nostalgia

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「月が醜いですね」


「……月が綺麗ですね、ではなく、敢えて醜いと言ったところに貴方の捻くれ具合を感じるわ」

「それはどうも」


 飄々としてこちらも見ずに、彼はただ空に佇む月を見ていた。

 黒い絵の具を濃く溶かした水を一面にぶちまけたみたいな空には、雲一つでさえ見当たらなかった。ならば星屑が点々と散っていても良かろうに、私の目にはきらりと光る星が映ることはない。在るのは一つ、不気味な鈍い赤に輝くでかでかとした満月だ。

 赤い月は嫌い。隣に立つ背広の男はもっと嫌いだ。最悪の夜である。

 不満からふんと鼻を鳴らし、私はスーツのポケットから潰れかけた煙草の箱を引っ張り出した。中を覗いてみれば白い棒がたったの一本だけ。嗚呼もう、昨日買ったばかりなのに。苛々はそこで最高潮に達した。

 最後の煙草を歯で軽く噛んで咥え、箱が入っていた方とは反対のポケットを手で探る。指先に触れたそれを乱暴に取り出す。近くの百円均一で買った安物のライターだ。火を点けるとしゅぼっと小気味良い音がした。

 煙草の先端に火を点し、すうと深く吸い込む。有害とされる成分たちが肺の隅々にまで染み渡る。面白くない状況は相変わらずだが、機嫌は少しだけ持ち直した。煙草は偉大だ。人類最高の発明品なのではないか?


「……またそんなものを吸って。それだから貴女の声は掠れるんですよ、聞き取りにくくて仕方ない」

「煩いわね、人がどんな嗜好品を嗜もうが個人の自由でしょ。放っておいて」

「副流煙で僕の肺まで汚れるから嫌なんですよ」

「あらそう。それならクリーンな肺をせいぜい私の吐いた煙で汚しまくりなさいな。そんで早くおっ死(ち)んでくれたらこちらとしては有難いんだけど」


 ふう、とわざと彼の顔に目掛けて煙を吐いた。彼は驚くほど厚いレンズ越しに両目を眇める。ただでさえ優しいとは言えぬ眼光に迫力が増し、見ようによっては堅気の人間には見えないほどだ。ぺたりと撫で付けた黒髪も、きっちり着込んだ洒落た背広も、銀縁の眼鏡でさえも、本来真面目に見えるはずの要素が全て逆効果になっている。

 おおやだ、恐い恐い。本当は大して恐くもないのにそう呟いて、再び煙草を口に戻す。彼は未だ漂う白い煙を鬱陶しそうに手で払う。そして私をじっと見下ろした。


「貴女の思い通りになって肺がんを患うのは癪ですが、死ぬ原因が貴女になるのは中々悪くないかもしれませんね」

「言ってることが矛盾してるわ」

「いいんです、私の中では矛盾は生じていませんし」

「本当に貴方って自分が良ければそれでいいのね。最低じゃない?」

「同じ言葉をそっくり貴女にお返ししますよ」

「私は最低だもの、自覚してるからまだ可愛いものよ」


 今度は目の前の何もない空間に煙を吐き出す。ぶわりと広がった白いそれはしかし、一瞬で宙に溶け消えてしまった。視線だけで空を見上げるとやっぱりそこには赤い月が我が物顔で鎮座している。本当に最低な夜だ。

 けれど私は、隣の彼が本当はそこまでこの夜を嫌っていないことを知っていた。彼の視線はいつも私に向けられている。一見するとそれは冷えた空気を持っているようだが、しかしその真意を悟れる程度に私は聡かった。


「ねえ、貴方」

「何ですか」

「今日の月は醜いわねえ」

「……お返し、というわけですか」


 見当外れの言葉に軽く笑った。私は貴方が何を思って月を醜いと評したのかを理解している。
 にやりと口の端を上げ、私は彼に向けて一句ごと区切ってはっきり言葉を口にした。


「わ、た、し、に、く、ら、べ、る、と。……ね」


 彼は瞠目する。そしてぱちりと目を瞬いて、ゆるゆると首を横に振った。色の薄い口唇に浮かんでいる淡い笑みは苦笑だろうか、それとも諦めの意味なのだろうか。

 私は彼の気持ちに応えるつもりが毛頭ない。彼はそれを知っている。


「…………自己過信が過ぎますよ」


「月が醜いですね」
美しい貴女の横顔には、どんな月さえ霞んでしまう。


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