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愛しい貴女はもういない


 髪を、切った。元々は背中を越す程度に長かったわたしの黒髪、ずっと伸ばし続けた自慢の髪を。ばっさりと、耳が見えるほどに短く、切った。耳朶の下では、しゃらりと輪のピアスが揺れている。

 如何ですか、と美容師さんに訊ねられたとき、わたしはただ頷いた。男の子のようになったその髪型が、自分に似合うとはあまり思えなかった。見慣れていないせいかもしれない。街を歩くときだって、ショーウィンドウがあればそれをじいっと見詰めたし、鏡があればやはり自分を凝視した。穴が開くほど見詰めても、髪型はどこかわたしから浮いているように感じた。

 かつん、と足元のコンクリートを自分の踵が叩く音。どこか高圧的なその響きだって、わたしには充分不似合いだから、どうしようもない。項に潜り込んだ冷たい風がコートの下の身体をぶるりと震わせる。


「――姉さん」


 無意識に零れ出た声は、まるで幼子のように頼りない。その音を耳で拾って、じわりと視界が涙で滲んだ。ぐっ、と唇を噛み締めて、たぷたぷに潤った膜を維持する。

 泣いてたまるか。姉さんだったらきっと、この程度のことでは泣かない。涙で化粧を落とした顔なんて見たこともない。凛と胸を反らした姉さんの姿が脳裏に浮かび、せめてもの意地とばかりに真似してぐうっと背筋を伸ばす。

――わたしの憧れた鏑木小百合は、誰の目からも気高く、目が痛むほど鮮明で、この世の何より美しい女性(ひと)だった。


   ***


 幼い頃から、鏑木小百合の名を知らない者は、周囲に誰一人としていなかった。

 容姿端麗、頭脳明晰、文武両道。まるで物語のキャラクターのように一点の曇りもなく完璧なその人は、わたしの実の姉だった。姉とはいっても年子だから、年齢は一つしか違わない。けれど、わたしが苦労して行く道の先を悠々と歩く、それは姉と呼ぶに相応しい背中だった。


「貴女は貴女の好きなように生きていいのよ」


 小百合ちゃんの妹さん。そう呼ばれるわたしを憐れんだのか、姉さんは時折そう言った。なるほど、わたしは確かに、姉さんの恥にならないように気を付けて生きていた。憐れまれるのも納得かもしれない。だけど、当時のわたしには、姉さんが何を憐れんでいるのかが判らなかった。

 だってわたしは、充分自分の好きに生きていたから。姉さんの妹であることが誇りだった。姉さんがわたしを紹介するとき、口籠らないでいてくれるだけで胸がいっぱいだったから。わたしの人生の基準は全て、鏑木小百合、その人だった。

 姉さんの視界に入りたくて、姉さんの役に立ちたくて、それだけでわたしはこれまで生きてきた。これからもそうするつもりだった、なのに。


「妊娠したの、私」


――唇を一文字に引き締めて、下腹部にそっと手を添えた彼女の姿は、まるで知らない女のようだった。

 相手はどこの馬の骨とも知れぬ、浮ついた大学生らしかった。サークルの飲み会で深酒をした晩、意気投合した相手とそのまま流れでホテルに入り、そのまま関係を持ったのだという。よくある話だ、珍しくもない。……それが、わたしの姉さんでなかったら。

 思い当たる日はあった。今から二カ月程度前、姉さんが初めて無断外泊をした夜。朝になって帰ってきた姉さんを、徹夜で待っていた両親が強く問い詰めていたのを憶えている。


「ごめんなさい、サークルのOBに二次会にまで引っ張られて、断れなくて。終電を逃したから、そのままサークルの先輩の家に泊まらせて貰ったの。酔っていたから連絡を忘れていたみたいで……ご迷惑をお掛けしました」


 そう言って、姉さんは深々と頭を下げた。それがあまりにも普段通りの姉さんで、結局はわたしも両親も納得し、その件は収まったのだが。

 ……こんな結末を運んでくるのだったら、納得なんてしなければ良かった。いつもの姉さんなら、幾ら酔っていようとも無断で外泊なんてしないって、主張するべきだった。そうしたら、あの安っぽいホームドラマのような場面を見ずに、済んだかもしれないのに。

 どれだけ後悔しただろう。けれど幾ら悔やんでも時が戻ることはなく、激昂した父さんは姉さんの頬を強く打ち、その力に耐え切れなかった姉さんは腹を守って床に倒れ伏していた。更に手を上げようとする父さんを、母さんは泣きながら止めていた。

 小百合のお腹には赤ちゃんがいるのよ。赤ちゃんがいるの。繰り返される台詞はあまりにも安っぽく、いっそ笑う気さえ起こらなかった。


「幾ら反対されようとも、この子は産みます。私は、もうお腹の子の母親だから」


 父が怒声を浴びせ、母が泣き縋り、それでも姉さんは意見を曲げることはしなかった。伸びた背筋はいつもと同じ、誰より気高い姉さんで、――でももう、彼女はわたしが憧れた鏑木小百合ではないのだと、わたしはつくづく思い知らされた。

 どこの誰とも知らぬ男と関係を持った姉さん。身籠り、母になった姉さん。世間の誰もが憧れるような一流大学を中退し、子を産んで育てるのだという、姉さん。それはもう、わたしが背中を追い掛けた女性ではない。

 理解したと同時に、深い奈落の底へ突き落されたかのような、深い絶望が音も立てずにわたしを呑み込んだ。わたしが目指した背中はどこへ消えたの。わたしが焦がれた女性(ひと)は、どこへ行ったの。

 わたしの愛しい姉さんは、どこへ。

――打ちひしがれて、部屋に戻ったときだった。姉さんの机に、彼女がいつも着けていた、銀のフックピアスが無造作に置かれていたのだ。

 手に取ったのは殆ど無意識の行動だった。自分が着けていた花のピアスを外し、フックピアスを着けてみると、その重さは泣きたくなるほどしっくりとわたしの耳に馴染んだのだ。ゆらゆらと揺れるピアスを鏡に映すと、そこには姉さんとよく似た顔の女が所在なさげに佇んでいた。

 嗚呼、そういえば。わたしと姉さんの顔は、よく似ているのだった。否、正確に言えば姉さんの鼻のほうがわたしよりも高いし、睫毛だってずっと長い。けれどそれぞれのパースの位置やバランスは、殆ど同じと言って良かった。化粧さえすれば、きっとわたしは、姉さんにそっくりな顔の女になれる。

 気付いてしまったら、もうどうしようもなくなった。美容室に予約の電話を入れると、今日は丁度空いているとの返事があった。一時間後の予約を入れて、使い慣れた化粧品で自分の顔立ちを姉さんにより寄せていく。仕上がりは思った通り、わたしが憧れ続けた顔と瓜二つになった。

 それから、姉さんがよく着ていたコート、部屋の隅に置き忘れられていたコートをひったくるようにして掴み、姉さんが気に入っていたブーツを履いて外に出た。――だってどうせ、もうこのコートもブーツも、忘れられるだけなのだ。姉さんは家を出て行ってしまった。


  ***


 姉さんに寄せた顔。姉さんと同じ髪型。ピアスもコートもブーツも、全部姉さんのものだ。

――わたしの憧れた鏑木小百合が、もういないなら。それなら、わたしが鏑木小百合になろうと思った。自分が、理想の姉さんに、成り替わろうと思った。けれど、どれだけ鏡で自分を見つめても、そこに鏑木小百合は映っていない。

 残酷なまでに、わたしは鏑木美知留のままだった。


「……姉さん」


 愛しい女によく似た顔が、くしゃりと惨めに歪んで見えた。


愛しい貴女はもういない
(ねえ、わたし、もうどこへ行けばいいのかさえ判らない)

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