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幸せは二つ並んだ湯呑の日常


「いきなり結婚なんて言い出したから一体お相手はどんな方なのかしらと思っていましたけど、本当、素敵なお嬢さんで安心しましたよ」


 ダイニングテーブルの上に載っていた菓子鉢と湯呑を二つ片付けて、初老の女は嬉しげに白髪の混じる短い髪を掻き上げた。ゆるりと細めた眸は少しずつ刻まれ始めた笑い皺に縁取られて満足そうだ。

 それに対し、女の夫は席にどっしりと腰掛け堅く口を噤んだまま、妻の発言に相槌を打つ気配も見せない。厳めしく太い彼の眉の間には、今日も今日とて険しい皺が刻まれていた。


「可愛らしくて気が利いて、利発そうなお嬢さんでしたねえ。雄一(ゆういち)にはちょっと勿体ないくらいのいい人でしたよ」


 しかし妻のほうも気にする素振りはちらとも見せない。変わらず幸せそうな笑みを湛えたまま、急須の中の湿った茶葉をごみ箱へ落とす。既に彼女の人生の中では独身の娘時代よりも結婚して妻となった時間のほうが長いのだ、今更夫のしかめ面程度で狼狽えるようなことはない。何せ結婚を申し込むときにも眉間の皺が消えなかった男である。

 普段使う茶葉を取り出し、二匙掬って急須に入れる。息子の恋人をもてなすため、先ほどまではとっておきの茶葉でお茶を淹れていたものの、彼らが帰って夫婦二人になった今ではその茶葉は少し高級すぎる。

 電子ポットに水を注ぎ、電源を入れる。その間も彼女はお気に入りの歌をハミングしていた。テレビ番組の『懐メロ特集』などでよく流される、随分と昔の流行歌である。

 常日頃からおっとりとして、あまり機嫌を損ねることもない彼女だが、逆にここまで機嫌の良いことも珍しい。そんな珍しい妻の姿に、夫はそっと視線を上げた。
 丁寧に塗られた白粉に、少しだけ濃く差された頬紅の色。これが一番お気に入りなのと、あまり使うことのない口紅が彼女の唇を彩っていた。その横顔だけでも、彼女が息子の恋人との初顔合わせにどれだけ緊張していたか、そしてどれだけ胸を弾ませていたのか、察せられるというものだ。

(――世の中の母親は、普通、自分の息子に嫁が出来るのを、あまり喜ばないものと思っていたが)

 どうやらうちの『母親』は違うようだ、と浮かれる妻を見ながら夫は思う。何にせよ、嬉しいのならばそれに越したことはない。


「それにしても、あの子ももう所帯を持つような歳になったんですねえ。私はそれが一番驚きですよ。雄一に結婚はまだ先のことと思っていましたけど、考えればあの子ももう二十六なんですものねえ」


 ぐつぐつに沸き立つより少し早く、女はポットを取り上げた。日本茶は熱すぎるお湯で淹れるより、舌に優しい温度で淹れるほうがずっと美味しくなる。急須の中にお湯をゆっくりと注ぎ入れ、彼女はそっと蓋をした。

 男が無言で自分の湯呑を妻に差し出す。判っていますよ、と女は軽く微笑んだ。息子が初任給で贈ってくれた揃いの湯呑――いわゆる夫婦湯呑――を並べると、まずはお湯を注いで温める。そして少し待ってからお湯を捨て、交互に二つの湯呑へお茶を注いだ。

 どうぞ、と渡されたお茶を一口啜る。男の好みに丁度な濃さに出されたいつも通りのお茶は、先ほどまで飲んでいたお茶の味にはやはり届かなかったが、それでも上出来に旨かった。女も同様に茶を啜り、ほうっと息を一つ吐き出す。


「二十六といえば、私たちが結婚したとき、貴方も丁度同じ年齢でしたね。ねえ、貴方」


 私は二つ下ですから違いますけど、と妻はころころと笑った。言われて初めて、そういえばそうだったかと思い出す。よくそんなことを憶えているな、と男は内心で少し感心した。元来彼は、あまり細かいことを憶えているような性格ではない。


「嫌だ、憶えてますよ。当然じゃあないですか」


 すると、妻は夫の心を読み取ったようにそんなことを口にした。あまりのことに、彼は茫然と妻を見つめる。もしかして知らぬ間に口に出していたか、と記憶を探るが、やはり言葉にした憶えは一切ない。

 静かに動転する夫を見て、妻は年頃の娘のように、うふふと口元を手でそっと覆い隠した。


「何年貴方と一緒にいると思ってるんです。貴方の考えていることくらい、もう私にはお見通しですよ」

「……恐ろしいな」


 やっとその一言を絞り出すと、湯呑に残った茶を飲み干した。あら失礼な、と言う妻は言葉と裏腹にちっとも顔が怒っていない。


「自分では気付いていないかもしれませんが、貴方って実はとっても判り易いんですよ。お見合いのときからそうでしたもの。顔はちょっと恐いですけど、仕草や目線から感情が駄々漏れなんです」

「それは貶しているのか」


 再び急須にお湯を注ぎながら、違いますよと妻はあっさり否定した。しかし言われたことは褒め言葉と受け取るには少々難しい内容で、男は腹の内でひっそり拗ねた。判り易い、というのは女なら可愛らしくて長所かもしれないが、男では長所にならないだろう、という意識が男の中ではかなり根強い。

 そんな彼の心情を察したのだろう、お茶を淹れながら妻は過去を懐かしむ眸で夫を見つめる。その目の奥に、酷く懐かしい恋の色さえ見えた気がして、夫は気恥ずかしそうに視線を逸らす。


「お見合いのときは、そりゃあ不安だったものですよ。お見合い写真で見た貴方は随分と厳つく見えましたし、私より年上だと伺っていましたからね。本当は、お見合い直前に逃げてやろうかと思うくらいには、嫌だったんですよ」

「…………初耳だ」

「初めて言いましたもの」


 しれっと言って、湯呑が男に差し出される。陶器越しの温もりを指先に感じながら、男はがっくりと大きく嘆息した。

 言ったことは一度もないが、彼はお見合い写真に写った彼女のはにかんだ笑顔に一目惚れだった。
 目立つ美人というわけではなかったが、道端にひっそりと咲く野花のように素朴で愛らしい魅力が当時の彼女にはあったのである。だから見合い当日も彼はそわそわと浮かれて落ち着かなかったものだが、――まさかそんなにも嫌がられていたとは。結婚して何十年も経ってはいるが、しかし、それは今聞いてもショッキングな告白だった。


「でも二人でお話ししてから、一気に印象が変わったんですよ。貴方が不器用ながら一生懸命話をしてくれていたのはよく判りましたしね。嗚呼、この人のお嫁さんになったらきっと幸せになれるわって、初めて会ったその日に思いましたよ。だから私、あのとき既に、貴方に嫁ぐことを決めていました」


 過去を回想しているのか、うっとりと語る妻に夫は言葉を失った。先ほどまでのショックが大きかった分、どう反応したら良いのか判らなかったのである。

 しかし妻も同じように初めて会ったその日から自分と添い遂げるつもりがあったというのは素直に嬉しく、彼は手元の湯呑へ視線を落とす。彼の大きな耳が真っ赤に染まった。その反応を見て、妻は満足そうに頬を緩め、湯呑に残った最後の一口を旨そうに啜った。


「きっと雄一たちも、あの頃の私たちと同じように、嬉しくてちょっと恥ずかしくって、幸せな気持ちでいるんでしょうねえ」


幸せは二つ並んだ湯呑の日常
例え言葉にしなくても、愛は確かにここに在る。

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