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唐揚げ


 存分に働いたことによる身体的疲労というのは、他人(ひと)が思う以上に大きい。おかげで毎週月、水、日曜日のバイト終わりは、殆ど生ける屍の体で帰路に着くことになる。

 空腹に耐えかねた腹は何か食わせろと姦しく鳴き、疲労から来る痛みで足は重く、歩いているというのに睡魔はそんなことは関係ないと言わんばかりに近付いてくる。満身創痍というのはきっとこういう状態を言うのだろう。何ならもう家に帰らずバイトの休憩室で爆睡したい。勿論、そんなことを実践しようものなら、私は店長に引き摺られて店の外に放り出されることになるのだろうが。

 今日も今日とて私は疲労度マックスの身体を引き摺って、夜道をとぼとぼ歩いていた。べっとりと汗を掻いた身体に蒸し暑い梅雨の湿気は最早拷問。こめかみから滴った汗の雫をTシャツの裾で強く拭った。腹が見えるとか女のくせにはしたないとか、そういう恥の概念は既にかなぐり捨てている。というより、そんなことを考えている余裕がないのだ、正直。


「あー…………………」


 お腹空いた、と呟く体力も惜しくて心の内に留めたが、腹の虫は私の思いを汲み取ったのかまた鳴いた。虫の羽音、それに寿命が近い街灯が明滅する度に立てるぱちっぱちっという異音。そこに混ざる私の腹の音は実に滑稽で面白おかしい。ふっ、と小さな笑いが鼻を抜けた。

 腹の虫の鳴き声が最高潮に達した頃合いに、いつも家の近所にあるコンビニの前へと辿り着く。煌々と店内を照らす黄色い灯りはまるで誘蛾灯のようだ。では毎回誘い込まれるようにふらりと店内へ足を踏み入れる私は人類じゃなくて蛾だったのかな、なんてくだらない思想がこの店を入る度に脳裏を過ぎる。……まあ、私は光に誘われて入店しているわけではないから、まだ人類として分類されても良いだろう。うん。

 ふらりふらりと自分でも危なっかしいと判る足取りで、いの一番に向かったのは奥にある飲み物のコーナーだった。迷うことなくロイヤルミルクティーのペットボトルを手にする。それからレジに向かうのだが、真っ直ぐそこへ向かう通路はお菓子コーナーに挟まれている。この位置取りは本当によく考えられている。気付けば新商品のチョコレート菓子を手に持っていた。くそぅ、また誘惑に打ち勝てなかった。

 多少の悔しさを噛み締めつつレジを見遣ると、そこに店員の姿はなかった。きょろりと周囲を見回すと、パンの棚に商品の入れ替えをしている一人の青年がいた。見慣れた背中にすみませんと声を掛けようとすると、声を出すその一瞬前に、彼のほうがレジの前に立つ私に気付く。


「あー! すみませんお待たせしまして!」


 そこまで慌てなくても。そう思えるほど大袈裟に泡を食った青年はばたばたと忙しなく動いてレジに入った。慌てすぎて盛大に靴紐を踏んづけ転びかけたことは見なかったことにしてあげようと心に決める。恥ずかしかったみたいで顔真っ赤だし。

 別にそんな待ってないですよー、とフォローを入れて、商品を彼に手渡す。それからホットスナックのケースへと視線を移した。もう殆どの商品が棚から姿を消していたが、幸いなことに目当てのものはほんの少々残っていた。


「すみません、それと」

「醤油味の唐揚げ一つ、ですよね


 台詞を被せられて一瞬驚く。彼を見ると明るく歯を剥き出して笑っていた。悪戯成功、とでも言いたげな笑みのまま、彼はケースの中から唐揚げを取り出す。


「お客さん、必ずこれ買って行くじゃないですか。覚えちゃいました」


 だからこれからは俺がレジ入ってたら「いつもの」って言えますよ。妙に誇らしげな口調がおかしくてつい笑ってしまう。


「じゃあ今度からは『いつもの』って注文します」

「是非! 温かいものと袋分けなくていいですよね」

「はい、袋一緒で」


 どうせ店出たらすぐに唐揚げ食べちゃうし。というのは心に仕舞って会計を済ませる。それにしても疑問形ですらなく言い切られてしまうと自分がどれだけコンビニの利用率が高いか知れて恥ずかしい。

 全て小銭で支払えたことに細やかな満足感を得て店を出る。ありがとうございましたー、またお越しくださいませー、と定型文が背中を追い掛けてきた。普段は「毎回言わされて大変だなあ」と心が篭っていないことを前提として聞いている言葉だが、彼の声に『言わされている感』はあまりない。接客が巧いとは言えないけれど、たぶん人と関わることが向いている子なのだろう、と勝手に見積もった。

 さて、とコンビニ袋から唐揚げの入った小さい紙袋を取り出す。ガサゴソとそれを開けるとにんにくの香ばしく蠱惑的な香りが鼻腔をするりと擽って、知らず知らずに喉が鳴る。付属の爪楊枝で唐揚げを刺して一口齧ると肉の脂が染み出した。

 旨い。空っぽの胃に揚げ物の油と肉汁が染み渡っていく感覚だ。これ以上ないほど空腹なはずなのに、あまりの旨さにがっつく気さえ起こらない。ゆっくりと味わいたくて普段より少し咀嚼回数を増やす。肉の甘さが舌を喜ばせた。

 空腹、疲労、買い食い、そして夜中の揚げ物という背徳感。その全てがスパイスとなって更に旨みを助長している。バイトは正直楽しくもクソもないが、バイト後の唐揚げの幸せを考えれば労働の辛さも些細なものだとさえ思える。嗚呼、私、今、世界で一番幸せかもしれない。

 自分でも安い幸福だなとは思うがそれも案外悪くない。簡単に幸せを得られるということは毎日が幸福に彩られているということである。

 四つほど入っていた唐揚げを全て食べ終え、満足感にため息を吐く。満腹とまでは言わないが、そこそこに腹は満たされた。唇が油でコーティングされているのが自分でも判る。舌で唇を舐めてから、これを母親に見られたら下品だ何だと煩いだろうなと思った。空になった紙袋をコンビニ袋に戻し、次にロイヤルミルクティーを取り出して一口飲んで喉を湿らす。適度な甘さが気怠い身体に心地良い。

 一応バイトの休憩中に夕食は食べたし、後は帰れば眠るだけ。そう考えると重かった足取りもほんの少しは軽くなる。今日は昼間だけとても晴れていたから、おそらく母が布団を干してくれていたはずだ。日光を思う存分に吸収したふかふかの布団にダイブする瞬間を妄想して気持ちが急く。唇がゆぅるり綻んだのを、誰が見るわけでもないのに手で隠す。早く帰って思う存分眠ろう。明日は四限に一コマ授業が入っているだけだから、好きに惰眠を貪れる。

 そう考えて思わず鼻歌を軽く歌うと視界が急に明るくなった。もしや明るい気持ちが視界にまで影響を及ぼしたのか、などと一瞬だけ考えてから空を仰いだ。そして理由を知る。先ほどまで雲に隠れていた三日月がその姿を現したのだ。檸檬色の月が振り撒く光は温かく、三日月の形は柔らかく微笑んだ神様の口元に見えた。


「……………今日も一日、頑張りました」


 つい独り言ちるが、神様の口元は相も変わらず微笑んでいる。お疲れ様、と労われているようにも感じられた。心が温かく満ちる。

 今日も一日、頑張りました。明日もそこそこ頑張ります。心の中で宣言すると、流れてきた薄い雲で月の光が僅かに陰る。そこそこじゃなく頑張りなさいと叱咤されているようで、私は一人苦笑した。


「じゃあ、明日も唐揚げが美味しく感じられるくらいには頑張ります」


 三日月が、それならいいとでもいうように、雲の隙間から姿を僅かに覗かせた。


唐揚げ
大きな幸せに埋もれるよりも、小さい幸せに彩られた日常のほうが私は幸せ。

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▼水島家キャラクター etc.……

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