水泳部のエースだった彼女は、水よりも空が好きだった。
「絶対にね、水の中より気持ち良いと思うんだ」
「何が?」
「空を泳ぐこと」
「……ふうん」
「特に夏の、あおーい空なんて最高だと思うな」
それは帰り道でのいつもの会話だった。
彼女はにっこり笑いながら、毎日そう話すのだった。
「……泳いでみたいなあ」
そして、別れる直前になると空をじっと見つめて、そう呟くのだった。
しかし、青い空も、青い水も私には同じようなものに思えた。
だから、私はいつも何も言わずに黙っていた。
否、それよりも私が彼女に同意したら、彼女が何処か遠くに泳いで行ってしまう気がしたのだ。
我ながら馬鹿だと思いはしたが、その時はそれが本当になるとは思わなかった。
それは、いつもより少し早い朝のこと。
彼女が朝練をすると言うので、私もそれに合わせて一緒に登校することにしたのだ。
とても暑い日だった。
それと今でも、彼女が水着の入った袋を振り回す姿を覚えている。
「あれ……」
突然、彼女は青いバッグの回転を止め、その場に立ち止まった。
そしてすっ、と青く澄んだ空の果てを指差したのだ。
それは鯉幟だった。
もう六月だというのに、色取り取りの鯉幟が空にはためいていたのだった。
「……え?」
いや、よく見るとはためいているのでは無かった。
泳いでいたのだ。
真っ青な空の中を悠々と、まるで王者であるかのように鯉幟が泳いでいた。
鱗をきらきら光らせながら、大きいのから小さいのまで皆嬉しそうに泳いでいたのだった。
その光景はぞっとする程美しかったが、同時に大きな不安が沸き上がってきた。
私は、これはこの世のものでは無い、と直感的に悟ったのだ。
それからすぐに、彼女をそれから離そうと思ったがもう遅かった。
「行かなくちゃ」
待って、行っちゃ駄目。
本当に突然だった。
私の声も虚しく、彼女は素早く靴と靴下を脱ぎ捨てると地面を蹴った。
すると彼女の体は、ぽうん、と空へ跳ね上がった。
重力など一切無視して、彼女は空の高みまで跳んだのだ。
まるで何かに引っ張られたように。
後は見ているだけしか出来なかった。
彼女は、そのまま鯉幟の所まで泳いで行くと、じゃれ合うようにしながら透明な空の果てへと消えていった。
とても幸せそうに、制服と黒髪をたゆたわせながら。
やがて、彼女の鞄と空を見つめたまま固まった私は、彼女の消えた理由や状況について後から色々聞かれた。
しかし、誰にも本当のことは言っていない。
大人達にたくさん怒られたが、信じて貰えないから仕方が無い。
今でも夏になると、鯉幟と泳ぐ彼女を見かける。
最近、私は空を泳ぐ彼女が金魚に見えるような気がする。
制服の赤いスカーフがひらひらと、青い空にはためくからだ。
美しくて、とても遠い。
彼女は夏の生き物になってしまった。
だから、彼女はもう二度と戻らないだろう。
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旧・捧げ物
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