髪を三編みにしたそばかすのあるその少女はにっこり笑って、少年に持っていた林檎を投げた。
少年はどきどきした。
窓から女の子がやって来るなんて初めてだった。
「ねえ、あんた何で泣いてたの?」
「そ、それより君はだれ?」
「あたしはエミリー。いつもこの辺で遊んでるの」
きっとお転婆なんだろう。淡い水色のストライプのワンピースには、泥が少し付いてていた。
「あんたの名前は?」
「ぼ、ぼ、ぼくはアルバート……」
エミリーのあけっぴろげな態度にびっくりしながら、アルバートは答えた。
「ふうん。でもあんたの顔は見たことないわ。いつも家の中にいるの?」
「……ぼ、ぼくは勉強しなくちゃいけないから」
「勉強なら学校でするじゃない」
「でも、ママが……この本を読むまで部屋から出ちゃいけないって……」
「なあにそれ?変な話だわ」
エミリーは大袈裟に肩をすくめて言った。
「あんたのママはあんたをどうしたいのかしら?それじゃあ頭のかたくて、へんくつなスコット先生みたいになっちまうわ!」
それから口を尖らせて、あんたも何か言い返しなさいよ、と言った。
「でも……怒られるのはこわいもの」
「もう!あんたっていくじなしなのね!」
エミリーは窓からすとん、と部屋の中へ入ると、アルバートの腕をしっかり掴んで引っ張った。
「さあ、今から木登りの練習するわよ。あたしがあんたを一人前にしてあげるわ!ね、いいでしょ?」
「だ、だめだよ!ママが見たら何て言うか……」
「本当に甘えん坊ね、あんたって。ママがいないとなんにもできないんだわ!」
こんな風にからかわれたのは初めてじゃなかったけれど、女の子に言われたのは初めてだった。アルバートは自分が情けなくて涙が出てきた。
でも、どうしてだろう。
この瞬間、アルバートはママに怒られることや、読まなきゃいけない本のことはすっかりどうでもよくなって、とにかくこのお転婆な女の子を見返してやりたいと思った。
溢れそうになる涙を袖で拭うと、できるだけ大きな声でアルバートは叫んだ。
「ぼ……ぼくだって木登りくらいできるさ!」
本当は一回もやったことがなかったけれど、女の子にだって出来るんだから、自分にだって出来ると思った。
アルバートは靴と靴下を脱ぎ捨てると、エミリーの顔を真正面から見つめた。
エミリーはにやっ、と笑うと元気良く木の枝に飛び移った。
「あんた、ただの弱虫かと思ったら違うのね!」
「ぼくだって、い、一人前の男になりたいんだ」
「いい?一人前の男っていうのはママの言うことなんか素直に聞かないの。だから帰ったときは玄関から堂々と入ってやるわよ!」
そう言ってエミリーは大声で笑った。
もしそうしたらママはどんな顔をするだろう。
アルバートはいつも怖い顔のママが目を丸くする様子を想像して、エミリーと同じくらい大声で笑った。
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