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野沢奈美子のプロローグ
照明が沈黙した暗い部屋の中、使い古した勉強机の上に鎮座する薄型のノートパソコン。それだけが唯一の光源だった。
その青白い光を顔全体に受けながら、野沢奈美子は無言でディスプレイをじっと見つめる。表情は真剣だ。かなり長い間、彼女はぴくりとも身じろぎせず、食い入るように画面へ視線を固定していた。そこは妙な緊張感の漂う空間だった。
そして時計の短針が英数字のUを過ぎたとき、ようやく彼女は動きを見せた。ぱっと口元を両手で覆い、沈痛な面持ちで目を閉じたのである。そして絞り出されるように一言を呟いた。
「と、とう、尊い……っ」
ふるり、ふるりと両手が小刻みに震える。僅かに開いた目にはうっすらと水膜が張られているようだ。青白い頬は紅潮し、手で隠された口元は堪え切れない興奮にだらしなく緩んでいる。
「意味判んない……ユウトくんまじで尊すぎかよ……っ! ほんと天使、わけ判んない、何あの可愛さ罪深い許されないぃ…………!」
今度は顔全体を覆い隠し、野沢は椅子の上で悶えては身体を捩る。しかしすぐに机に膝頭を強かに打ちつけて、今度は襲いくる痛みに悶えることとなった。
暫くの間打ちつけた箇所を抱えて震えていた野沢だったが、痛みが引いてくる段階になると顔を上げ、虚空を見つめていたかと思うとへらぁとみっともないくらいに破顔する。その表情はといえば、ちょっと表には出せないくらいのものだった。
「ふ……ふへへ……しかも今週はタツユウ夫婦回だった…………!」
アニメーションスタッフありがとう……! と内心で顔も知らぬ人々に感謝を捧げ、実際に胸の前で神に祈りを捧げるが如く固く強く手を組んだ。
そして彼女は素早くパソコンに向き直ると某SNSへとアクセスし、ログインすることももどかしく呟きを打ち込んだ。
『ほん…………っと絶対あれスタッフ狙ってるよね私たちを釣り上げる気満々の演出だったよね絶対許さないタツユウの結婚式はいつですか御馳走様です!!!』
一切読点を挟まず、また語尾に三つも感嘆符を付けて、彼女は存分に己の興奮を表した。そこからまた自分の感情が赴くままに呟いて、ようやく満足するとキーボードを叩きまくる指を止めた。
(さて……と)
一仕事終えたと言わんばかりに野沢は深く長く息を吐く。それからだらだらとタイムラインを流し読みした。
やはりと言うべきか何と言うか、タイムラインにある呟きはどれも野沢が観ていたアニメの感想ばかりだ。おまけにそのどれもが興奮し、発狂し、時には文字で血反吐を吐いている。それはどれも野沢が先ほど呟いた内容と酷似していた。
(うんうん、やっぱり今週はみんなこうなるよね。だってもう本当にあれは反則っていうか……尊すぎる無理…………)
思い出して再び顔が崩れるが、幸い今は誰に見られる心配もないので存分に彼女はにやけた。鼻息は荒く、このままではいつ鼻血を噴いてもおかしくはない状態である。
その後満足いくまで彼女は同士と萌えを語り合い、そしてふと時計を見た。短針は優にVを過ぎている。つまりただ今の時刻は午前三時過ぎ。
時間に気付くと途端に眠気に襲われて、野沢は大口を開けて女子らしからぬ大欠伸をした。瞼がどんよりと重い。さすがにそろそろ寝なくちゃ、と二回目の大欠伸をしながらおやすみの言葉を打ち込んだ。
『さすがに明日も学校だしそろそろ寝ないとやばいわ〜! 私はおやすむぞ! みんなちゃんと寝ろよ〜。』
パソコンの電源をシャットアウトする。当然のことながら、ふつりと光が途切れて部屋は漆黒に包まれた。明るさに慣れた目では自分の部屋とはいえ何がどこにあるのかさえ曖昧だ。
手探りで障害物を避けながらベッドへと辿り着き、野沢はごろんとそこで横になった。
今日……否、もう既に昨日になるが、彼女の母が干してくれたばかりの布団はふかふかと心地よく彼女を迎える。日光を好きなだけ吸収した布団は優しい太陽の匂いがした。その匂いに手を引かれ、野沢はとろりと眠りに誘われていった。
そう、こんな夜型の生活こそが、当物語のヒロイン、野沢奈美子十七歳の日常である。
***
三次元(リアル)なんてクソゲーだ、二次元こそが至上の楽園。
それを本気で信じている野沢は、いわゆる腐女子と呼ばれるオタクに分類される。つまりBL……ボーイズ・ラブ、平たく言えば男同士の恋愛を嗜好しているというわけである。
現実で男女がいちゃいちゃしているのは本当に鬱陶しいしうざいしリア充爆発しろとしか思えないけど、二次元の男同士がいちゃいちゃしているのはもう本当幾らでもやってくださいどうぞ、本当にありがとうございますって感じ。
ネット上では常々そう公言して憚らない野沢だが、勿論リアルで堂々とそんなことを言ったりはしない。その趣味はひた隠し、陰でこそこそと楽しむだけである。彼女の嗜好を把握しているのは、信用が置ける一握りの友人だけだ。
だって絶対理解されないことのほうが多いだろうし、あんまり表に出すべき趣味じゃないことは判っているし、それに誰に迷惑を掛けることもなくこっそり楽しんでいることを馬鹿にされたくはないし。
だから判ってくれる人だけ知っていてくれればいいや。それにネット上には同士がたくさんいるから共有する楽しみも充分に味わえている。
彼女はそうして割り切っている。だが三次元がクソだと明言しているからといって決して現実を悲観しているというわけでもない。
学校では確かに地味で目立たない部類に属しているが、所属している漫画研究部を通して同類の友人をそれなりに得られていたからだ。勉強は然程好きなほうでもないが、おかげでそこそこ楽しく、何より穏やかに高校生活を過ごすことが出来ていた。
これ以上の変化は望まない。確かに深夜帯アニメをリアルタイムで観賞するために夜更かし続きで睡眠不足に陥っているのは困りものだけど、でもそれだって自分の中で納得ずくだ。――だからどうぞ神様、
私の生活を掻き乱すような出来事は何一つ起こりませんように……!
――野沢の切なる願いではあったが、こういった願いが俗に、『フラグ』と呼ばれるものであることを、心地よさ気に眠る彼女はまだ知らない。
野沢奈美子のプロローグ
「えっ、嘘、待って私みたいな喪女にそういうフラグは要らなくない!?」
[mokuji]
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