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夏の海、白く靡いたワンピース
生温く潮を香らせる風が僕と彼女との間を吹き抜けた。彼女の纏う白いワンピースの裾が、危なっかしくひらひら揺れる。まるでおいでおいでと手招きをしているかのようなその動き。彼女は自分の頭から逃げようとしている麦わら帽子を片手で押さえていた。
華奢な後ろ姿の背景にはうつくしく煌めく無垢な海。地平線はどこまでも続いていて終わりがなかった。まるで湿り気のない白い砂浜は太陽の光を反射して輝いている。夏を主張する爽やかな青空との対比は切ないくらいに絵になった。
ほんの数時間前まで、僕たちは灰色の町の中にいた。すれ違う人々はみんな同じ顔をして手元のスマートフォンを弄る、さみしくて味気ない町。なのに、たった数十分前に辿り着いたこの場所は、なんて色彩に溢れていて、なんて生気に満ちているのだろうか。
「綺麗だねえ」
「……そうだね」
僕たちには不似合いなくらいだ。そんなことを考えていた僕は、彼女に対する返答が一瞬遅れた。取り繕いはしたものの、揺れた声で僕がおかしなことを考えていたのはきっと知られてしまっただろう。彼女は真っ直ぐの黒髪を翻しながら、ぷくりとまぁるく頬を膨らませた。
このひとは、僕より八つも年上だ。だけどとてもそうは見えない。普段は長い髪を一つに纏めた地味な髪形に質素なスーツ姿で教卓に立っているというのに。僕は、その凛とした背中に惹かれていたはずなのに、いつの間にか、こんな可愛らしい彼女のほうが好きになっていた。
「ねえ、今わたしの話、聞いてなかったでしょ?」
「んー、ごめん」
「謝罪の気持ち全然篭ってないでしょ」
まあね、と頷きながら半歩近付く。すると彼女も半歩下がって、僕の隣に並んで海を眺めた。声は怒っているけれど、きっとそんなにカッカしてはいないのだろう。それくらい、遠くを見つめる横顔を見れば一発で判る。
ちら、と彼女がこちらを向く。そしてにこりと笑って言った。
「わたし、お腹空いたな。何か美味しいもの食べさせてくれたら許してあげる」
「……さっきコンビニのおにぎり三つ食べてなかったっけ?」
確か焼き鮭といくらとこんぶの味の。真顔で突っ込むと、彼女はつんと澄ました顔を見せる。わざとらしく瞑られた目。慣れないマスカラのせいでガタガタになった睫毛。化粧は下手だからしたくないと常々言っているくせに、僕との旅行で頑張ってお洒落をしてくれたのが、可愛くて仕方ない。
「あれはおやつだよ、ご飯とは別腹。だからご飯を食べに行こう」
きっと海辺を探したら美味しいご飯屋さんがあるよ。そう言って、彼女は初めて僕に手を差し出した。僕は少しの間それを見つめ、小さく震える手でその手を握る。軽く汗ばんだ僕のそれに反し、彼女の手のひらはひんやりと冷たくて心地良かった。初めて知る彼女の体温。そういえば、低体温気味なんだと言っていたっけ。
初めて手を握ったことなんて何とも思っていないのか、それとも緊張していない振りをしているのか、彼女は無言で小さく笑うと僕の手を軽く引いて歩き出した。
「せっかく海を見に来たんだから、海の幸食べたいね。海鮮丼やってるところないかなー」
「あー、海鮮丼。いいかもね」
「いくらがいっぱい載ってるやつが好きだよ、わたし」
そんな彼女が選んだのは、真っ白い壁が印象的な、清潔な小さいご飯どころだった。そこは彼女が睨んだ通り海鮮丼が自慢のご飯どころで、宝石のように艶やかないくらが中心にたっぷりと盛り付けられていた。
ここは食べ物まで綺麗なんだなと思わず呟けば、やっぱり変な子だなあと彼女が口元を隠す。いくら以外の海鮮も、びっくりするくらいに美味しかった。
「美味しいねー、いいお値段するだけあるね」
「確かにね」
メニュー表に視線を移す。表示されている値段は普段のお昼ご飯の値段をだいぶ上回っていた。きっと今日も、彼女はここの会計を持つ気でいるのだろう。だけど、とポケットに突っ込んでいる財布をジーンズ越しにそっと触れる。
いつもより膨れた太っちょ財布。それはそうだ、だって口座に残っていたお金は下ろせるだけ下ろしてきたのだから。もう、僕の口座には数百円しか残っていない。
だから僕は会計のとき、「ここは僕が持つよ」と彼女が財布を出すのを制することが出来た。一度は言ってみたかった台詞だ。きっとこれが最初で最後になるだろう。
「本当にいいの?」
「今日の僕はお金持ちなので」
「でもきっとわたしのほうがお金持ちだと思うよ、わたしも下ろせるだけ下ろしてきたもん」
「…………じゃあ頼み方変える。たまには男に恰好つけさせてくれませんかね」
一瞬きょとんとした彼女は、それから表情を綻ばせた。そして鞄に財布を仕舞い込み、またも澄ました表情で「では恰好つけさせてあげましょうかね」と言った。だから僕は有り難く二人分のお金を財布から出して店主に渡す。店主は僕らを微笑ましそうに眺めていた。
店を出た後、彼女は満足そうに腹部を撫で下ろしていた。たっぷりと食べ物が詰め込まれたそこはぽこんと軽くワンピースの薄い生地を押し上げていて、まるで幼児のぽんぽこりんとしたお腹のようだ。それがあんまりにも可愛くて、僕も彼女の腹部へと手を伸ばして殴られた。
「何をしようというの」
「別にお腹撫でようとしただけだよ」
「変態」
「そんな言い方、酷いなあ」
ふん、とそっぽを向いた彼女の剥き出しになった二の腕を、活動的になった太陽がじりじりと焼く。それが気になるのだろう、彼女は日陰を選んで歩いていた。日焼け止め塗ってるでしょ、と悪戯心で彼女を日陰から引っ張り出す。そもそも僕らには、もう日焼けなんて関係ないのに。
だけど彼女は嫌がって、逃げるように雑貨屋さんへと入っていった。その後を追って中に入ると、こぢんまりとした店内は如何せん華やかさには欠けていて、だけどどこか温かみのある雰囲気だった。彼女はそこが気に入ったのかぐるぐると店内を見て回って、一部でぴたりと歩みを止めた。
「ん? 何か気になるものでもあった?」
後ろから覗き込むと、そこにあったのはちゃちな白い貝殻のリングだった。本当に、ただのお土産物といった風情の指輪だ。だけど彼女の視線はそれに釘づけになっていた。値段を見ると五百円もしない。玩具の指輪。
「それが気に入ったの?」
「…………気に入った、っていうか」
ぽす、と彼女が軽く頭を反らして僕の背中に押し当てる。「……結婚式には指輪が必須、でしょ?」
ぱちくり、と目を瞬かせる。それから僕は指輪を二つ手に取った。どうやらフリーサイズのようだ。これなら僕の指にもぎりぎりで嵌るだろうか。
「そうだね。――僕たちの結婚式だもん、指輪は絶対に欠けちゃいけないよね」
教卓に立つ、凛とした背中に恋をした。
素行の悪い生徒が多いうちの高校では、若い女性の教師なんてからかうだけの対象で、僕もそんな先生のことを心のどこかで軽蔑していた。きっとこの先生もからかわれて顔を真っ赤にして怒り散らすか、どう対応したらいいのかあたふたするか、そのどちらかだろうと思っていた。
だけど彼女は、先生は違った。冷淡な目で卑猥な言葉を浴びせる生徒たちを一瞥し、全く変わらない声の調子で、ただ淡々と授業を進めた。あまりにも声が煩い日には板書の数を多くして、自分の思うように授業を進めた。
チョークの粉でスーツや手が汚れることも厭わずに、淡々と黒板へ文字を書き連ねる、あの凛とした背中に、恋をした。
彼女が母親違いの姉だということも知っていた。けれどそれでも、恋をしたのだ。
打ち寄せては返す波。橙色に染まって溶けるような太陽は、少しずつ暗闇に姿を消し始めていた。
僕と彼女は靴を脱いで、冷たい海の水に足を浸していた。柔らかな砂に足の裏がずぶりずぶりと埋まっていく。軽く足を蹴り上げれば、塩辛い水がきらきらと光った。
彼女が僕の指に。僕が彼女の指に、ちゃちな指輪を嵌めてやる。指輪は僕の指の第一関節でつっかえてしまったし、彼女の指では大きすぎてくるくると回ってしまった。五百円にも満たない結婚指輪。だけど僕らには充分だった。
「永遠に愛することを、誓ってくれますか?」
彼女が僕に訊く。寂しさを奥底に隠した茶色の眸で窺うように。
「勿論誓います。――ずっと、ずっと愛するよ」
だから僕は頷いた。少しでも彼女を安心させようと、同じ色の目で彼女の眸を覗き込んだ。
「――永遠って、死んだ後も有効かな?」
「きっと有効だよ」
「でも、わたしたちが生まれ変わって別人になっちゃったら、無効になっちゃうかも」
「ならないよ。だって永遠なんだもん」
「……生まれ変わったわたしたちは、本当にわたしたちなのかな」
「きっと僕たちだよ。そう信じようよ」
うん、と彼女が繋いだ指を絡めた。僕は強くその手を握り直す。今日初めて握った手のひら。今日ようやく握れた手のひら。もう二度と離さない。きっと彼女も同じことを考えているだろう。
ざぷり、水を掻いて一歩を踏み出す。彼女も同じように踏み出した。また一歩、また一歩と進んでいく。水が濡らす足の範囲が広がっていく。ワンピースが足に纏わりついて気持ち悪いと、彼女は言った。白くて優雅なワンピース。きっとウェディングドレスを連想したのだろう、ワンピース。
浜辺には今誰もいない。僕たちを止める者は、誰もいない。
どこへも行けなかった僕らは、ようやく二人で歩いて逝ける。
夏の海、白く靡いたワンピース
一緒にいるにはこれしかなかった
[mokuji]
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