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幸せはこれから築く二人の未来


 未だに心臓が緊張で大きく脈打っているのを感じていた。身体全体がその鼓動によって揺らされているような錯覚に陥る。長く息を吐き出してみて、その呼吸が酷く弱くなっていることに気付いた。

 雄一(ゆういち)は、幼い頃から極端に土壇場に弱い性質(たち)だった。本番の直前まではけろっとしているくせに、いざ舞台に立つとアガッてしまって手と足が一緒に出てしまうタイプである。その後舞台から降りても暫くは放心してしまって使い物にならない。

 おまけに緊張すると途端に胃が痛くなる。現に今もきりきりと胃は痛みに苛まれ、脂汗が額に滲み出ていた。服の上から胃の辺りを擦ると、彼の目の前に胃薬の小袋が差し出された。


「一応薬持ってきといて正解だったね。水買ってちょっと休もう」

「あー、うん……ごめん…………」

「いーえ、想定の範囲内だから」


 そう言ってにこっと笑ったのは、雄一の婚約者である由香里(ゆかり)だった。彼女は駅のベンチに雄一を座らせて、自分は水を買いに自販機へと向かって行く。フェミニンなラベンダー色のワンピースに包まれたその細い背中を見送って、雄一は自分の情けなさに思わず目元を覆った。

 由香里にプロポーズしたのはつい先日、彼女の誕生日のことだった。

 本当は高級レストランで指輪を渡す予定だったのだが、何とも情けないことに予約する日程を間違えて、1LDKの彼女の部屋で鍋をつつき、満腹になってごろんと横になった彼女に指輪を差し出すという、ムードもへったくれもないプロポーズになった。
 しかも指輪のサイズも一回り大きかったという駄目っぷりである。

 しかしそんな及第点にも遠く届かない雄一のプロポーズにも、由香里は笑顔で頷いてくれた。指輪についても「小さかったら嵌まらないけど、大きかったらちゃんと指に嵌められるから大丈夫。それに指がむくんでも心配要らないしね」としっかりフォローも入れてくれた。

 勿論、「でも指から抜けて失くしたら嫌だから今度サイズ直して貰おうね」とも言われたが。

(なんか俺……男として情けないにも程があるかもしれない…………)

 ああああ、と胃痛によるものとは異なる呻きを小さく上げる。しかも今日は自分の親に結婚の報告をしに行っただけなのだ。それにも拘わらずこの有様とは、由香里の両親に結婚の挨拶をするとき自分は一体どうなってしまうのだろう。

 考えて、雄一はぶわっと毛穴が開いて汗が噴き出してくるのを感じた。まだ緊張は感じないが、焦りが爪で引っ掻かれたように心に痕を残していく。


「ゆーいち? お水買ってきたよ?」


 上から心配そうな声が降ってきて彼はようやく我に返った。顔を上げると由香里が主人を心配する仔犬のような表情でこちらを見ている。婚約者のそんな表情に少しだけ癒された。痛む胃を堪え、息を詰めながら作り笑いが繕える程度にまで回復する。


「だいじょぶ……ごめん、水くれ」

「ん、どうぞ」


 蓋を開けた状態のペットボトルを有り難く受け取って、雄一は胃薬の封を破ると中身を口の中に流し込んだ。鼻を刺激する漢方のきつい匂いに表情がぐにゃりと歪む。その匂いや味諸共水で一気に流し込んだ。


「はい、良く出来ました」


 小学校の教師である由香里は、自分の生徒を褒めるときのようにそう言って雄一を労った。彼女も雄一がこの薬を嫌っていることは知っていたのである。しかしこの薬が彼には一番効くこともまた同時に知っていたので、由香里は雄一と一緒にいるときはいつもこの胃薬を常備している。

 まだ口の中に味がへばりついているような気がして、雄一は水をぐいぐい飲んだ。ペットボトルを半分ほど空けた頃合いで、やっと彼は水を飲むのをやめる。そんな情けない婚約者の背中を、由香里は何も気にしていない風情で優しく撫で下ろした。


「……それにしても、雄一のご両親、雄一によく似てたね。特にお義父さんなんてそっくりだったから驚いちゃった」


 本来乗るはずだった電車が駅のホームに滑り込んでくるのを眺めながら、由香里はのんびり口を開いた。その台詞に、雄一は胃を撫で擦りながら「そうか?」と首を捻る。


「俺はお袋に似てるってよく言われるんだけど……」

「嗚呼、うん、顔はお義母さんに似てると思うよ。でも全体の雰囲気はお義父さんにそっくりだった。……でも、お義父さんのほうが、ちょっと」


 声が不自然にそこで途切れた。彼女は続きの言葉を探そうと、視線を空中でうろうろと彷徨わせる。すると雄一が、「厳ついって言いたいんだろ」とあっさり由香里の言い淀んだ言葉を言い当てた。


「うちの親父、寡黙な上に顔もこえーからなあ。親戚の子供なんかに会うじゃん、百発百中で泣かれンだよな。でも本人は結構子供好きだからさ、その度地味にショック受けてる」

「あー、何だか想像つくなあ。でも雄一は子供に好かれるよね」

「そう。だから前に一回『お前は母さんに顔が似てるからな』って拗ねられたことあるよ」


 彼の暴露に由香里はぷっと噴き出した。先ほど顔を合わせたときは厳つくて少し恐い人だと内心で思っていたが、実は婚約者と同じで可愛らしい人のようだ。義父(ちち)となる人の意外な一面に、由香里は少し安堵した。

 疎らに乗客を乗せた電車が発車する。強い風が一瞬で吹き、由香里の長い髪の毛をぶわりと乱した。その髪を片手で直してやりながら、雄一は話を続ける。


「親父の子供好きって結構筋金入りでさ。テレビで小さな子供が出ると必ず手ェ止めて、じいっとテレビ観てるんだよ。んで、子供が映らなくなったら興味失くして観るのやめンの。判り易いだろ。……まあ本人絶対認めなくいんだけどさ、それ。『たまたまだ』とか言って」


 声色を似せた雄一に、再び由香里が噴き出した。雄一もだいぶ胃の痛みが引いたらしく、顔色もだいぶ戻ってきている。その余裕からこの道化が出ているようだった。


「本当は自分の子供、三人くらい欲しかったらしいんだよな。でもお袋が子供出来にくい体質だったらしくて……俺も結構遅く生まれたほうだし」

「そっか…………」


 それを聞くと、由香里は少し黙り込んで俯いた。おや、と雄一は彼女が話し出すのを辛抱強く待った。
 たっぷり一分はそうしてから、由香里は勢いよく顔を上げた。そこには満面の笑みが浮かんでいる。予想外の表情に、雄一は目を丸くした。


「じゃあ、私が孫をたくさん生めばいいんだね!」

「えっ」

「えっ、そういうことじゃないの?」


 絶句して彼女を凝視する雄一を、由香里も同様にじっと見つめた。暫しの間二人は無言で見つめ合う。彼女が冗談を言っている様子はない。勿論結婚の約束をした時点で雄一にも子供を持つという発想はあったものの、籍も入れていない状態ではまだ夢物語のように感じていた。

 しかし、彼女の丸い眸は真剣そのものだった。既に彼女の中では自分と家庭を持つことがリアルに感じられているのだということを思い知り、雄一は小さく微笑む。幸せという言葉の意味を、彼はしみじみと実感していた。


「……うん、親孝行にもなるしな。俺も子供好きだし、最低でも二人は欲しい」

「うん。でも子供たくさん持つなら仕事頑張らないとだね。お金貯めなくちゃ」

「はいはい、頑張らせて頂きますよ」


 でもまずは来週の顔合わせを頑張らないとなあ、と声には出さずに呟く。するとその内容を察したように、由香里は「胃薬忘れないように持ってくるね」と歯を見せて眩しいほどの笑顔を見せたのだった。


幸せはこれから築く二人の未来
まだまだ「これから」な二人だけれど、きっと幸せになれるはず。


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