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大晦日
正直、蕎麦はあまり好きじゃない。
安くて旨くもない麺をもそもそ口まで手繰り寄せ、嚥下してからため息を一つ吐く。どうして今年最後の食事にこれを選んでしまったのかと、毎年の後悔が脳を過ぎった。
最後の一口まで食べ切って、残ったつゆをずずっと啜る。鰹節の出汁がふんわり香った。温かいつゆが冷え切った身体の末端までじんわりと染み渡る。
「あー……もう正月かあ」
ぶるりと身体を震わせてから呟く。年々月日の流れの体感速度が加速していっている気がする。歳を取るとは嫌なものだ。
あまり集中して見ていたわけでもないテレビの画面へと目を向けた。毎年恒例の音楽番組が映されている。今年活躍したらしい歌手たちが歌っているが、正直半分も判らなかった。そもそも音楽に然したる関心もない。
なのに何故こんな番組を観ているのかと言われれば、それは好きでもない蕎麦を啜っているのと全く同じ理由だった。大晦日はこうして過ごすもの、と実家で嫌というほど刷り込まれた常識が無意識に行動を起こさせているのである。
(――まあ、本来年越し蕎麦ってのはその名の通り、年を越すときに食べるものなんだけど…)
細かいことは気にしないに限る、とつゆを飲み干す。空になった丼を流し台へ持って行った。苦労してぴかぴかに磨き上げたシンクに汚れ物を置いておくのも嫌だったので、軽く洗って棚に戻す。所帯じみた大晦日である。
手を拭きながら居間としている生活スペースに戻り、卓袱台前に腰を下ろして携帯電話を引き寄せる。何か連絡でも来ていないかな、と思いながらディスプレイを確認すると、新着メールが一件ボックスに入っていた。
差出人は『お母さん』。何となく内容が察せられ、開くのが嫌になる。しかし返信しないとそれはそれで面倒なことになりそうなので渋々メールを開いた。すると思っていた通りの文面がそこに表示され、自然、私の表情は渋くなる。
『大晦日に帰ってこないなんて、お父さんが寂しがっていましたよ。お正月にはちゃんと帰ってきなさいね。』
こめかみに手を当てて目を瞑る。ごめんなさいお父さん、とは思うものの実家に帰りたくない気持ちはその申し訳なさを軽く上回った。
実家を出て早五年。友人には結婚する子もちらほらと出始めた。この歳になれば自然と親は結婚の話題を出し始めるもので、その予定どころか相手もいない私には気まずいったらないのである。
今年最後の憂鬱に眉を寄せながら、端的な文章を電波に乗せて送る。そのままごろんと横になった。くちくなった腹は程よく睡魔を誘う。聞き覚えのない、しかし耳に心地よくはあるしっとりしたメロディにうとうと……と瞼を下ろしかけた、その時。
ブブブッ、と手の中で携帯電話のバイブが響く。急な振動に眠気は一気に引いて行った。慌てて飛び起きる。バイブの長さからそれが着信であることを知り、私は相手も確認せずにそれを取った。
「ハッピーィニューイヤァー!」
高い声が機械越しに耳を劈く。堪らず端末を耳から離した。名前を見ずとも判る、この馬鹿にテンションが高いこの声は。
「……まだ年は明けてませんよ、小暮さーん?」
「えー、そう堅いこと言わないでよー」
酒が入っているのか、小暮は普段以上にテンションが高い。けらけらと弾ける笑い声に軽く呆れた。堅いとか堅くないとか、そういうことじゃないと思う。まだ年越しには三時間近く時間があるのだ。
小暮は大学時代の友人だった。当時から何がそんなに楽しいのか判らないくらいのハイテンションだったけれど、それは社会人になった今も変わらない。
私はどちらかというとローテンションなほうなので、彼女に付き合うのは尋常じゃなく疲れるのだが、一緒にいるだけで愉快な気持ちになれるところもあるので、どうしても嫌いになれない相手だった。
「ねえねえ、今そっち何してンのぉ?」
「今ぁ? ……んー、寝正月、ならぬ寝大晦日……かな」
「え、マジで? 一人で?」
「一人に決まってるじゃん、私が友達少ないのも恋人いないのも、小暮は知ってるでしょ?」
小暮が電話の向こうで遠慮なく噴き出した。しかしそんな彼女もフリーのはずだ。そこを突いてみると、「あたしは王子様が現れるまで妥協しなーいの!」と本気なのだか冗談なのだかよく判らない返事が返ってくる。
「二十代も中盤越えてその発言はどうかと思う……」
「ちょっ! それ結構ぐさっと来るんだけど!?」
「だってもういい歳だし、お互いに。……ていうか、何か用事?」
「あー、うんうん、別に用事って程じゃないんだけどさあ。もしそっちが暇なら一緒に呑まない? と思って」
「それは……いいけど、今から? どこで?」
「君のお宅で」
「……うん?」
「ちなみに今はもうドアの前です」
「はい?」
信じられない台詞に思わず訊き返した瞬間、ドアのインターフォンが軽快に来客を告げる。「あーけーてー!」と笑い交じりの声が携帯とドア越しに聞こえる。
まさかこんな漫画みたいなことを実際にやる人間がいるなんて。じくじくと疼き始めたこめかみを軽く押さえ、仕方なくのろのろと立ち上がった。この寒空の下で放置はさすがに可哀想というものだろう。
シリンダー錠をかちりと回し、仏頂面でドアを開けて小暮を出迎える。鼻の頭を真っ赤に染めた彼女は私とは対照的に満面の笑みで顔を彩っていた。手に持っていたビニール袋を掲げる。
「一人寂しいぼっち大晦日を過ごしている君のためにわざわざ酒とツマミ買って来てやったんだぞー! 喜べ!」
「別に頼んでないっていうか、人の意思を確認しないまま勝手にやって来るのどうかと思うんだけど」
「細かいことガタガタ言いなさんなー!」
玄関で立ち塞がっていた私を片手で退けて、小暮は我が物顔で家に侵入してきた。今更追い返すつもりもなかったからいいのだけれど、その横柄な態度には多少苛立ちが湧き上がらなくもない。どうせ言っても無駄なのは目に見えているので口にはしないが。
押し付けられた袋の中を覗き込むと、中身は私好みの酒に肴たち。――一応は家主に気を遣っているらしい。私は甘めの白ワインが好みだけれど、小暮の好みはウィスキーや焼酎だったはずである。
「あー、あったかーい。生き返るー」
ぐるぐる巻きにしていたマフラーを外し、小暮はエアコンの真下を陣取った。私はそんな彼女を横目に見つつ、ワイングラスを二つ用意する。
それをテーブルに置いてから、台所に戻って冷蔵庫を漁る。思っていた通り、消費が間に合わなかったレタスが多少残っている。それを洗い、千切って皿に盛り付けてから、袋の中に入っていた生ハムを上に飾った。そして仕上げにオリーブオイルと塩を少々。
「わー、一手間掛かってるぅ」
そのサラダを運んでいくと、小暮は嬉しそうに歓声を上げた。……一手間というほど手間は掛かっていないのだが、まあそう思わせておくのもいい。
「わーい、いっただっきまぁーす!」
箸を渡した瞬間に、小暮は嬉しそうにレタスを生ハムで巻いて頬張った。それを眺めながらワインを開封してグラスに開ける。華やかな葡萄の香りが広がる。
「いい香り。いいワイン買ったの?」
「ん、年末だからねー。奮発した」
グラスの淵に唇を付け、中の液体を口内に流し込む。口当たりが滑らかでひんやりとした冷たい甘さが心地よかった。さっきまで不味い蕎麦で年末を過ごしていたというのに、とそのギャップに一人で小さく笑う。
「ねえ、何でいきなりうちに来たの?」
美味しいワインを飲み込んでから口を開く。小暮は「んー?」と首を傾げた。
「だって君さあ、この間呑んだとき『実家に帰りたくないから元旦だけ顔出す』って言ってたでしょー?」
「……言ったっけ?」
確かにその予定ではあったけれども。自分では憶えがなくてきょとんとすると、「言ってたんですぅ」と小暮はあっけらかんとした笑いを響かせる。
「でもさー、ぼっちで年越しって寂しいかなーと思って。あたしも予定なかったし、帰りたくなかったし、来ちゃった」
「……なら事前に言ってくれたら良かったのに」
きっと誘われたら断りはしなかっただろう。そう思って言うと、小暮は「そんなのつまんないじゃーん?」とワインを煽る。
「サプライズしたかったんですよ、あたしは! どうですか、喜んで貰えましたか!」
「……まあ、うん」
生ハムと白ワインの瓶を見つめながら小さく頷く。――自分で言った記憶もない些細な呟きを気に留めてくれていたのは、素直に嬉しかった。それに一人で過ごす年越しも悪くはないが、小暮と二人で過ごす年越しのほうがきっと楽しい。
素直にその思いを言葉にすると、小暮は大学時代と変わらない顔で、にししっと歯を剥き出した。
「女友達と二人で過ごす年越しってのも中々乙なモンだよねぇ」
上機嫌な彼女の紅潮した頬に口元が緩んだ。ワインを飲むことでそれを誤魔化す。確かにこれもいいかもしれない、なんて思っていることが知られたら調子に乗ることは確実だ。
「この家の近くにちっちゃいけど由緒正しい神社あったよねー? 除夜の鐘聞いたら初詣行こう、初詣!」
「はいはい」
アルコールの手伝いもあってか、妙にはしゃいだ様子の友人の姿を肴にしつつワイングラスを傾けて、終わりゆく年に思いを馳せた。
大晦日
こういうのも、全然悪くない。
[mokuji]
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