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私は王子様にはなれない


 背後で聞こえた、歩幅が狭く軽い足音。それは確実にこちらへと近付いていて、私はひっそり隣を歩く美人の横顔を盗み見た。高い鼻に、品のある赤い唇。前だけを見つめる彼女の眸は空気を凛、と張り詰めさせるほどに強くて気高い。こんなさびれた学校の廊下を歩いているのはちょっと不似合いなくらいに。

 貴様も罪作りな女子(おなご)よのぅ。胸のうちでひそりと呟いた瞬間に、「時任先輩……っ!」と可愛らしい声が彼女を呼んだ。私の隣を歩く美人……時任は当然振り向いて。一つに纏め上げられた艶やかな黒髪が、ぱさりと優雅に空を泳ぐ。

 如何にも「友人が足を止めたのでそれに釣られて振り向きました」という風情を装って私も同様に背後を振り返る。そこにいたのは、愛らしい声のイメージを裏切らない、満点に可愛い女の子。その首元に結ばれたリボンタイは私たちのものとは異なって緑色をしているから、一年生なのだろう。彼女はもじもじと身体をくねらせて、潤んだ眸で時任を見る。

 その表情は知っている。時任と親しくなってから、もう幾度と知れず拝んだ表情(かお)だ。熱狂的と呼んで差し支えないほど激しく彼女に憧憬を抱く女の表情。

 簡単に言ってしまえば、時任のファンである。時任はそんな後輩に自ら一歩近付いた。端正な顔(かんばせ)に色付くは、淡く困惑を載せた微笑である。しかし、微妙な憂いに後輩ちゃんが気付く気配は微塵もなく。元から紅潮していた頬を、一層濃い色へと染めるに終わる。


「今、私を呼んだのは君で間違いない?」


 男と聞き間違えてもあながち責めることは出来ないような、ゆったりと落ち着いたアルトヴォイス。きんきんと鼓膜を突き破るような甲高い声とは全く異質なはずなのに、彼女のそれは驚くほどによく響く。

 ……にしても、「間違いはない?」ってアンタ。今ここには私とアンタとこの後輩ちゃんしかいないんだから、それ以外の人が呼んでいたら恐いでしょうに。呆れたものの、それは何とか呑み込んだ。


「はっ……はいっ……! え、ええと、は、初めまして、一年の、小池美也(こいけ みや)と申しますっ……!」

「うん、初めまして。三年の、時任瞳(ときとう ひとみ)です」

「……否、時任が自己紹介する必要ないでしょ。さっきミヤちゃん、思っきしアンタの名前呼んでたじゃん。アンタのこと知ってる証拠でしょーが」


 あまりに律儀すぎる友人に我慢し切れず突っ込むと、「あ、そうか、そう言われれば」とどこかピントのずれた返答。まったく、と鼻で深く息を吐いたが、唇には隠し切れず笑みが浮かんだ。きりりと背筋の伸びた我らが生徒会長の、こういうところが憎めない。

 けれど、あまりミヤちゃんの邪魔をするのも忍びない。私はちょっと後ろに下がって壁に軽く凭れ掛かった。無意識に腕を組んだのは、廊下が酷く冷え込むせいだ。私は今、カーディガンを一枚羽織っただけの状態だ。生徒会室から教室までは然程距離がないから、と油断していたのが仇になったか。

 ……だがまあ、それよりも。時任を目の前にして失神しそうな様子のミヤちゃんを見遣って吐くはため息。

 憧れの人に声を掛けたくて必死な気持ちはよく理解出来るんだけど、この極寒の中で人の足を止めさせるのは如何なものか。時任は冷え性な体質だから余計に心配だ。私と違ってカーディガンの上にはブレザーも着込んでいるが、あの子はあれで案外身体が弱い。風邪とか、ひかないだろうか。


「あ、あの、私、ずっと時任先輩に憧れててっ……! いつも、壇上に立つ美しいお姿に、元気を貰っていて……! 本当に、時任先輩が男性だったら付き合いたいって思うくらい、あ、否、勿論出過ぎた願いだというのは百も承知なのですがっ」

「嗚呼……うん、ありがとう小池さん。とっても嬉しいよ、そこまで憧れて貰えるような人間じゃないから恐縮だけど」

「そ、そんなことないです! それに、もう引退されてしまわれましたけど、舞台も毎回素敵でした! 今まで勇気が出なくて、お伝えすることが出来なかったんですけれど……」


 はは、と時任が曖昧に笑う。ぽり、と大して伸びてもいない人差し指の爪で軽く頬を掻くのは困ったときの彼女の癖だ。ほんの少しだけ下がった両眉は、やわらかく削り取られた心の繊細さを表すようだった。

――時任はこの三年間、演劇部に所属していた。夏の学内演劇発表会を最後に引退したが、そのとき彼女が演じたのは主役の王子。その役は、時任によく似合っていた。一度でいいからお姫様役を演じてみたかったな、と独白じみて呟いた彼女の気持ちと裏腹に。


「……せいとかいちょー」


 だから、私はわざとらしく役職で彼女を呼んだ。現実の役職名で呼んだほうが、まだ、密やかな感傷から目を逸らすことが出来るかもしれないという、私の要らないお節介。しかし、その狙いはどうやら当たってくれたらしい。彼女は一瞬、思考から現実に引き戻されたというような顔をして、それから立て直すみたいに完璧な笑みを顔にぴったり貼り付けた。


「本当に、嬉しいよ。ありがとう小池さん。でも、もう帰ったほうがいいんじゃないのかな。そろそろ最終下校時刻になるよ。廊下も寒いしね。――女の子は、あまり身体を冷やさないほうがいいと思うよ」


 紳士然とした言葉、駄目押しの優しい声に、ミヤちゃんは一瞬で首筋まで肌を紅に染めた。まるで瞬間湯沸かし器みたいだな……なんてくだらないことを考える。恥ずかしいのか嬉しいのか、よく判らない感情で眸をより潤ませて、「ありがとうございます! と、突然のお声掛け、失礼致しましたっ!」と言い捨て走り去って行った。


「廊下は走らないで」


 時任はそんな彼女の背中に注意を投げ付けてから、ほぅ、と安堵の息を吐いた。先ほどよりも肩の線が若干下がっている。力が抜けてしまったらしい。「……ここ、寒いね」と呟く声は、普段より数段低かった。その原因を、私は誰より知っている。

 男子だったら絶対彼氏にするのに! その言葉の無邪気さは、いっそ悪意の篭った罵倒より残酷に時任の中の女の子の部分を削る。男前で凛々しい彼女はその実、誰よりも女の子らしくてナイーヴだ。私はそれをよく知っている。誰より近い場所からずっと見てきた。


「私たちも早く帰ろうよ。お腹空いたしさ」


 ぶらん、と力なく垂れ下がる時任の左手を強引に握った。思った通り、指の先まで芯から冷たい。無駄に熱の高い私の体温が移ればいいと、しっかり指を絡める。特別に他意はない。女友達という気安い関係から来る戯れじみた触れ合いである。そう、少なくとも、時任はそう思っているに違いない。

 私は冬場、彼女の手を温める役割を担った頃から、爪を伸ばすことをやめた。鋭く伸びた爪が、彼女の肌を引っ掻いたりすることのないように。


「……宮坂の手、いつも通り温かいね」

「時任専用ホッカイロですから。いつだって温まってますよ」

「それ、有り難いなあ。私、冷え性だから」

「知ってる知ってる。私は暑がりだから丁度いいわ、熱を冷ますにはいい温度」

「この気温で暑がりはちょっと無理があるんじゃないかな」


 冗談めかした私の台詞に彼女が笑う。先ほどまでの仮面みたいなそれとは違う、自然と零れ出た彼女の笑顔は、いつもびっくりするほど可愛い。この顔を見たら、時任が男なら、なんて馬鹿なことを言う輩はきっといなくなるだろうに、と毎回思う。思うけれど、この表情は私が独り占めしたいと願う気持ちも捨て切れない。ただの友人関係だというのに、我ながら何という独占欲だ。馬鹿みたい。


 私の想い人は、とても可愛い。

 他の子と較べて頭が一つ分飛び抜けてしまう高身長。握れば私の手をすっぽり包み込んでしまう大きな手。重いものを軽々と運んでしまえる腕力。その全てをコンプレックスとして抱え込むその姿が。

 抱き着けば判る、見た目よりずっと細い腰。しなやかで女性的な長い指。近付けばほんのりと花の香る黒髪。自分の魅力に気が付けていないその姿が。

 そして何より、お姫様に憧れながら、しかし周囲の期待を裏切ることが出来ずに自分の気持ちを押し殺してしまう不器用さが、誰より何より、可愛らしくて仕方ない。愛おしさが塊となって喉につっかえてしまう度、私はそれを誤魔化すことに必死だった。

 時任は、何も知らない。それでいいのだ。私はあくまで、冬限定で彼女のホッカイロになるくらいの距離感にいられればいい。彼女から好意を向けられているのは知っている。だけどそれはあくまで友人に対する感情だ。私はそれを裏切ることが出来ない。

 私の想い人はとても可愛い。彼女はきっと、いつか誰かの隣でお姫様になる。


 そう、きっと、私じゃない王子の隣で、幸せな、お姫様になるのだ。


私は王子様にはなれない
貴女に跪いて愛を誓ってみたかった。

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▼水島家キャラクター etc.……

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