nostalgia

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梅花に初恋、蝶結び。


 びゅる、と厳しい寒風に頬が強く嬲られる。嗚呼寒い、と呟く気もないのに言葉が口を衝いて出た。上着のポケットに両手を深く突っ込んで、猫背になりながら風を避けるようにして歩いて行くと、……冷たい冬の空気に紛れて、仄かに甘い、早春の匂いが鼻腔を擽る。

 はて。縮めていた首を伸ばして上を仰ぐと、頭上にかかる枝に小さな白が綻んでいた。控えめで愛らしいその花に、もうそんな季節かと、少し驚く。


「……梅だ」


 よく見れば、ほんの少し先のところで、赤い梅も咲いていた。ついこの間まで雪が電車を止めていたというのに、もう鼻先まで春が足を伸ばしているらしい。一つその印に気が付けば、陽光の射し方も随分と春めいていたことにも意識が向いた。

 ううん、これじゃうっかり桜の時期も逃しかねないな。そんなことを思いながらポケットからスマートフォンを引っ張り出して、カメラのアプリを起動する。被写体は白梅だ。普段は食べ物しか撮らないわたしにすれば、随分と優雅な撮影である。

 ぱしゃりと一回シャッターを切り――というより撮影のボタンを押して、満足の行く出来に仕上がった写真にうんうんと頷いた。そのまま再びスマートフォンを仕舞い込み、ゆったりとした歩調で歩き出す。せっかく梅の花に気付いたのだから、たまにはゆっくりと歩くのもいいだろう。

 白や赤の花たちは、清々しいほどに青い空の色がよく似合う。上機嫌で鼻歌なんかを口遊んでいると、ぽん、と肩を軽く叩かれた。

――うわ、誰だ。ていうか今の聴かれた?

 途端に襲い来る羞恥とそれによる気まずさに、わたしは恐る恐る振り向いた。しかしそこに立っていたのは見知らぬ人で、一瞬きょとんと言葉を失う。それから少し遅れて更に強烈な羞恥心が湧いてきた。

 ……どうせ知り合いだろうと思っていたのに、見知らぬ相手だったとは。知人でも鼻歌を聴かれるのなんて恥ずかしいのに、知らない相手なら羞恥はより一層上回る。


「あ、やっぱり咲紀ちゃんだ。遠目で見たから自信なかったんだけど」


 しかしこちらの心情など気に掛けた様子もなく、わたしに声を掛けた青年はあっけらかんと白い歯を見せて笑う。良かった、合ってて。なんて宣うが、――待って、誰だ?

 柔らかそうな、少し明るい茶色の短髪。清潔な印象を与える白いシャツの上にこれまた茶色のカーディガンを羽織っていて、まだ早すぎる春の装いをしていた。身長はあまり高くない、わたしより頭が半分上にあるくらい。身体は随分と痩せぎすで、その薄っぺらな体躯がより一層彼を寒そうに見せている。年の頃は、――わたしより五つほど年上、くらいだろうか。

 うん、やっぱり知らない人だ。どれだけ記憶をひっくり返してみても、検索にこの人が引っ掛かる気配は微塵もない。

 ……でも、それならどうしてわたしの名前を知っているのだろうか。それに、笑うときゅっと細まって目尻に皺の浮かぶ、一重で優し気なあの目元を見ると、心の隅が密かにざわざわと蠢き出す。懐かしい、と声を上げる自分がいた。


「……ええと、」


 どちら様で。……と訊くより先に、彼の眉毛が寂しそうに垂れ下がる。どうやら憶えていないのが顔に出ていたらしい。そっか、そうだよねえ、などと呟いている。


「そりゃ憶えてないよね、咲紀ちゃんが小さい頃のことだし…………」

「小さい頃…………」


 アバウトすぎる範囲に首を傾げつつ、相手の顔をじぃっと見つめる。……暫くして、脳裏に過ぎる記憶があった。


 柔く、ふっくらとした幼い手が、靴紐を結ぼうとしている映像。けれど、その鱈子のような指では上手く結ぶことが出来ず、蝶結びは歪な形になった。潤んで揺れる視界、――これは幼いわたしの見た映像だ。

 そこにすっと、華奢な子供の手が過ぎる。まだ小さいが、それでもわたしのそれと較べればずっと大きい手だった。その手は器用に動いてすぐに靴紐を結び直す。もう片方の靴紐も、同じように結ばれた。輪の部分が左右対称の、きっちりとした蝶々結び。

――咲紀ちゃんは相変わらず、蝶々結びが下手だねえ。

 優しい声が降ってくる。笑みを含んで柔らかく響く、高い音。まだ声変わりを迎えていない少年の声。声に釣られて顔を上げると、はにかむように微笑んだ少年がいた。ただでさえ細い目が、笑うとまるで糸のようになって眸を隠す。まだ幼いというのに目尻には笑い皺が二本うすぅく刻まれていた。その顔が、わたしはとても、好きだった。



「………………あ、」


 目の前の人の顔が、その少年と重なった。はるくん、と懐かしい響きが口から零れ出る。すると彼――はるくんは、先ほどの寂しそうな表情から一転し、嬉しそうに顔を綻ばせた。それはもう、周囲で甘い香りを漂わせる梅の花のように。


「そうそう! 良かった、思い出してくれたんだねえ」

「うん……」


 だいぶ彼方にある記憶でしたけど、とは、その嬉しそうな顔を見るととても言えない。わたしは曖昧に頷くことでお茶を濁した。

 はるくんは、わたしがまだ三歳とか五歳とか、それくらいの頃のお隣さんだった。とはいえ、歳も離れているし年齢も違うから、積極的に遊んだりした記憶はない。ただ母親同士がそれなりに親しかったので、親に連れられ、互いの家に遊びに行くことは間々あった。

 大人しい部類だったとはいえ、それでも小学生男子なんてやんちゃ盛りだ。きっと幼いわたしのことなんて放っておいて、外に遊びに行きたかったに違いない。しかし、それでもはるくんは、お喋りに耽る母親たちのために、一生懸命わたしの相手をしてくれた。そういう、優しい人だった。

 ……だから思い出せたのかもしれない、とにこにこ笑う彼を見て思う。まるで春の陽だまりみたいなおっとりした人。幼い日の面影を色濃く残し、彼は大人になっていた。

 むしろはるくんはどうしてわたしに気付いたんだろう。言っちゃ何だがわたしは幼い頃の面影を残しているとは言い難い。小さい頃は人見知りもせず、快活で、かなりお喋りな性分だったらしいが、今はそれとは正反対だ。暗いし、地味だし、オタクくさいし。というかオタクだし。幼い頃は悪くなかった目付きも今では極悪。昔の知り合いが見て、すぐにわたしだと気付く人は多くない、と思う。

 なのにどうして、という気持ちを込めて見上げれば、はるくんは僅かに首を傾げた。……まあ当然だ、伝わるわけがない。若干億劫になった気持ちを軽くため息に載せ、わたしは「どうしてはるくんはわたしに気付いたの?」と問うてみた。

 かつての知人……恩人? に対して失礼な態度なのは百も承知だが、かといってどう接すればいいのかも判らない。知らない人でないのは確かだが、だからといってすぐに打ち解けられるほど近いわけでもない。測るのが難しいこの距離感は、友人の少ないわたしにとっては中々に難しい。


「え、すぐに気付くよー。だって咲紀ちゃん、変わってないから」


 しかし、はるくんは何気ない風情でそう言った。え、と反射で声を上げる。気付かず姿勢も前のめりになった。それに対してはるくんはさり気なく一歩後退り、今までと同じだけの距離を開ける。

 別段その行動で傷付くようなこともなかったが、嗚呼やっぱり彼も距離を測りかねているのだな、ということは察せられた。


「……えっと。わたし、結構小さい頃とは変わったって言われ……ます、けど」

「ふふ、ぎこちないなあ。別に無理して敬語じゃなくていいよ、咲紀ちゃん」


 どういう口調で話したものか迷って曖昧に敬語を付け足したものの、小さく笑って流される。どうやら敬語を使い慣れていないことも筒抜けらしい。


「……じゃあ言い直す。わたし、親からも小さい頃とは別人みたいだって、よく言われるけど。どうしてわたしだって判ったの?」

「うん、そっちのほうが咲紀ちゃんっぽいよ。…………ん、ていうかどうして、かあ……。言葉にするのは難しいけど……」


 言葉が途切れ、二人の間に沈黙が降る。はるくんは首を捻ったり腕を組んだりして考えている様子を見せるが、具体的な言葉がその口から出てくることはない。……別にそこまで深く悩まずとも、とは思うものの、この生真面目さはおそらく元来の気質なのだろう。特にこちらから言うこともなかったので、わたしはそこで風に晒されて馬鹿みたいに突っ立ったまま、彼の答えを待っていた。

 そうしてからどれくらいが経ったのか。随分と長い時間に感じられたけど、きっと時間に直せばほんの一、二分くらいのことだろう。ようやく組んだ腕を解いた彼は、少し厳めしい顔つきになってぽつりと零す。


「……なんと、なく?」

「……はあ。何となく」

「うん、何となく。何となく、あー咲紀ちゃんだなあって、気付いた」


 あれだけ考えて結局それか、とか、それだけの答えを出すためにあれほど粘ったのか、とか、色々思うこともあったが、とりあえずそれらは一旦呑み込んだ。そうして鸚鵡返しに言葉を返す。すると彼は、はっと何かを思いついたような顔をした。


「横顔だ」

「…………横顔?」


 やっぱり何を言うことも出来ず、言われたことをそのまま返す。はるくんはそんなわたしの対応にも然して不満はないらしい。……否、不満は感じているのかもしれないが、それよりも自分で気が付いたことにテンションが上がっているようで、嬉々として話し始めた。

 おっとりと話していたその声が、僅かに勢い付いて滑らかになる。まるで興奮して捲し立てる小学生男子みたいだ。


「あのね、咲紀ちゃん、梅の写真を撮っていたでしょう。そのときに見えた横顔が、小さい頃のままだったなあって。宝物を見つけたみたいにきらきらしてて、……うん、子供っぽいって言ったら失礼かもしれないけど、純粋っていうか、そんな感じで。だから、嗚呼咲紀ちゃんだって気が付いて、嬉しくなって話し掛けちゃったのかも」


 失礼も何も、わたしは今現在進行形で貴方を小学生男子みたいだと思っていますよ、なんて。勿論声には出さず、わたしは彼の説明を聞いていた。

 そもそも、きらきらだとか純粋だとか、自分を形容する言葉としてそれらが用いられること自体初めてだ。横顔が子供っぽい、なんて、言われた記憶も他にはない。自分から聞き出しておいて失礼な話かもしれないが、言われてもあまりピンと来なかった。自分の横顔なんて、自分の目から見たこと、一度もないし。

 何を言ったものか判らずに、わたしは一言、そっか、と呟く。そんな投げ遣りの相槌にさえ、彼は律儀にそうだよと返した。それから照れたように笑って頬を掻く。結構恥ずかしいこと言ったね、俺。……なんて、今更すぎる恥じらいではなかろうか。


「あ、でも咲紀ちゃんはあれだね。当たり前の話かもしれないけど、お姉さんになった」

「まあ……飲酒も喫煙も合法の歳だしね」

「うん。綺麗になったね」


 さらりと贈られた賛辞に思わずそっと視線を逸らす。彼の背後、梅の木の枝に乗って、名前も判らない小鳥がぴいぴいと鳴いている。頬が僅かに熱くなる、――社交辞令だと判っていても、貰い慣れていない褒め言葉は心臓に聊か悪い。

 梅の花が咲く春の朝、幼馴染に再会してこんなことを言われるなんて、随分と少女漫画じみたロマンスだ。彼に恋もしていないわたしには、あまりにも不似合いすぎる。


「…………どうも」

「ふふ、うん。どういたしまして。……だけどやっぱり、変わってないなあ」


 骨ばった指先が、すっとこちらの胸元まで伸ばされる。爪の先がこちらに触れるその直前、わたしは無意識に身を引いて指を躱した。あ、と気が付いても既に行動してしまった後では遅い。髪を乱す冬の風が、一層冷たく身体を苛んだように感じられる。

 ぱっとはるくんを見遣れば、彼はきょとんと目を丸くしたまま動かない。それからじわじわと罰の悪そうな顔になり、申し訳なさそうにごめん、と言った。下心が一切ないが故の行動だったのだと、察するにその声音は充分すぎた。


「そりゃいきなり触ろうとしたら嫌だよね……ごめん。その、…………服のリボン、解けてたから」

「え?」


 言われて視線を落とせばなるほど、確かに胸元の飾りが解けてみっともない形に緩まっている。彼はこれを直そうとしてくれたのだろう。単純な好意を拒否してしまったわたしは彼よりずっと罰が悪くて、リボンを指先で摘み無言で解いた。

 変わっていないというのは、つまり蝶々結びが下手くそだと言いたいのだろう。昔のわたしはどうしても靴紐を結ぶのが苦手で、周りみたいに綺麗な蝶の形を結べなかった。輪の大きさも非対称、しかも縦になったそれは見るからに不恰好で、悔しくて泣いたことを憶えている。

 想い出に浸りながら手早く蝶を結んだ。教えてくれてありがとう、と顔を上げる。するとはるくんは、少しだけ驚いたような、少しだけ寂しいような顔をしてこちらを見ていた。


「……やっぱりお姉さんになったんだねえ」

「そりゃ、幾ら何でも蝶結びくらいはもう出来るって」

「うん、そうなんだけど。でもどうしても、俺にとっては靴紐を結べない咲紀ちゃんってイメージが強くって」


 風が吹く。梅の枝が大きく揺れた。彼の纏ったカーディガンの裾がはたはたとひらめく、――あ、風が春のものに変わった。

 はるくんは相変わらずはにかむように笑って、昔より笑い皺を多く目元に刻む。昔は随分遠かったはずの目線がぐっと近付いていたことに遅ればせながら気が付いた。濃く面影を残していても、それでも彼はやっぱり知らない男性だ。

 彼が自分の初恋であったのに気付いたのは、彼を遠く感じたその瞬間だった。知らぬ間に始まって、知らぬ間に終わっていた初恋が、春一番に攫われる。


「――蝶結びが、上手になったね、咲紀ちゃん」


梅花に初恋、蝶結び。
もう靴紐を、貴方に結んで貰うこともないということ。

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