nostalgia

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何もない女


 女が目を覚ましたとき、その隣に眠る人はいなかった。

 眠気にとろんと揺蕩う頭で思ったことは、珍しいなということ。彼女の恋人はかなり寝汚いほうなので、二人で暮らし始めて数年、彼のほうが先に目覚めていたことはなかった。だからこそ、浅い眠りに引き込まれそうになりながらも、女は不安にも似た違和感を覚えたのだった。

 もぞもぞと体勢を変えて、恋人が眠っていた場所に手を伸ばす。そこは無情なほどに、しん、と冷え切っていた。指先に染み込む温度に女はようやく覚醒して身体を起こす。そうして気付く。恋人が眠るはずのベッドの左側が、全く乱れていないことを。

 絡まる黒髪に無意識で指を通しながら、女は呆然と整った布団を眺めていた。そして周囲を見渡してみれば、部屋が妙に広く感じられる。だが、一夜にして部屋の広さが変わるわけがない。減ったのだ、部屋の大部分を圧迫していた男の私物が。

 転がり落ちるようにベッドを出る。洗面所、風呂場、台所と見て回る。しかし、そのどこからも消えていた。

 少し固めな青色の歯ブラシ。これでないと駄目なのだと主張していた垢すり。少し淵の欠けた茶碗や、大きめのグラス、塗装の剥げかけた男物の箸。彼との生活を思わせるものたちは綺麗に姿を消していて、女の足元が危なっかしく揺れる。いっそ、恋人との生活が夢だったかのようだ。

 腰から力が抜け、女がその場にへたり込む。冷えたフローリングの感触が、これが現実であることを無言のまま突き付けてきた。

 暫しの間、女は置物のようにその場で静止していた。しかし、とある記憶がふと脳裏を過った瞬間に、信じられないほど俊敏な動きで立ち上がり、トイレへと駆け込んだ。もしかしたら、と淡い期待を抱いて。

 ……その期待は裏切られなかった。トイレの隅には、古びた漫画雑誌が申し訳なさそうな顔で縮こまっていた。何度も読まれ、手垢で紙が変色し、表紙が若干色褪せたその雑誌。何度も捨てようとしては、トイレのときに手持無沙汰になるからやめろと、男が止めた。

 女は震える手でその雑誌を持ち上げた。これまで散々汚い、菌がたくさん付いているだろうから捨てたいと言ってきた雑誌だが、最早男との生活が現実にあったことを証明する縁はこれ一つ。そこでやっと視界がぼやけた。


 恋人は出て行った。否、恋人という名前を便利に使った恋愛詐欺師というべきだろうか。女は自分たちの関係が恋人などと呼べないことを、嫌というほど知っていた。彼から愛されていないことなど、重々承知した上での関係だった。

 きっと男にとっては都合の良い存在だったに違いない。好きなときに抱けて、金をせびれば黙って財布を差し出す女。そういう意味で言えば、彼女は理想の存在だったに違いない。

 けれど、二人で住み始めて数年。彼が彼女の身体を求める回数は確実に減っていた。稼げども、稼げども、その殆どを男に吸い取られてしまうので、彼女の貯金は既に底を尽きつつあった。抱くことに飽き、金を失った女など、用済みになったに違いない。


 ひっく、としゃっくりが一つ上がる。それが皮切りになったのか、次々と涙が零れ落ちた。手に持っていた雑誌がぱさりと落ちる。女は手で顔を覆った。もう、見る人はこの部屋のどこにもいないというのに。

 埃の絡んだ黒髪が、蛍光灯に照らされる。艶めきからはほど遠い、ぱさぱさに傷んだ髪だった。顔を覆う手のひら、その指先も荒れており、女らしい指とはとても言えない。

 自分を磨く金も、彼女にはなかった。全てを男に差し出していた。このままではいけないと思いながらも、それでも関係をやめられなかった。

――好きだったのだ。最低としか形容出来ない男のことを、彼女は芯から愛していた。


「どうして…………どうして、」


 お金が欲しいなら幾らだって稼いでくるのに。浮気だって一度も咎めたことがない。愛して欲しいと縋ったことだってなかった。

 貴方が望むならその全てを受け入れるつもりでいたのに。

 問いの答えはおそらく一生返ってこない。絶望に浸る彼女のことを、慰める者はいなかった。鳥の鳴く声だけが外から聞こえる。しかし、それも女の耳には届かない。

 部屋に在るのはもう価値なんてないだろうと確信出来る、ガラクタ紛いの家具が幾つかだけ。女は気が付いていないが、彼女が母親から貰った数点のアクセサリーも、化粧台から姿を消していた。彼女はもう、何も持たない。


何もない女
絶望だけをその両手に握り締めて立っていた。

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