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アメジストの骸
――わたしはね、死んだら紫水晶と成るのよ。どこまでも透き通る、あの美しい宝石に。
微笑みを交え、囁いた彼女の言葉を思い出す。空気は肺を刺すように冷たくて、ぱちぱちと爆ぜる焚き火に手を翳して暖を取ったあの夜。
嗚呼そうだ、あの日は美しいまでに恐ろしい星月夜だった。
――だからわたし、死ぬことは恐くないの。ううん、少し楽しみなくらい。
そして彼女の言う宝石によく似た紫色の眸が俺を捉えて細まった。
――ねえ、だからわたしが宝石に成るその日まで、どうかずっと、傍に置いて頂戴ね。
戦場では、幾つもの赤い華が咲いていた。
血液の毒々しいまでの赤色は、もうすっかり目に慣れている。相手の喉を横一文字に掻っ切って噴き出す赤は酷く鉄錆臭い。けれどその液体を被っても、もう悲鳴を上げることはなくなっていた。
身を翻すと同時に頭を下げて、後ろに迫っていた相手の攻撃を交わす。それから柔らかい腹に浅く刃を埋めさせ、ぐっとそのまま下に引いた。そのまま前に倒れかける奴の喉を、今度は深く裂いてとどめを刺した。
だが勿論それで攻撃が止むはずもない。敵は一体何人いるのやら、味方が殺されることなど意にも介さず襲撃を仕掛けてくる。まるで心がない操り人形のようだ。否、実際にコイツらは操り人形なのだろう。
人を殺めよと教えられ、自分に相手を殺すだけの力がなければただ殺められるだけの操り人形だ。なんて哀れな、とは思うものの、情けを掛ければ自分が殺られる。死にたくなければ殺すしかない。
――せめて楽に死ねるように殺してやる以外、慈悲の掛けようもないなんて。
まったく嫌な世界だと、顔を歪める隙さえ与えられない。
「く……っそ!」
叫んで剣を振り被る。肉を貫く感触をおぞましく思えなくなった自分が何より忌まわしく、それを発散させるには剣を握るしかないことも滑稽だった。
一人の首を飛ばし、また一人の喉を貫いた。そのときだった。流された夥しい量の血の海に足を取られ、俺の姿勢はぐらりと傾ぐ。
やばい、と思うより前に敵が眼前に迫っていた。銀の刃が日光を受けてきらりと光る。一秒もしないうちにそれが自分を殺すために動くだろうことを、俺は本能で知っていた。
戦では一瞬の隙が命取りだ。それは絶対の掟であり、俺もよくそれを知っている。だからこそ、俺はその瞬間に死を覚悟した。……まだ死ぬには若い気もするが仕方ない。死ぬならそのときが寿命なのだ。
そう思って迫る刃を目で追ったとき、後ろで自分の名を叫ぶ声が聞こえた。そして俺の命を奪うはずだった武器がふっと目の前から消える。現実を認識するより地面に尻餅をつくほうが先だった。
どさっ、と強かに尻を打つ。しかし痛みを感じるより立ち上がるほうが早い。身体に染み込んだ習性だ。
そして突っ込んできた敵をかわしてその項に刃を突き立ててから、俺は高い悲鳴を聞いた。ぞわりと全身がそそけ立つ。聞き慣れた耳は冷静に判断を下した。――きっとこれは、断末魔というやつなのだと。
思わず彼女の名前を叫ぶ。今すぐにも彼女の傍に駆け寄りたかった。けれど向かい来る敵は一向に途絶える気配がない。俺は喉が枯れそうな声で雄叫びを上げた。
ふざけるなそこを退け俺の邪魔をするな、死ね、死んでしまえ、俺の前を塞ぐ奴は皆くたばればいい。
――気付けばその場に立っていたのは俺一人だった。敵は全員地面に倒れ伏しぴくりとも動かない。転がる骸で地面は埋もれている。そしてそれを認識した瞬間に俺の脳は同時に悟った。
……彼女もその骸の一員となったのだと。
不思議と涙は出なかった。肩で息をしつつも頭は酷く冷静だ。命のやり取りをした後特有の高揚感さえもない。ただ俺はほんの数分前まで生きていたはずの身体を踏みながら、愛しい人の姿を探した。
「…………見つけた」
彼女は俺がいた場所から少し遠い場所にいた。
華奢な身体には不似合いに見えた無骨な長弓が地面にころりと転がっている。また近くには矢を入れるために彼女が背負っていた籠も転がっており、そこから落ちたのか矢が何本も散らばっていた。
しかし、そこに彼女の骸はない。ぽつんとそこに在ったのは、哀しくなるほどに透き通った深い色の紫水晶。――彼女の目の色と、同じ宝石。
俺がいる場所から離れているせいか、その周囲に死体はなかった。だから俺はその場に膝を付く。そして恭しく宝石を持ち上げて、既に暮れかけていた太陽の光に透かした。神々しいまでに石は輝く。心なしか、それはほんのりと温もっているような気がした。
きっと彼女は、俺を助けるために狙いをずらして矢を射たのだろう。そして気を逸らしたその一瞬のうちに殺されたのだ。そうとしか思えなかった。
砂埃を吸い込んだ喉がひりりと痛む。全身に負った幾つもの傷は熱く、きっと明日になれば腫れ上がって膿むだろう。痛みはそれこそ全身にあった。しかしそのどれもが気にならないくらいに、胸が破れそうに痛かった。
「……馬鹿野郎、俺を助けてもお前が死んだんじゃ意味ねえだろう」
絞り出した声が震える。それで限界だった。
感情の抑えが壊される。涙は後から後から溢れて止まらなかった。熱い雫は頬を濡らし、ぼろきれのようになった服を濡らし、地面を濡らす。紫水晶を掻き抱いて、俺はその場でひたすらに嗚咽した。
守れなかった。
俺は、愛する女のたった一人も守れなかった。
「くっそが…………」
確かに体温のあったはずの彼女はしんと冷たくなっていた。
抱き締めると柔らかかったはずの彼女はつんと硬くなっていた。
然程美しいわけではなかった、それでも笑顔は誰より愛らしかったはずの彼女は、孤高の美しさを得た無機物となってしまった。
「死んだらもう、人の形も、名残も、無くなっちまうのかよ…………!」
――わたしはね、死んだら紫水晶と成るのよ。どこまでも透き通る、あの美しい宝石に。
――だからわたし、死ぬことは恐くないの。ううん、少し楽しみなくらい。
――ねえ、だからわたしが宝石に成るその日まで、どうかずっと、傍に置いて頂戴ね。
アメジストの骸
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