初めて男同士のキスシーンを見た。生で。
いつもの放課後、ただ部室へ行くのに近道をしたかっただけだった。
男子高だからそういうのあるかもよー、なんて姉に言われてたけど、実際に見たのは初めてだ。
場所はベタに体育館裏。
一人は知らない奴だったけど、もう一人は知ってた。
同じクラスの竹崎だった。
そういえば噂で聞いたことがある。
竹崎はメロンパン一個でキスしてくれるらしい、と。
そんな馬鹿みたいな噂絶対嘘だと思ってたのに、まさか本当なんだろうか。
固まっている俺に気付いたのか、片方の奴は用を済ませるとそそくさと逃げるように去っていった。すれ違いざま、何故か睨まれた。
竹崎はぼうっとしたまま立っている。
綺麗だ。素直にそう思った。
肌は血が通ってないみたいに真っ白で、眼はガラス玉みたいで、睫毛は長くて、肩の辺りでふわっとした栗色の髪はさらさらで。
全体的に小柄で華奢だから、人形みたいだった。
「竹崎」
体育館の影が、ますます竹崎を無機質なものに変えているようで少し怖かった。
だから、俺は特に親しい訳でもないのに声を掛けてしまった。
「……大原」
ふっ、と糸が切れるようにして竹崎に生気が戻った。
男にしては高い、けれどやっぱり美しい声を聞いて、何故か俺はほっとした。
「な、何してたんだよお前」
「別に何も」
「何だよそれ」
「大原には関係ないじゃん」
ごく月並みな質問をしたのに、ここまできっぱり言われてしまった。なんだか理不尽だ。
俺は気まずくなって、無意味にもじもじしてしまった。
竹崎はすとん、とその場に座った。俺も隣に座った。
「……お前いつもあんなことしてんのか」
「何のこと」
「メロンパン1個だろ」
返事があるとは思わなかったから、竹崎の顔は見ないで言った。
「知ってるんだ」
「噂だよ」
ふうん、と竹崎は言った。
少しの間、沈黙があった。
「なあ、もし俺が110円払ったら。キスしてくれるのか」
そう言ってから、いくら気まずさに耐えられなかったからってこれはないと思った。
これでは、まるで俺がキスしてもらいたいみたいだ。
「いいけど……ちょっといやだな」
「何でだよ」
「だって、いい人そうだから」
「意味わかんねー」
「そうやって理由聞いた人、多分大原だけだし」
「他はいないのかよ」
「いないよ。大原、心配してくれてるの?」
俺はどきりとして、少し照れて、いらいらした。
確かに心配してはいるけれど、それを竹崎本人に言われるのは嫌だった。
「だって、お前キスより先とかどうするんだ……よ」
「ぼく、そんなことしない」
「相手は分かんねーだろ」
「大原はそんなこと思うの?」
「俺の話じゃねえよ!」
つい怒鳴ってしまった。
駄目だ。こいつと話すと調子が狂う。
別に怒った訳じゃないんだ。俺がそんなことを考えるなんて、竹崎に思われたくなかっただけなんだ。
恥ずかしい。
こいつが、多分あまりにも純粋すぎて、俺が惨めに見える。
「……ごめん」
「別にいいよ」
俺は馬鹿だ。
気まずい空気をどうにかしたかった筈なのに、まるで逆効果だ。
「でも、ぼく大丈夫だよ」
「何で分かるんだ」
「大丈夫なの」
しかし、竹崎がその長い睫毛を一回ぱちりとまばたきさせた瞬間に、いとも簡単に空気は変わってしまった。
甘ったるくて、頭の中心ををくらくら揺さぶるようなそんな空気にだ。
「ぼくの秘密、大原には教えてあげる」
甘い。俺には甘すぎる。まるで身に余る。
頭のてっぺんから砂糖水を浴びているようだ。
「ぼく、鋼鉄の処女だから」
「処女ぉ?」
恥ずかしそうに、しかしどこか誇らしげに竹崎は囁いた。
俺はくらくらしていた上に、馴染みのない単語を聞いて、頭がパンク寸前だった。鋼鉄の処女というストレートな表現が淫靡に聞こえたのかもしれない。
「ぼく、足が悪いんだけど、ほらこれ、何だか鍵みたいでしょ?」
貞操帯っていうのかなあ、と言いながら竹崎は俺の手を自分の膝の上に置いた。
確かに金具のようなものがあった。関節が悪いのだろうか。
体育は休みがちだったが、足のことは何も知らなかった。
しかし、残念ながら俺にはテイソウタイと言うのが何のことなのか全くわからなかった。背徳的な匂いは感じたけれど。
「だから大丈夫。たぶん」
竹崎はそう言うけれど、俺にはこの奇妙な何かが役に立つとは思えなかった。
「何で110円なのか教えてくれ」
気付いたら俺はそんなことを聞いていた。何でだろう。やっぱり調子が狂う。
「ただじゃ安いし、もう少し取ったら高いでしょ?」
「何が」
「僕の値段、だよ」
メロンパン1個で十分だったんだ、と竹崎は呟いた。
「ぼくは自分を売り飛ばしたかった。よくわかんないけど、ばらばらに切り売りして、最後にどうなるのかなって思った」
「やってみて、どうだった」
「あんまり楽しくないよ。優しさがないから」
そうして、竹崎はぎゅっと強く俺の手を握った。俺は露骨にびくりと震えた。
「キスさせて」
耳元で竹崎の声がする。
甘い、甘い。耳が溶けてしまいそうだ。
「お金はいらない。もうやめるから、ぼく大原がいい」
「お、おお俺が何だよ。お前、何言って」
「ぼく、何がしたかったのかわかったよ」
その先を言うな。
それは毒だ。
俺の心に刺さって、きっとじわじわと染みていく。
俺は固く目を瞑った。
「い、一回だけなら」
なのに何を言っているんだ俺は。馬鹿なのか。
案の定、その途端竹崎の唇が俺に触れた。柔らかかった。甘い匂いがした。
「一回だけなの」
もう駄目だ
毒は回ってしまった。
抗えない。もう治らない。
踏み止まらなくてはいけない。
だけど、出来ない。
天然だから、どうしようもないんだ。
「……また明日、ここに来る」
言ってしまった。
竹崎は天使のように微笑んだ。
俺は、どんどん深みに嵌っていく予感がしたが、見なかったことにした。
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